「北の山・じろう」日記

内容は主に時事問題。時々株式投資関係の記事も交じります。

デニソワ人についての新しい研究<2024.07.07

2024-07-07 18:42:14 | 歴史

謎の古代人類デニソワ人、チベット高原で10万年あまり生存 新研究
2024.07.06 Sat posted at 16:10 JST
https://www.cnn.co.jp/fringe/35221146.html

デニソワ人
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%83%8B%E3%82%BD%E3%83%AF%E4%BA%BA

デニソワ人の骨の発見
『2008年にアルタイ山脈のシベリア・デニソワ洞窟から出土した女性の指の骨

女性の指の骨から抽出したミトコンドリアDNA(mtDNA)に基づいて2010年にデニソワ人の個体が初めて特定された』

と言うわけでデニソワ人が特定されたのは、ごく最近のことです。遺伝子解析技術の劇的な進歩が、これまで不明だった様々な過去のことを現在に蘇らせています。

『2010年3月25日付のイギリスの科学雑誌『ネイチャー』において、マックス・プランク進化人類学研究所の研究チームは、発見された骨のミトコンドリアDNAの解析結果から、デニソワ人は100万年ほど前に現生人類から分岐した、未知の新系統の人類だったと発表した。DNAのみに基づいて新種の人類が発見されたのは、科学史上初めての事である。 』

徐々に現生人類の過去も判明しつつあります。
私にとっては、不思議以外の何物でもありません。
たった小指の骨1本で、これだけのことが分かりました。
今度は、これまでよりは標本を探しやすいと思います。
標本があれば比較が出来ます。

デニソワ洞窟は、こんな洞窟だそうです。

デニソワ洞窟画像

そして100万年以上前に現代人と分岐した未知の古人種がいると言うことです。
まだ発見されていない人類の祖先がいるのも当然かもしれませんし、不思議でもあります。

※ほかの記事
デニソワ人が語る人類祖先のクロニクル
https://www.natureasia.com/ja-jp/ndigest/v8/n3/%E3%83%87%E3%83%8B%E3%82%BD%E3%83%AF%E4%BA%BA%E3%81%8C%E8%AA%9E%E3%82%8B%E4%BA%BA%E9%A1%9E%E7%A5%96%E5%85%88%E3%81%AE%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%83%8B%E3%82%AF%E3%83%AB/36475


日本人はどこから来たのか❓&日本語の祖語(そご)とは❓<2024.1.26

2024-01-27 07:06:18 | 歴史

(1)日本人はどこから来たのか❓
(2)日本語の祖語(そご)とは❓

(1)日本人はどこから来たのか❓
人類の祖先はアフリカで誕生しアフリカを出て西アジアから3方向に広がっていったというのが通説です。

約5万年前
①ヒマラヤ山脈の南を抜けて東南アジアからオーストラリア大陸 オーストラロイド
②ヒマラヤ山脈の北を回ってシベリアへ モンゴロイド
③ユーラシア大陸西部 コーカソイド
2021/12/14

そしていつ日本列島に人類が到達したかについてはまだ通説と言える見解は確定していないと思います。

2016年に提唱された仮説
『3万8000年前、日本人の祖先は意外な方法で日本にやってきた』
従来の定説を覆す新理論が解き明かした真実
2016.2.10 5:02
https://diamond.jp/articles/-/85973
要約
国立科学博物館の人類史研究グループ長、海部陽介氏
海部氏の著書『日本人はどこから来たのか?』
日本の遺跡は改めて吟味すれば、世界に例を見ないほど充実しています。
初期のホモ・サピエンスが活動していた旧石器時代の遺跡は1万ヵ所以上ある
そして、そのほとんどが、3万8000年前以降に爆発的に現われているのです。
これは、我々の祖先が3万8000年前(本州)に到来したとしか考えられません
沖縄列島には3万年前に祖先が現われた

これが、最初に日本列島にやってきた人々です。
3万8000年前には日本は大陸とは陸続きではなく、船で海を渡ってきた・と言う仮説です。
だから最初は陸路ではなく海路で段々居住地が広がっていったのであろうとしています。その根拠が石器に使われていた黒曜石で結構、遠い海に近いところから採取して使っていたようです。これは海路でないと無理だからです。
江戸時代の運輸も海路が中心です。大体、同じ理屈だと思います。
これが古代の日本人の原型です。
その後、どうなったのか❓

『日本人の「完成」は古墳時代だった? DNAを分析、ルーツに新説』
石倉徹也2021年9月18日 3時00分
https://www.asahi.com/articles/ASP9K55ZJP9JULBJ00Z.html

航海術の発達により大陸や朝鮮半島から多くの人々が渡来したようです。
記事の要約
土着の縄文人 大陸から渡来した弥生人
大陸からの渡来人の大規模な移住は、約3千年前の弥生時代
それ以降も漢民族などの集団が次々に渡来し
さらに大陸からの渡来が進んだ古墳時代になって古墳人が渡来

弥生人は、中国東北部の遼河流域など北東アジアで多く見られる遺伝的な特徴を持ち、縄文人と
混血していることも確認できた。

一方、古墳人は、弥生人が持っていない東アジア人に多く見られる特徴を持っていた。

「日本人が縄文、弥生、古墳の三つの祖先集団からなることを示す初めての証拠だ。今後、ほかの古墳人や弥生人のゲノムを広く調べることで、日本人の起源の謎に迫っていきたい」

遺伝子解析技術の進歩が、これまで曖昧だった事を解明しつつあるようです。
要は、移民に次ぐ移民が古代に渡来した古代日本人と混血して出来上がったのが、日本人のようです。
だから日本人を見ると東アジアの各地の人と似た人がいます。蒙古人・朝鮮人・中国人。どっちかと言うとご先祖に似ている人は結構います。東南アジア系もいますし、太平洋系も見ます。
北東アジア+東南アジア+少数の太平洋民族の混合体が日本人を形成しているように見えます。
それらの諸民族が混血を繰り返し、共通の文化や言語を生み出して、現在の日本人が形成されたのであろうと思います。

これで、やっと(1)が終わり・・・

(2)日本語の祖語(そご)とは❓
これが、また良く分かっていません。
日本人の一番最初の祖先は、最新の仮説で考えると38000年前から急激に増え始めた多分大陸方面の海洋民族だと思います。
だからこの「海洋民族の話していた言語が、日本語の祖語である」・と言う仮説も成り立ちます。
38000年前からだと、どの語族に属していたのかは調べようがありません。

その古代日本語に次々と渡来した人々の言語が混じって、現在の日本語の原型が出来上がったのであろうと思います。だから、祖語が分からなくなっているのだろうと思います。

では、その複数ある言語のうちどの言語が多く残っているのか❓

これについては、沢山の仮説があります。
2020年にマーティン・ロベーツが提唱した仮説。
2020年ですよ❓
「いかに分からないか❓」が分かると思います。
それによると・・・
「トランスユーラシア語族」
(チュルク語族、モンゴル語族、ツングース語族、日本語族、朝鮮語族から成る語族)
※日本語族と朝鮮語族が姉妹群を成す

これが最新の仮説です。
もう少し各論的な仮説は・・・・
高句麗語同系説
百済語同系説
などが、あります。

百済語同系説
『古くは儒学者の新井白石 (1717)により提唱され
2000年代になって数学者の金容雲らにより提唱されている』
これが有力な仮説のように思います。

今は日本語と朝鮮語はかなり違いますが、高句麗や百済の時代には全部ではないにせよ結構、会話が出来ていた可能性があります。

高句麗
https://hugkum.sho.jp/226515
『高句麗は、紀元前37年に、中国の東北地方(旧満州)で興った国です。「ツングース系扶余(ふよ)族」出身の「朱蒙(しゅもう、東明王ともいう)」という人物によって建国されたといわれています。』

※日本は百済と同盟を結ぶ
『百済が滅ぼされたときも、日本は百済の生存者を支援して、唐と争うことを決めます。日本は661年から3回にわたって出兵しますが、「白村江(はくすきのえ)の戦い」で唐軍に敗れ、百済の再興もかないませんでした。』

当時の日本は、元々の渡来人に加えて朝鮮半島から避難してきた多くの渡来人も居住していたと思われます。朝鮮半島諸国との関係は、今では考えられないほど親密であったことが分かります。ほぼ姉妹国家と言えるのではないか・と思います。
古代日本人が海洋民族であったから、こんな古い時代に渡海作戦が可能だったのであろうと思います。

そして日本語の祖語の一つであろう言語も出てきます。
「ツングース系扶余(ふよ)族」です。
この部族の言語が、朝鮮半島と日本列島の共通語として話されていたと仮定すると❓
「高句麗語同系説」や「百済語同系説」はかなり根拠が強くなります。

「この時代に共通語として使われていた言語が、朝鮮半島では朝鮮語に変化していき日本では日本語に変化してきた」・と考えると仮説の筋道は、通ります。

昔のことを考えるのは、楽しい謎解きです。
科学技術の進歩が、これまで分からなかった事を沢山解き明かしてくれるのであろうと期待しています。


女子サッカーの歴史と差別の歴史<2023年8月

2023-08-06 21:16:56 | 歴史

ワールドカップ
女子チームは、ノルウエーに3-1で勝利して準々決勝(ベスト8)進出を決めました。次は、アメリカVSスウエーデンの勝者との激戦です。ここで、もし勝てば2回目の優勝も見えてきます。

女子サッカー
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%B3%E5%AD%90%E3%82%B5%E3%83%83%E3%82%AB%E3%83%BC

『女子サッカーはその存在を認められるため、長きに渡り苦闘を経験してきた。1920年代初頭、イギリス国内で女子サッカーが最初の黄金時代を迎えていた時代、いくつかの試合では50,000人を超える観客を集めていた。しかし1921年12月5日、イングランドサッカー協会において会員であるクラブによる投票が行われた結果、1971年7月にこの決定が撤回されるまで、女子サッカーはイングランド国内において排除されることとなった。』
『イングランド史上初の女子サッカー公式戦は1895年にロンドンで行われた。』

このころが女子サッカーの芽生えた時代です。
その後、第1次世界大戦が勃発しその戦争の間に女子サッカーはヨーロッパで広がっていきます。

しかし、その流れを妨害したのが・・・
『「サッカーは女性のからだに有害」という根拠の薄い理由付けにより不当な扱いを受け、さらに1921年にはFAが女子チームに対してグラウンドの貸し出しを禁ずる命令を通達。そのため一時は試合どころか練習会場すらままならない状況が続いた。』
このような偏見と差別です。
女子サッカーの歴史は、偏見と差別との闘いとも言えます。

第2次世界大戦後もその流れは続きます。
しかし1950年代に男女同権の流れが世界に浸透し始め、1960年代にはアメリカ合衆国でウーマン・リブが興るなど女性に対する社会の風潮が変わり始めると徐々に女子サッカーが浸透し始めました。

共産主義国では、元々男女同権ですから東ヨーロッパの国々では女子チームが作られて女子サッカーが浸透していきます。
東アジアでも台湾、シンガポール、タイ王国で女子サッカーが盛んになり、女子のスポーツとして大きく浸透した。

頭の頑迷固陋なヨーロッパのサッカー関係者が・・・
『1970年、FAは女性に対するグラウンド使用禁止の通達を破棄。』
1971年には国際サッカー連盟(FIFA)が初めて公認した女子代表の国際試合「フランス対オランダ」が行われました。

女子サッカーの偏見と差別が撤廃されるまでに50年近い歳月が必要でした。差別と偏見の酷さには、呆れるばかりです。
これが先進国である国際サッカー連盟(FIFA)が行ってきた事です。頑迷固陋!差別と偏見そのもの!

そのFIFAは、女子ワールドカップを創設して早速、金もうけを始めました。

結果としてサッカーにおける男女平等は形式的には実現しました。
今は、男女同一賃金を求めて闘争中です。

※やはり男女平等を大きく妨げたのは、2度の戦争の時代だと思います。
例えば、日本でも大正デモクラシーの時代がありました。ドイツは、その当時今より民主主義的な国家であったかもしれません。
そんな時代が、ほんの短期間ありました。

女子サッカーの歴史となでしこ ― イギリスから世界に普及(1/2)
2021.08.20
https://kegenpress.com/women-football-history1/
なでしこリーグの歴史を知ろう 第2回「日本の女子サッカー」
2021年08月12日
http://www.nadeshikoleague.jp/serial/2021/0812_1520.html

『最近になって、約100年前の大正時代(1912~1926年)に、日本のあちこちで女性がサッカーをしていたという資料が発見され、注目されています。』

日本でも大正デモクラシーの時代には、女性がサッカーをスポーツとして楽しんでいた事が分かりました。日本の場合は、偏見と差別は殊更に酷く、それは軍国主義の台頭と供に封殺され戦後も長くその風潮が続きました。

戦後、初めて女子のサッカーの試合が行われたのは・・
『1966に兵庫県にできた2つのチームであることはよく知られています。ひとつは神戸市灘区の福住小学校の6年生女子26人でつくられた「福住女子サッカースポーツ少年団」、もうひとつが西宮市の神戸女学院中等部の3年生15人によってつくられたチームでした。
 この2チームは、翌1967年の3月19日に神戸市灘区、福住小学校のすぐ近くにある王子競技場で対戦しました。これがいま知られている日本の女子サッカー最古の「試合」です。主審と2人の副審(当時は「線審」と言いました)も、女性が務めました。』

このころからサッカーをする女性が増えていき、徐々に女性がサッカーをする事への偏見と差別が少なくなっていって現在に至っています。

最初、小学生の女の子たちがチームを作って試合をした時など、物凄く批判されたのではないかと思います。でも、それに負けず女子サッカーの関係者は努力を続けました。その結果として今の女子サッカーがあります。

この傾向は、日本のみならず世界的なものです。
偏見と差別が、いかに害悪のあるものであるかを証明しています。

しかし、サッカー以外の部分で偏見と差別は沢山残っています。戦争の時代がなければ、この偏見と差別は、もっと早い時代に克服されたと思います。戦争をする害悪は、現実に見えるものだけではありません。社会全体に害悪を及ぼすことが分かります。場合によっては、劣化と退化をももたらします。


山本五十六元帥海軍大将を振り返る<2023年8月

2023-08-05 20:01:06 | 歴史

旧日本海軍、乱数表を使い回し 山本巡視電は指示に反する運用 米が暗号解読、長官機撃墜・機密解除史料
2023年08月04日08時00分
https://www.jiji.com/jc/article?k=2023080300722&g=soc

この記事は、アメリカの公文書を細かく読んでこの事実を解明しました。
しかし、戦時中から疑われていたことで敢えて旧日本海軍が無視していた経緯があります。外務省暗号も同じです。外務省暗号については、ドイツ側から情報漏洩のリスクが指摘されていたにも関わらず無視しました。

そしてそれを関係者への取材から丹念に調査してそれを本に書いた人がいます。アメリカ側の関係者に取材して具体的にどのようにして暗号を解読したのかを調査していました。

その本が・・
情報戦の敗北―なぜ日本は太平洋戦争に敗れたのか
(PHP文庫) 文庫 – 1997/3/1
暗号に敗れた日本 太平洋戦争の明暗を分けた米軍の暗号解読
原 勝洋 (著), 北村 新三 (著)

どちらかだと思います。

山本五十六海軍大将は1943年4月18日ラバウル基地を発進後、アメリカ海軍戦闘機の待ち伏せ攻撃を受けて戦死しました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E6%9C%AC%E4%BA%94%E5%8D%81%E5%85%AD

その経緯は、上記に詳しく書かれています。もうその時は海軍暗号はアメリカ側に完全に解読されており、アメリカ軍は事前に衝撃計画を立てて最終的にアメリカ海軍情報局は4月17日に正確な日次・コースを把握し太平洋艦隊情報参謀エドウィン・レイトンが即断して南太平洋方面軍司令官ウィリアム・ハルゼーに対する命令書を作成したとあります。
前日に情報を探知して、当日急には出来ませんから重要人物がラバウル基地に来て移動する情報は早いうちにアメリカ側が探知して事前に襲撃計画を立てていたと思います。

※山本五十六元帥海軍大将については、日本海軍の名将の評価があるのではないでしょうか?

しかし、おそらく一番評価の高いハワイ真珠湾攻撃は、ほぼ奇跡を頼りにした丁半博打戦術です。あまりにもアメリカ海軍が怠慢であったために日本海軍の連合艦隊のハワイ接近を探知できなかったためです。もし、探知されたら壊滅に近い損害を被ったと思います。

開戦直後、取るべき戦術ではありません。外れたら、即負けですから、絶対に採用してはならない作戦計画です。

その後、日本海軍は勝ち続けます。それはアメリカ海軍の準備不足と日本海軍と海軍戦闘機部隊に対する研究不足によるものです。日本海軍は勝ち続けた理由は、開戦前に徹底的な訓練をして戦争に備えていた点にあります。戦闘艦であれ海軍機であれ訓練は十分、アメリカ側の兵士とは比較にならない戦闘力を発揮した結果です。

大本営や海軍参謀本部が優れていたからでは、ありません。

そして奇跡のようなフィリピンのアメリカ軍航空基地におけるアメリカ軍戦闘機部隊の壊滅がありました。

ハワイ奇襲されるの連絡は、当然フィリピンのアメリカ軍航空基地に伝えられました。当然、各基地から全機飛び立ち、今や遅しと日本海軍機の襲撃を待ち受けていました。

日本海軍側の出撃基地である台南基地では?
夜中から出撃準備が始まり早朝には、フィリピン上空に到達する予定でした。
ところが?
燃料と爆弾を一杯に積載した一式陸攻が離陸に失敗して大破炎上しました。滑走路が使用できるようになったのは昼頃だそうです。
基地の司令部は「どうしよう?」と相談したそうです。
「どっちにしても行くんだから今日行こう」
と言うことで話がまとまり、出撃してフィリピン上空に到着したのが昼過ぎでした。

そうなると、アメリカ軍の戦闘機は燃料が足りなくなります。全機、一斉に飛び立ったものだから全機一斉に燃料が不足し、地上で燃料補給している時に、たまたま日本海軍の襲撃部隊が到着しました。

こうしてアメリカ軍フィリピン基地の戦闘機や爆撃機は、1日にして壊滅しました。

これが日本海軍が、開戦後圧倒的に勝ち続けた本当の理由です。特にフィリピン基地の件は、実際に襲撃に参加した日本海軍のエースパイロットの阪井三郎氏が手記の中で詳しく述べています。

超半博打と2回はない大まぐれが、初戦大勝利の理由です。

※途中省略し、ミッドウェー海戦を考えます。
1942年(昭和17年)6月5日から7日、ミッドウェー島周辺で行われたミッドウェー海戦は、日本海軍のボロ負けすぎる完敗でした。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%83%E3%83%89%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%BC%E6%B5%B7%E6%88%A6

おそらく世界の大きな海戦を見ても、まれにも見ない愚かすぎる作戦でした。
◎作戦自体が机上の空論です。
◎作戦目的が2つあり最後まで、どちらなのか徹底されませんでした。
◎作戦の海域が遠すぎて、そもそも日本海軍の行動可能範囲を遥かに超えています。
◎アメリカ海軍の戦力を過小評価しすぎています。だから、こんな無理な作戦を実行しました。

アメリカ海軍との遭遇戦になり激戦でしたが、地上の航空戦力がある分アメリカに分があったようです。結果、日本海軍は空母全部とそれに搭載していた戦闘機や攻撃機の全機、そして何より大切な多くのベテランパイロットを失いました。日本海軍の機動部隊のほとんどが、人員を含めて壊滅したと言えます。

このような日本の基地から遠く離れた補給もまともに出来ないようなアメリカ軍の支配下にある海域で全力投球した博打作戦は、ボロ負けの目が出ました。

簡単に言うと、真珠湾では博打の目が日本の勝ちに出て、ミッドウエーでは負けの目に出たことになります。

だから、そのようなリスクのある作戦に機動艦隊の全戦力と言えるような戦力を投入する作戦は、してはならないのは当然です。

もし、必要があるならば日本の勢力圏の中、または近くで行うべきであるのは、普通にわかることです。

そのような作戦計画を主導した山本五十六元帥海軍大将は果たして名将であるのかどうか?

私は、大きな疑問を持っています。もし他に海軍の作戦計画を主導する大将がいたら、違う作戦を考えたかもしれません。

ミッドウェー海戦の敗北が、その後の日本海軍の敗北を決定したと言えます。それを主導した大将は批判があって当然だと思います。海軍参謀本部にも大本営にも同じ批判は、あるにしても不要な大海戦であるミッドウェー海戦を主導した落ち度は、大きいと思います。

乃木希典大将の事を思い出します。
司馬遼太郎の「坂の上の雲」に詳しく、当時の事情が書かれています。
そこには陸軍の乃木希典大将と海軍の東郷平八郎元帥が出てきます。
山本五十六元帥海軍大将は、東郷平八郎元帥には全く似ておらず、乃木希典大将に共通する部分が見えるように思います。

そもそも負け戦の原因を作った将軍が評価されること自体がおかしいと思いますし、作戦計画も誤ったものであるなら評価はありません。

※あり得ないだろう!と思える事。
『日本へ帰還後の作戦研究会でも「屍に鞭打つ必要なし」として、大敗北の責任の追及や敗因研究が行われることはなかった。7月12日、山本以下連合艦隊司令部参謀達(宇垣は参加せず)は料亭で宴会を行い、着任したばかりの土肥一夫少佐によれば一同何事もなかったかのように陽気であったという。』

つまり?大敗北について誰にも責任は、なかった事になります。落ち度もありませんでした。


インドネシア独立戦争で戦った元日本兵<2023年6月

2023-06-22 19:02:26 | 歴史

両陛下、元日本兵も埋葬の英雄墓地で供花
2023年6月20日 15:36 発信地:ジャカルタ/インドネシア [ インドネシア アジア・オセアニア ]
https://www.afpbb.com/articles/-/3468988?cx_part=top_latest

戦争に負けた後、母国に戻らず植民地独立戦争に参加した元日本の兵士や将校がいます。帰らぬ人となった人もいますし生きて現地の女性と結婚してその地にとどまった人もいます。

大日本帝国の多くは、間違いでした。しかし、その戦争目的の中には植民地解放もあったのは事実です。だから、日本の敗戦後連合国に降伏する事を拒み、独立戦争に参加した人々がいました。

8月15日を過ぎても戦争を続けた日本兵の末路 「帰りたくても帰れなかった」男性が語った理由
2020/08/19 11:30
https://toyokeizai.net/articles/-/369751?page=2

残留日本兵
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AE%8B%E7%95%99%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%85%B5

インドネシアと同数程度の元日本兵がベトナムでも戦っています。それが立派だと言っているのではありません。しかし、時代の記憶です。


(遊牧民の帝国)匈奴の謎が蘇る・<2023年4月

2023-04-20 13:02:23 | 歴史

古代の遊牧民が築いた帝国の秘密、DNAで解明
2023.04.19 Wed posted at 18:07 JST
https://www.cnn.co.jp/fringe/35202772.html

古い時代には、記録に残っていない帝国は沢山あります。
特に中央アジアは、東西どちらにも記録が少なく蛮族扱いされています。

社会の上層にいた人たちの墓の発掘や遺伝子解析により、これまでとは異なる研究がされるようになりました。

「実際のところ匈奴が残した影響は強大で、ユーラシア大陸の平原を起源とする後世の遊牧民族の王国も彼らに感化されていると、ミラー氏は語る。チンギスハンを初代皇帝とするモンゴル帝国もその一つだという。」

つまり、中央アジアの最初の遊牧民帝国である可能性が示唆されています。

古代中国や古代ギリシャの文献による記録しかありませんでした。だから、中央アジアの蛮族の扱いになります。
匈奴
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%88%E5%A5%B4

ほぼ中国の史書に記されたとおりに理解されていましたが新しい事が判明するかもしれません。


古代ローマ帝国、今も残る巨大建築遺跡<2023年4月>

2023-04-13 09:29:30 | 歴史

古代ローマの建物はなぜ長持ちするのか、科学者が謎を解明
2023.04.09 Sun posted at 17:30 JST
https://www.cnn.co.jp/style/architecture/35200239.html

研究の結果、現在にもないハイレベルなコンクリートをローマ帝国全体で使用していたことが分かりました。それが、今も残る巨大建築遺跡の一番の理由でしょう。

もちろん、それだけではなく優れた建築技術やデザインもあります。

その後、この建築技術や建築素材は忘れられてしまい、今でも同じものを今の技術で作ることが出来ません。

ただ、ヨーロッパの建築物には似たような発想が見られます。建てたら、メンテナンスして長く利用する発想です。何百年も使われてきた建物は、結構あります。


(全体としての)正教会(キリスト教)<2023・3・19>

2023-04-08 10:35:49 | 歴史

正教会
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E6%95%99%E4%BC%9A
「正教会は使徒継承を自認し、自身の歴史を1世紀の初代教会にさかのぼるとしている。」
ローマ帝国の東西分裂が395年です。
だから、それまではキリスト教であり、現在のような形ではありません。分裂後は、正教会が東ローマ帝国の国教となります。西ローマ帝国のキリスト教は、西ローマ帝国の国教となり、時間とともに正教会との関係が薄れ現在のローマ・カトリックを形成し行ったという流れがあります。
現在では、ローマ・カトリックの方が西ヨーロッパ社会の発展とともに世界に広がりました。信者数の多さからローマ・カトリック教が、キリスト教として認識されています。

しかし、元々のキリスト教は、正教会の呼称を名乗ります。要は、キリスト教の本流は正教会にあるという意味ですね。
その後、東ローマ帝国の国教となった正教は、その帝国の中で広がっていきます。そして地理的な位置関係から主に東ヨーロッパに普及していきます。その後、東ローマ帝国は滅亡し、東ヨーロッパの正教会の信者が活動の主流となります。

そして正教会独特の組織構造も形成されていきます。
正教会の教会機構一覧
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E6%95%99%E4%BC%9A%E3%81%AE%E6%95%99%E4%BC%9A%E6%A9%9F%E6%A7%8B%E4%B8%80%E8%A6%A7

その歴史的生い立ちからして、発祥時代の古い正教会が宗教的権威を持ちます。

コンスタンディヌーポリ総主教庁下のコンスタンディヌーポリ教会
アレクサンドリア総主教庁下のアレクサンドリア教会
アンティオキア総主教庁下のアンティオキア教会
エルサレム総主教庁下のエルサレム教会

言ってみれば、これが4大権威と言えます。
順位は、上から順番です。
これが、「独立正教会」と呼ばれる最も上位の正教会です。

その後、徐々に「独立正教会」として認められるメンバーが増えていきます。「独立正教会」のメンバーは、基本的に平等です。上下の関係ではなく、横の関係です。

しかし、4大権威は今も残りその最上位がコンスタンディヌーポリ総主教です。

その「独立正教会」の下に下部組織として「自治正教会」と「自主管理教会」「非自治教会」「他教会から承認を得ていない教会」などがあります。

その下に地域の正教会があります。

通常は、正教会はその上部の正教会に属しておりその上部の教会は、「独立正教会」のどこかに所属しています。

「独立正教会」に昇格すると言うことは、「独立正教会」評議会とでもいうべき世界の正教会の最高機関の一員になると言うことなのです。

つまり、コンスタンチノープル正教会総教主の承認を得てウクライナ正教会は、「独立正教会」のメンバーに昇格しました。「独立正教会」はウクライナ正教会が16番目の承認です。

正教会の組織図は、このようになっています。
ロシア正教会の傘下から離脱して「独立正教会」として認められる事には、このような重要な意義があるのです。
ロシア正教会は、それを妨害しようとしましたがウクライナ正教会の独立を妨げることは、出来ませんでした。簡単に言うとロシア正教会の行動が、よろしくないと言うことを他の「独立正教会」が認めたからだと思います。

ウクライナ正教会が「独立正教会」となった以上、自分たちのことは自分たちで決められます。だから戦争遂行に協力する邪悪なロシア正教会系正教会を追放することには、何ら問題はありません。「独立正教会」として認められたから、このようなことが可能です。
つまり、ロシア正教会はウクライナ正教会とは対等の立場にあり、ロシア正教会は侵略戦争に全面加担した以上は、他の「独立正教会」のメンバーから批判されます。正教会の名を貶めたからです。通常であれば、除名・格下げがあってしかるべきです。

正教会がピラミッド型の組織構造でありロシア正教会が、そのトップであれば、無理難題を押し通せるかもしれません。

しかし、正教会が「独立正教会」のメンバーによる合議制である以上、ロシア正教会の決定的な誤りは、他のメンバーから批判を受け、それを改めなければ何らかの処分が下ると思います。

最も重い処分は、「破門」です。
ロシア正教会以外のメンバーは、ロシアのウクライナ軍事侵略を「非」としています。
ロシア正教会は、世界中の宗教団体から非難されています。それは、そんなに軽いものではありません。


ウクライナ正教会(キリスト教)<2023・3・18>

2023-04-08 10:34:28 | 歴史
 

そもそもの始まりは、キリスト教が西ローマ帝国と東ローマ帝国で別れました。その後、同じキリスト教でありながら違う道を歩みます。
西ローマ帝国の方が、現在のローマン・カソリックです。
今、キリスト教と言うとこのイメージを持つ人が多いと思います。

一方で東ローマ帝国の方のキリスト教は、キリスト教と言う呼称を使わず、「正教会」と言う呼称を使います。

だから、カトリック系キリスト教と(東方キリスト教)正教会にそれほど、教義や信仰に大きな違いは、ありません。

しかし、組織の在り方が大きく違います。
カトリックの方は、ピラミッド型の組織構造です。
これは、誰が見ても分かります。

一方、正教会の方は歴史的に権威のあるとされる大きな正教会の連合体です。その大きな組織の下に中ぐらいの組織があり更にその下にその地方地方の正教会があります。
全部、呼称が正教会なので知らない人は、首をひねることになります。

ウクライナ正教会の説明
在ウクライナ日本大使館
https://www.ua.emb-japan.go.jp/itpr_ja/00_001227.html

大体、大雑把に正しく説明しています。
歴史的な経緯は省略しそれ以前は、ウクライナ正教会は、ロシア正教会の傘下の組織でした。大きな正教会としては認められていませんでした。

しかし、その後平成30年にコンスタンティノープル正教会総主教が、ウクライナ正教会を独立した組織として認めました。つまり、これをもってウクライナ正教会は、大きな組織のメンバーとして認められました。
その大きな意味は、ウクライナ正教会の中の事柄はウクライナ正教会内の合意によって形成することが出来ると言うことです。

この時点で、ロシア正教会とウクライナ正教会は同等の立場になりました。

それ以後は、ウクライナには
ウクライナ正教会系の正教会
ロシア正教会系の正教会
どちらにも属さない独立系の正教会
が、存続することになりました。
簡単に言うと、大組織のロシア正教会からコンスタンティノープル正教会に所属を変えたということです。その代わり、ウクライナ正教会は独立した地位を得ました。

翌年、正式に独立したウクライナ正教会が発足します。

ウクライナ正教会が独立、「長い道のりの第一歩」と専門家
2019年1月6日 12:56 発信地:イスタンブール/トルコ [ トルコ 中東・北アフリカ ウクライナ ロシア ロシア・CIS ]
https://www.afpbb.com/articles/-/3205190

これには、ウクライナの独立やロシアのクリミア侵略やドンバス地方への軍事介入などが大きく影響しています。

ロシア正教会の総教主は、ロシアの独裁者に宗教的な権威を与え、様々なロシアの侵略行為の正当化に寄与して行きました。宗教の権威としてあるまじき行為です。そのためウクライナ正教会は、ロシア正教会からの分離と独立を図ったという経緯があります。それを宗教的権威の面から認めたのが、コンスタンティノープル正教会総主教です。

このような事情が分からないと以下の記事の内容を理解できないと思います。

ウクライナ正教会が旧モスクワ系聖堂でミサ 宗教の「脱露」象徴
2023/1/8 09:48
https://www.sankei.com/article/20230108-FRKVW7MDABJP3DEMGCHXIDZXMI/

ウクライナ政府、ロシア系正教会に立ち退き要請
2023年3月17日 16:09 発信地:キーウ/ウクライナ [ ウクライナ ロシア ロシア・CIS ]
https://www.afpbb.com/articles/-/3455876?cx_part=top_category&cx_position=5

ローマ教皇、宗教の政治利用に警鐘 ロシア正教会批判か
2022年9月15日 13:55 発信地:ヌルスルタン/カザフスタン [ カザフスタン ウクライナ ロシア ロシア・CIS ]
https://www.afpbb.com/articles/-/3423990?pid=24877628

ロシアのウクライナ侵略戦争を肯定し精神面からそれを支えるのが、現在のロシア正教の総教主です。
だから、簡単に言うとウクライナ国内におけるロシア系正教会は、ほぼ敵と同じなのです。ウクライナから出ていけ!と言うことでしょうね。
ロシアの正教会が、ロシアのウクライナ侵略を全面的に支援している以上、ロシア正教会傘下の正教会が、ウクライナ国内での存在を許されるはずは、ないでしょう。

ロシアがロシア正教を戦争遂行の道具とし、ロシア正教会が、それに全面的に協力している以上、ロシア正教会はロシア国内でのみ通用する土着の宗教と同じです。宗教としての普遍性を失ったということです。

それを理解すると、ウクライナ正教会が独立し、ロシア系正教会がウクライナ国内で迫害ともいえる扱いをされる理由が分かると思います。敵国ロシアの内通者と同じなのです。あるいは、スパイとも言えます。

ロシア国内では、最大限侵略戦争に協力し・
ウクライナ国内では、単なる宗教です。と言う立場の使い分けは許されないと言うことです。侵略者の手先とみなされて、当然でしょう。

ウクライナ人道危機救援金 - 日本赤十字社
https://www.jrc.or.jp/contribute/help/ukraine/


スラブ民族とは?<2023・3・12>

2023-04-07 10:53:52 | 歴史

昨日は、キエフ(キーウ)大公国について調べてみました。
スラブ民族とは、そもそもどんな民族なのだろうと興味を持ちました。

「ロシア・東ヨーロッパ・バルカン半島に 分布 する 民族 。 東スラブ人(ロシア人・ウクライナ人),西スラブ人(ポーランド人・チェコ人),南スラブ人(ブルガリア人・セルビア人)に細分される。 6 世紀 ごろ 史上 にあらわれ,多くはギリシャ正教を 信仰 する。」

スラヴ人 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%83%B4%E4%BA%BA

一部引用>
ロシアとフランスの人類学者ジョゼフ・ドゥニケールは、スラブ人を北方人種(ゲルマン人種といくつかのフィン・ウゴル人種と一緒に)に帰した。スラヴ人の最初の祖先の家はバルト海の北にあり、そこからスラヴ人は現在のポリーシャの領土に移住したと考えられている。

<引用終わり

ポリーシャ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A3
一部引用>
北ウクライナ、南ベラルーシ、東ポーランドと西ロシアの間に位置する歴史的地名である。スラヴ人の発祥地であり、古代より東スラヴの文化と伝統が保存されてきた地域とされる。
<引用終わり

大体、現在のフィンランドかスウエーデンのあたりに住む民族が南下して「ポリーシャ」に居住するようになり、更に周辺に居住地が周辺に広がって、現在スラブ民族として分類される人々になったようです。

そして人種的には、北方ゲルマン人の部族が南下した民族と考えてよさそうです。(フィンランド人とは、人種が異なるからです)

ヴァイキングの時代は、(Viking Age、800年 - 1050年)です。
ヴァイキング
https://europa-japan.com/cate_iden_race/vikingege/
スウェーデン系バイキング(バリャーグ人 )
「スウェーデン系バイキング (バリャーグ人 ) は主として東方へ向い、ロシア(ルーシ)や東ローマ帝国領内で商業活動や傭兵活動を行っていました。862年にノブゴロドに赴いたスウェーデンヴァイキング(ルーシ人と呼ばれた)リューリクは、ロシア建国の祖として知られています。」

そう考えると、古い時代のスラブ人と北方ゲルマン人はかなり近い人種であったことになります。
そして、改めて「ルーシ」の意味が分かります。
主に「ポリーシャ」に住むスラブ人が、北方ゲルマン人のことを「ルーシ」と表現していたのでしょう。

そして、ルーシ(北方ゲルマン人の一部族)が
「リューリク朝」を建国します。ノヴゴロドが根拠地であるようです。「キエフ現地の大公朝を滅ぼし」とありますから、元々のスラブ人の王国を滅ぼして「キエフ大公国」を建国したことになります。

その当時のことを記録したのが「原初年代記」=『ルーシ年代記』です。

つまり、スラブ人にとり「ルーシ」とは、本家の北方ゲルマン人を意味する言葉であり最初に、スラブ圏に大帝国を建国したのは、北方ゲルマン人です。その正統な後継者が「ルーシ」を名乗ることが出来るのであろうと思います。

ルーシの意味を辿るとそのような時代背景が見えてきます。だから、ゲルマン人⇔北方ゲルマン人→北方・東スラブ人と言う流れです。人種的な血縁関係を言えば、かなり近いと言えるでしょう。

スラブ人の発祥の地である「ポリーシャ」には、ロシア人もウクライナ人もベラルーシ人も含まれています。だから、この3国には国境以外に区別するものは、ほとんどないと言えるでしょう。むしろ、ロシア人の方が遠い分だけ雑種と言えるかもしれません。イギリスとアメリカぐらいの違いはあるかもしれません。

最初に大帝国を形成したのが、キエフ大公国ですから文化的な基礎を作ったのは、現在のウクライナ付近に住む人々であったと思われます。東方正教会の原型が出来たのもこの時代です。

☆そしてこの地域に元々住んでいた人々を調べてみると?
(古代)ゲルマン人
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B2%E3%83%AB%E3%83%9E%E3%83%B3%E4%BA%BA
元々は、北ドイツと北欧南部に住んでいたようです。
それが、だんだん広がっていき「ドニエプル川下流域まで広がり」とありますから、現在のウクライナ南部あたりまで広がったのでしょうね。

☆つまり、全部まとめると先祖は、大体古代ゲルマン人に行きつきます。そこに周辺の他の民族が同化して、最終的に現在のスラブ民族になったのであろうと思われます。

昨日は、ごく雑な調査でしたが今日は、やや詳しく調べてみました。

2023年3月11日 22:41
2023・3・11スラブ緒民族>リューリク朝~キエフ大公国~モスクワ大公国
https://smcb.jp/diaries/9006383


リューリク朝~キエフ大公国~モスクワ大公国<2023・3・11スラブ緒民族>

2023-04-07 10:51:32 | 歴史

リューリク朝
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%82%AF%E6%9C%9D

キエフ大公国
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%82%A8%E3%83%95%E5%A4%A7%E5%85%AC%E5%9B%BD

ハールィチ・ヴォルィーニ大公国
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%82%A3%E3%83%81%E3%83%BB%E3%83%B4%E3%82%A9%E3%83%AB%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%8B%E5%A4%A7%E5%85%AC%E5%9B%BD

モスクワ大公国
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%82%B9%E3%82%AF%E3%83%AF%E5%A4%A7%E5%85%AC%E5%9B%BD

スラブ民族に今でも見られる特徴は、とにかくまとまりが悪い。昔から、そうだったんですね。

「伝説によると、リューリク朝の創立者はリューリクというノルマン人の長である。ロシアの諸族は互いに争って秩序がなかったため八六二年バリャーグのルーシに使者を送り、彼らを統治してくれるように頼んだ。これに応じてリューリク以下三人の兄弟がロシアに来て、ロシアを治めた。」

そもそも、ルーシとは何か?
ヴァイキング
https://europa-japan.com/cate_iden_race/vikingege/
スウェーデン系バイキング(バリャーグ人 )
「スウェーデン系バイキング (バリャーグ人 ) は主として東方へ向い、ロシア(ルーシ)や東ローマ帝国領内で商業活動や傭兵活動を行っていました。862年にノブゴロドに赴いたスウェーデンヴァイキング(ルーシ人と呼ばれた)リューリクは、ロシア建国の祖として知られています。」

(つまり?)
八六二年バリャーグのルーシに使者を送り・・
(この記述は・・)
スウェーデン系バイキング(バリャーグ人 ) に使者を送り・
と、読み替えると分かります。

使者の行った先が、バリャーグ人 であったと思われます。
元々は、バリャーグ人 のスラブ民族の呼び名のルーシが、やがては「リューリク朝」の支配する土地の地名となり、その付近や系列の王国を「ルーシ」と呼ぶようになり歴史書に現れようになった時には、ルーシが正式名称になっていたのであろうと思います。
これは、記述には出てきません。

分裂して治まりのつかなかったスラブ民族のどの部族かが、バリャーグ人( ルーシ)に使者を送り?
何しろヴァイキングの部族ですからね?
腕っぷしの強いのを選抜して送り込んだのでしょう。
(ルーシ族 - かつてスラヴ人がノルマン人に対して用いたとされる呼称。真偽については議論がある。)
最初は、傭兵の派遣であったのかもしれません。
しかし、その一団が「リューリク朝」を開設しその系列が「キエフ大公国」の祖となります。
この国は、かなり繁栄し広い地域を治めます。
現在のウクライナから北はフィンランドに至るまで広い地域を支配下に置きました。そこには、ベラルーシもロシアも含まれます。

繁栄の時期を過ぎ王国内では分裂と内紛が起き衰えていきます。
「モンゴルのルーシ侵攻後期の1240年、モンゴル帝国軍が南ルーシを制圧し、キエフ大公国は事実上崩壊した。」

そしてその時代に「キエフ大公国」から逃げ出した人々や土地の人々が、モスクワ大公国を徐々に拡大していきそれが、やがてロシア帝国へと発展します。

これが、非常に大雑把なスラブ民族の歴史です。
スウェーデン系バイキング(バリャーグ人 ) は、北方ゲルマン人とも言われます。
「キエフ大公国」の時代に北方ゲルマン人もかなり入植したと思われます。

だから、ロシア・ベラルーシ・ロシアは、ほぼ兄弟と言っていいような民族であり国家です。そして、ドイツやスウエーデンとも親戚関係にあると言えます。
実際にロシアの王朝には、ドイツからかなりお嫁入したりしています。それを言うと、ヨーロッパ全域が似たような関係にあります。しかし、ロシアの方が辺境ですからドイツの王国からロシアにお嫁入するのは、臣下のところに下るような意味が強かったでしょうね。

エカチェリーナ2世 (ロシア皇帝)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%82%AB%E3%83%81%E3%82%A7%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%8A2%E4%B8%96_(%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%82%A2%E7%9A%87%E5%B8%9D)

だから、スウエーデンの国旗の配色とウクライナの国旗の配色は、似ていますね。青の色が違うだけです。単なる偶然かもしれませんけれど。本来のスラブ色とは明らかに違います(普通は、白と赤の組み合わせ)

どっちも、「リューリク朝」を始祖とする点では同じです。

だから、ロシアはウクライナを自分の領土だと言い・・
ウクライナも半分、そう思っていましたが、今回のロシアの軍事侵略を受けて、やっぱり違うと分かった訳です。
戦争が熾烈になり、どっちも引かないのには、同族相争う構図があるからです。

ロシアがウクライナを支配しようなどと考えなければ?
今でも、ロシア人もウクライナ人もベラルーシ人も、自分たちは大体同じなんだと考えていただろうと思います。何しろ国境を越えた親戚関係だらけです。

本当に某プーチンは、よろしくないと思います。
どちらかと言うと、ロシアに好意的であったゲルマン人も元の北方ゲルマン人も敵に回りました。
某プーチンは、どんな歴史を学んだのやら?
やっぱり、ヨーロッパの辺境の蛮族であることを証明してしまいました。

☆更に深く考えるなら?
歴史は、支配者に都合のよいように書かれます。
スウェーデン系バイキング(バリャーグ人 ) は、本当にスラブ諸族の一部から招へいがあったから、王として赴いたのか?
交易関係がありますから、土地勘があります。
スウェーデン系バイキング(バリャーグ人 ) の一部が、なんと言うか、その~
侵略して王国を築いたんでは、ないでしょうか?
そう考えると、当時のルーシ人=スウェーデン系バイキング(バリャーグ人 ) は結構、沢山スラブ圏に入り込んだと思います。そうでなければ短期間に「キエフ大公国」を建国するのは、無理だと思います。それを考えると、バイキングの子孫は、今考えられている以上に沢山スラブ圏にいることになります。その末裔が?
世界最強戦闘民族である、コサック!
段々、歴史の隙間が埋まってくるような気がしませんか?
遺伝子を調べれば、分かると思います。
何故?スラブ圏でコサックだけが、戦争に強いのか?
バイキングの末裔が多いからでしょう。
それは、つまり?
「キエフ大公国」を建国したのは、バイキングである逆証明です。遺伝子調査を広範囲に行わないと、真偽は証明できませんが?

そういう感覚が、どうも某プーチンを見ると?
あるような気がします。
大昔のバイキングみたいな感覚で、戦争をやっているのかもしれません=切り取り強盗世の習い!

いつの時代の話だ!