十二月五日聖護院門跡に於いて
密教と修験
藤井
岡田さん修験道は天台真言と結合して進んで来ましたが天台では山門よりも寺門に関係が深いのはどういふわけです。
岡田
平安朝の宮中は藤原氏の全盛期で寺門には藤原出身の人が多く座主や護持僧も沢山寺門から出てゐたからでせう。
藤井
教理的にも接近する理由があるのではないですか。
宮城
教理的にも寺門の方が関係が深いでせう。
岡田
教理の根本は山門も寺門も一しよですが、山門は支那天台のほかに密教を取入れてゐて顕密の順序を立てるが寺門では顕教よりも密教に重きを置きますから当然関係が深いわけです。
藤井
寺門の修験道は寺門風であり山門の修験道は山門風醍醐の修験は醍醐風といふわけでせう、何しろ平安朝以来天台と真言によつて維持されて来たのですから、しかし、修験道発祥の歴史は天台真言と違つてゐるのだから絶対独立性がないと断ずることはできませんね。
岡田
天台、真言は実践本位で民衆済度に重きを置きますが、その準備が出来るまでは山に籠つて修行を積み、修行が足りてから平地に出て布教するといふことになつてゐますので籠山は僧侶として大切なことです。
藤井
特に密教だけが山林に縁があるといふわけではない現に伝教大師が叡山を開かれたのは入唐以前で密教はまだ伝はつてゐなかつた。
岡田
籠山は要するに化道者としての準備のためである、修験道の入峰は里へ出て働く原動力を作るためである、修験道の入峰は里出て働く原動力を作るためである。
草分
修験道の信者はそれぞれ一定の職業をもつてをるが魂の洗濯に時々入峰するので、信仰の目的は入峰することではなくて入峰は生活の修練である、この点が国民思想にぴつたりと合つて次第に教団的色彩を濃厚にするに至つたのだと思ひます。
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