旅とエッセイ 胡蝶の夢

横浜在住。世界、50ヵ国以上は行った。最近は、日本の南の島々に興味がある。

カルチャーショック

2015年05月07日 15時27分01秒 | エッセイ
カルチャーショック

 大学のゼミの先生(中国史)が言っていた。「若い時に、アジアのあの貧しさを膚で知るのは良いことです。」しかし20歳の若造にとって当時のカルカッタの街は、想像を越えて強烈だった。
 印度の旅は、出だしからしていい加減なものだった。大学のインケン(インド研究会)が募集した旅行に参加し、総勢15人で日本を飛び立った。中には未成年が数人、女性が1人(弟と参加)、ほとんどのメンバーが始めての海外旅行だった。ニクソンショックで1ドル360円の固定相場が撤回された翌年だったと思う。当時の航空運賃は、物価に比較して相当に高かったな。印度に着いてからはバラバラになり、少人数のグループに分かれて行動し、1ヶ月後に再集合して帰国した。自分はカルカッタの後、バラナシ(ベナレス)、サルナート、ネパールに入ってカトマンズとポカラ、そしてカシミール地方へ行った。それぞれに印象が深く、書きたい事は山ほどあるが全て割愛する。ここでは最初の街カルカッタで出会った若いお坊さんの話しをしてみたい。
 印度の旅はいい加減と言ったが、印度の国といい勝負な位、当時の僕ら自身がフニュフニャで頼りなかった。出発時に、トランクの中にパスポートを入れたまま預けた奴がいて、飛行機を危うく遅れさせるところだった。インド航空だったが、機内に入ってから座席がダブルブッキングされていると判明、座る所がない。ただこの時はそれが幸いし、何人かファースト・クラスに廻されたので、みんなで交代して座った。思えばあれが我が人生、最初にして唯一のファースト・クラスだ。その後飛行機には、軽く100回以上は乗っているが、ビジネス・クラスより上に行った事がない。
 カルカッタの到着は夜だった。着陸態勢に入ると機内は真っ暗になり、不気味な(そう感じた。)インド音楽が流れ、地上を見ると一面に灯りはあるものの、ポツリポツリとやけに暗くてやたらに広い街だった。これから先どうなるんだろう。泣きたくなった。胸がキュンとなるような、あれほど心細い思いをしたことはない。
 夜の空港はどこもうす暗くて、ベレー帽をかぶり半ズボンをはいた兵士(警官?)が、自動小銃を肩から下げている。ダラダラと果てしなく時間をかけた入国手続きがやっと終わり、空港から表に出た。ムッとする暑さ、香料と汗の匂い。何十人もの印度人が押し寄せてきた。「タキシー」「ホテール」「バクシーシ」その後アジアを一人で旅するようになり、そんなシチュエーションには、「おお来たか。よしよし、近う寄れ。」と余裕で笑えるようになるが、最初の一歩ではタジタジだった。何しろ印度人は目が鋭い。厚かましい。笑顔がない。白目の部分が異常に白く肌が黒いので、そのコントラストのきついこと。
 空港から気違いのように警笛を鳴らしてぶっ飛ばす神風タクシーに乗って、カルカッタの街に向かった。郊外にはアパートが見えるが、街の中心部に近づくにつれ汚くなる。ヘッドライトに浮かぶ街は汚水とごみの中に立ち並ぶ廃墟のよう。路上生活者とノラ牛が闇にうごめき、壊れた水道管から水がふき出ている。その時は、聖書に出てくる永遠に呪われた町、ソドムとゴモラとはここの事なんじゃないか、と思えた。
 本当に失礼な話しだけれど、その時の印象は全くひどいものだった。そして最初の夜から僕らはすんなりとは眠れなかった。深夜に到着したホテルで、「予約を受けていない。」「満室だ。」「明日来てくれ。」まあこんなトラブルは印度では当たり前。すんなり行った方がビックリする。ところがひとすじ縄ではいかないのが印度だ。安いボールペンを無くしキャップだけが残ったので、これは絶対出てこないとそのキャップを捨てたら、清掃の人がペンが落ちていた、と持ってきたので驚いた。
 街を歩けば乞食の大群。ハンセン氏病や指の無い人、腕の無い人、赤ちゃんを抱いた痩せた女乞食、乞食の子供達。インド服を買って着始めてからはずいぶんと減ったが、20人が10人になってもまだ10人。しかも残った10人は筋がね入りの精鋭だ。乞食の大群にあちこち触られ、服を引っ張られる。大勢で金寄越せってうるさい。レストランはやたらと時間がかかり、愛想は悪いは飯はまずいは、おまけにコップの水にボーフラがいて、飯にはハエがブンブンたかり、蟻がご飯から出てきたこともある。ただし物の値段はビックリするほど安かった。
 僕ら数人はカルカッタで印度では珍しい仏教のお寺の泊めてもらい、次の移動の準備をした。いくらかの寄進をして、小さな部屋を借りた。そこに新聞紙や毛布を敷いてザコ寝だ。暑い国だからそんなので十分だが、みんな次々とお腹をこわしていったのにはマイった。その寺には、日本の有名な寺の住職が一人で泊まっていた。気さくな和尚さんだった。
そのお寺で印度人の若いお坊さん達と仲良くなり、特にその中の二人とは良く話した。自分はその時20歳。二人のお坊さんは20歳と22歳で、22歳の方は真面目で、世の中の矛盾や信仰についてよく話していたが、20歳の坊さんは女の子や映画の話しばかりで、とんだ生臭坊主だった。自分が使っていた大きな十徳ナイフが気にいってしまい、「売ってくれ、いくらだ。」としつこい。千円もしない安物だったがスプーンは調法だし、旅は始まったばかりで手放す気はなく、のらりくらりとかわしていた。
 さて明日はカルカッタを発つという日、若い方の坊さんと一緒に、僕ら三人は彼の実家へ行った。三つほど年長のコダマ君と、自分と同い年のベンガリアンの三人だ。ベンガリアンとは、彼がとても日本人とは思えない。どう見ても自分達と同じベンガル人にしか見えない、と現地の人が言うのでついたアダ名。ただ僕らから見たら、そう言えばベンガル人っぽい?そう?という位だ。ちなみに自分は空手(当時は茶帯)をお坊さん達に教えたので、ついたアダ名がカラテマン。旅行中ずっとそう呼ばれていた。坊さんが実家に行く理由は、彼のお父さんが危ないから、という事で、そんな理由ならと遠慮したのだが、是非来てくれと熱心に言うので行くことにした。
 カルカッタの街から結構遠かったな。バスやリキシャを乗りついで2-3時間かかり、やっと彼の田舎に着いた。街の喧噪とは裏はらに、とても静かなだった。全然違う国に来たみたいだった。一面に畠が広がり、いかにも手作り掘っ立て小屋のような家に、貧しそうな服をまとった人々がひっそりと暮らしている。日中は暑いので農作業はやらないのだと思う。このの人々は、どこかおっとりと上品ではにかんでいる。カルカッタの街の、ギラギラした厚かましさが全く見られない。
 後で分かったのだが、このの人々はビルマ系の人達で、そのためなのか、田舎暮らしのせいなのか、僕らにはとても気持ちが良く、印度に来て初めて身も心も伸び伸びした思いだった(もっともゲリバラだからお尻は引き締めたままだ。)若い坊さんの父親は村の長老のような立場の人らしく、村人全員が彼の死を受け止めようと集まっていた。
 小屋に入ると強い太陽光が一気に遮られ、一瞬暗闇に投げ込まれるが、空気はひんやりしている。土間に粗末なベットがあり、人が寝ている。ドキッとした。一瞬死んでいるのかと思ったが、近づくと苦しそうにゼイゼイ息をしている。とても20歳の息子を持つ父親とは思えない、骸骨のようにやせ細った小柄な老人が、木のベットに横たわり、周りを親族と思われる人が数人、静かに取り巻いている。小屋にはベットと水瓶が置かれているくらいで、見事に何もない。後で分かるのだが、他の小屋も同じで、土間に家財道具の類が一切ない。炊事の道具が少々あるだけだ。着替えとか持ってないんかな。人間ってこんなに物を持たなくても生きていけるんだ。長老の死に際している為か、村人達は大変奥床しかったが、僕らには皆笑顔を浮かべて親切だった。
 間もなく死を迎えようという老人に、息子の僧は話しかけ我々が日本から来た友人である事を伝えると、息が苦しそうだったが、老人は二言三言口を開き、やっとのことで骨そのもののような手をベットからちょっと持ち上げ、僕ら三人とかわるがわる握手をした。全くいたたまれない。こんな事をして、この人の死期を早めるんじゃないか。老人は僕らに「良くいらっしゃいました。」というような事を言ったそうだ。
 その後別の小屋に案内され、僕らに食事を出してくれた。粗末だがちゃんとした食事だった。干からびた大地に総出で水を運び、有り余る太陽の光を受け、乏しい地中の養分をかき集めて育った野菜は、正しい食物の味がした。給仕をしてくれたお母さんは、僕らを息子達を見るような暖かい目で見守り、しきりにお代わりを勧めた。
 食事の後、坊さんが村のみんなに空手を見せてやってくれ、と余計な事を言い、村の人達5-60人が集まった。子供達はちゃっかり地べたに座って待っている。「こんな時に、人が死にかけているのに。」と思ったが、ここまで来ては仕方がない。そこら辺から見かけがごつそうな木の枝を探した。出来るだけ乾燥しているのがよろしい。ちょうど印度服は帯を締めれば、ゆるゆるの道衣に見えないこともない。一通り基本の型、次に前蹴り、横蹴り、回し蹴りに後ろ回し蹴り。受けに突きに手刀にひじ打ち一式を披露した後、集めておいた木の枝を片っ端からぶち折った。「オー」みんなは素直に感心している。子供達は真似をして大興奮。やっぱパフォーマンスだよね。
 別に空手でなくても、思い切りやれば乾燥した木は案外簡単に折れる。手品みたいなものだ。もういいかナと思い、終わろうとすると子供達が大きな木の枝を拾ってくる。『あっ生木はダメだって。』調子に乗って木の枝を折っている内に、折れた板がいやという程くるぶしに当たり、飛び上がるくらい痛かった。しかし膨れ上がって百人はいる観衆の前で醜態はさらせない。
 そこで自分は退場し、連れの二人にバトンタッチした。二人はこれが柔道、これが相撲と組み合った。他にすること無いんかね。でも歌はいやだしな。炎天下の運動ですっかり息が上がり、食事をした家に戻って土間で休んだ。イスだったか地べたにゴザだったか覚えていないが、ウトウトとしかけた時、声がかけられ老人が亡くなったことが告げられた。長くは持たないだろう、と容易に想像はついたが、さっき会って握手をしたばかりだ。太陽がギラギラしている表に出ると、さっきまで僕らのつたない演武を見て喜んで笑っていた村の人達が、静かに泣いている。先ほどの小屋に入ると、一回り小さくなった老人がすっかり死体となって横たわり、食事を出してくれたお母さんがベットの横で泣いている。他にも村人が次々に入っては出ていく。
 たまらんナー。こんなにダイレクトに人の死を見せられたのは、生まれて始めてだ。さて僕らの苦しくも楽しい印度の旅はこうして始まった訳だが、あので痛めたくるぶしは赤く腫れ上がり、その後十日間ほど自分を悩ませた。
 その最初の印度旅行から4-5年がたち、自分が小さな貿易会社に勤めていた時、自分を訪ねてジャージのような服を着た色の黒い外国人の青年がやってきた。君は誰?何で自分の名前を知っているの?話しを聞いてみると、彼はあのカルカッタの仏教僧だったんだ。彼は日本語がしゃべれるようになっていて、当時自分が渡した住所を頼りに実家に電話し、会社まで来たわけだが、大した行動力だな。彼はしきりに広島の原爆の悲劇、といった話しをし、この後自転車で広島、長崎へ向かうそうだ。
 どこぞの新聞で彼のことが記事になり、寄付金で自転車を調達したらしい。電車は自分で乗れると言うので、夕方横浜の実家のある駅で待ち合わせる事にした。彼はこれから印度に来ていた日本のお寺の住職に会いに行くと言う。あれ、そういえば若いお坊さんは二人いたよな。どっちだ。多分真面目な方だろう、と思ってよく聞くと女の話しばかりしていた方だった。真面目な方は、お坊さんを辞めたそうな。
 その日、何やら風呂敷包みを抱えた彼は、時間よりも早く駅に着いていた。彼の日本語は相当なレベルで、うちのお袋とも普通にしゃべっている。その晩のご飯は自分の部屋で二人で食べたが、彼が持っていた風呂敷の中には弁当が入っていた。今日の昼に訪ねたお寺の住職が手配してくれたもので、超豪華三段重ね8千円、といった自分が今まで見た事も食った事もないような弁当で、それは精進料理だった。
 彼は昼飯として、電車の中で食べようとしたのだが、さすがに昼の通勤電車で開けられなかったようだ。「一緒に食べよ。」ということで、その晩の食事のリッチなこと。高級料亭の板前が腕によりをかけてこしらえた料理は種類が多く、実にきれいに盛りつけられていてうまい。「こんなに一人で食べられる訳ないよね。」彼は小食だった。自分の家のお袋のおかずはどっかに霞んでしまったが、山芋のトロロ汁は彼の好みにフィットした。「これ何?おいしい。」言うので現物のトロロ芋を見せて説明し、口の周りにつけるとかゆくなる、という注意を与えた。
 彼はビルマ系印度人で仏教徒なので、食べ物のタブーは余り無さそうだ。食後色々な話しをした後で、一緒に自分のアルバムを見ていると、彼はよほどびっくりしたのか、「何んですか、これは!」と大きな声をあげた。それはスペインのマドリーの闘牛場のチケットで、背中に数本のやりを刺し血を吹き出しながら頭を下げて、マタドールに向かっていく雄牛の絵が書かれている。『あ、マズい』さらにマズいことに、その後数ページに渡って、馬の上から長い槍を牛の背に突き刺すシーン、マダドールが手にしたマントで牛をあしらうシーン、そしてついに剣で牛をしとめるシーン、極めつけは殺した牛の耳をそいで歓声を受けるシーンと熱狂する観客、と写真が並んでいるじゃあありませんか。「どうして、何の為に牛を殺すの?」一通り闘牛について説明したが、理解してもらうのは無理だろ。彼は相当なショックを受けていた様子だった。『アノネ、印度みたいにおとなしい牛じゃあないんだよ。』
 スペインの闘牛を知った事は、彼にとって日本に来て一番のショックだったようだ。その後彼とはもう一度会い、そこで音信が途絶えた。最初の目的の通り、自転車で広島に向かったのではないかと思う。まさか闘牛反対でスペインへは行っていないよな。
 それから十年近くたった或る日、新宿で黒っぽい僧衣をまとい、木枯らし紋次郎のような編み笠をかぶり、お金を入れるザルを胸の前に下げた褐色のアジア人を見かけた。年格好からいって彼じゃないかな、とドキンとした。けれどもその時こっちは仕事中だったし、その人物はお経らしい物をブツブツ唱え、かなり険しい顔をしていたので、『そうかな?そうじゃないかな?』と迷いつつ、ついにその場を立ち去った。今ではちょっと心残りだ。その後彼と会うことはなく、ごめん、名前も忘れてしまった。








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