十二月五日聖護院門跡に於いて
(前省略)
修験の碩学「行智」と「即傳」
京大教授 文学博士 新村出氏
私のようなさむがりが、而も苦練行なさる修験道の座談会に出席させて戴くということは既にさむがりといふ処に資格が欠けてをります。実はこの席も寒いと辛抱が出来ないと存じまして「寒くはないでせうか」と伺ひましたら「温くしてありますから大丈夫!」とのことでしたので寄せて頂いたやうな次第です伺つて見ますと、かやうに立派な室で、私のやうな寒がりを容るゝに足る暖かい御設備を願つてゐますので大いに意を安じてゐる次第ですところがこの席では私が修験道について一番門外漢で、この点からも私はこの席に列なる資格がないように考へるのでありますが、たゞ私は平安朝の文学に関する書物を読んだ際、修験とか、山伏とかのことを書いたものに接し少なからず興味をひいたこともありましたし、また、幼少の頃、母から御嶽山のことや、御岳行者の祈祷の霊験あることを話されたりしたことを朧気ながら覚えて居ります。殊に山伏と因縁のある「百草」を呑まされたことを仄かに承知致しております。たゞそれ位なことの外別段取りたてゝ申上げる程のものはないのであります。殊に文学に現はれた修験道については阪倉さんあたりから有益なお話を承り、幾分でも修験に関する知識を得たいと思う次第であります、たしか修験の流派は二つあるやうに承りますが。・・・・・
本山執事 修験社主幹 宮城信雅 氏
左様で御座います。大体昔から天台、真言で即ち本山派、当山派に分かれて居りまして、聖護院は本山派の本山であり醍醐の三宝院は当山派の本山であります。そのほか羽黒、彦山、金峰山などにも修験が集団をなしてゐたやうです。
新村
私が学生時代に、東京浅草の延命院で行智といふ人の伝記を調べたことがありましたが、どうもその延命院は当山派であつたやうですが、それはともかく、行智といふ修験は非常な学者で、単に修験道とか仏教とかの方面のみではなく、蘭学にも関係があり、チッベット語や満州語にも通じてゐたやうです。一人行智のみならず昔は修験者の中にもなかなか学者が多かつたやうに想像されます。
宮城
行智の著書は「踏雲録」や「木の葉衣」などがあり当山にも所蔵されてゐますが、いづれもその表現がきう幕時代としては批判的であり考證的であり稀に見る立派な学者だつたと存じます。
新村
著書があれば他日拝見させて頂きたいものです。悉曇学も詳しかったやうです。
大阪毎日新聞社京都支局次長 藤井覚猛 氏
本山派にも昔は学者が多かつた。殊に彦山の即傳などは修験道の教理を体系つけた第一人者といつてもよいと思います。ところでその行智がゐたといふ延命院は今でも残つてゐますか。
新村
銀杏八幡といつて今でも浅草にあると存じます。たしか今の浅草よりずつとこちらの蔵前あたりかと思います。
京大助教授 中村直勝 氏
「木の葉衣」は和文ですか。
宮城
さようです和文です。中村先生、歴史上について特に山伏に興味をおもちになつて点をお話し願います。
中村
歴史の方面からは魚澄さんの御高説を承はりたいと存じますが、それに先立ちました、一体修験道信仰は究極は何を得やうと云ふんでしやう。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます