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SIDEWALK TALK

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COYOTE Live House Tour

2009-07-16 17:53:57 | 佐野元春
Drumlogosこんなことをいうと巨人に対して失礼なのだが、
佐野元春というミュージシャンは、風変わりな人なんだろう。


新作アルバムをリリースして2年ほど経って、
ようやくその作品をフィーチャーしたツアーをおこなっている。
しかもその『 COYOTE 』アルバムは、
佐野さんのシンガー・ソングライターとしてのひとつの到達点といっていいほど
完成度が高く、商業的にも成功を収めたのにだ。


結局、すぐれた音楽や文学、絵画には、説明しがたい香気がある。
鑑賞している者を精神の高みへ誘ってくれるだけでなく、官能的でさえある。
高い意味での「ぬめり」といっていい。


誰もがそれを植物であるか合成樹脂製であるかを見わけるのに、
ちょっとさわってみる。
ぬめりを感じて生物であることにハッとするように、
すぐれた芸術作品であるか否かを見るのは、この操作だけでいい。
音楽においては、生の演奏を聴くとがこれに当たる。


佐野さんの作品は、僕はティーンのころから1曲のこらず聴いてきた。
歴代のツアーにも数多く参加した。
上記の点で、つねに稀有な名作の密度と香気を感じてきたのだけど、
今回の COYOTE Live House Tour においてそのことが圧倒的だった。


素晴らしいライヴ・パフォーマンスを見せてもらったお礼を、
まず佐野さんとその若いバンドにいわなければならない。

ふたりの理由、その後

2009-02-03 22:09:56 | 佐野元春
Couple3小坂 忠 氏は、
ロッカーであり、
ソングライターであり、
ゴスペルシンガーでもあり、
そして何よりも、敬虔な牧師である。


その小坂氏の新譜、生誕60周年記念アルバム『Connected』に、
佐野元春が楽曲を提供した。
「ふたりの理由、その後」、というタイトルらしい。


この楽曲のモチーフになった「ふたりの理由(わけ)」は、
20年前の佐野さんのアルバム『ナポレオンフィッシュと泳ぐ日』の
エンディングを飾ったナンバーだ。
ビートニク・マナーのポエトリー・リーディングで、
オレンジ色の服を着た男と美しいヴェールを身に纏った女のラヴソングだ。
ふたりが Soul Mates になったところで、この曲は終わる。


「ふたりの理由、その後」は、
あれから20年後のあの〈ふたり〉の歌なんだろう。
僕は佐野さんのファンだし、「ふたりの理由」は好きな曲だけど、
不思議とそれほど聴きたいとは思わない。


なぜなら、僕にとっての「ふたりの理由、その後」は、
すでに僕のSoulに存在しているからだ。
それは「僕の声が聞こえたら」という美しいバラードで、
かつて「ふたりの理由」をいっしょに聴いていた、
ある男女の〈その後〉を歌っている。
佐野さんといえでも、この楽曲を超えることはできないと思う。


This is a story about me(us).
これはあくまでも僕(ら)にかぎった話で、
ひとそれぞれの「ふたりの理由、その後」のことではない。

俺はくたばりはしない

2008-09-23 12:04:31 | 佐野元春
Boris_vianボリス・ヴィアン (Boris Vian, 1920~59)
というアーティスト -僕は殊更にボヘミアンと呼びたい- がいる。

フランスの作家で、小説家・詩人・翻訳家・音楽評論家…etc 、
多岐にわたる執筆活動を展開した。


ヴィアンには別のペンネームがあり、
ヴァーノン・サリヴァン(Vernon Sullivan)と称して、
通俗的でバイオレンスなハードボイルド小説を発表した。
サリヴァンは脱走兵の黒人 -ヴィアン自身は白人- というプロフィール設定になっていた。


ヴィアンは多才な人で、音楽でもその才能を開花させた。
作詞作曲はもちろん、ジャズ・トランペッターとしても名を馳せ、
僕は聴いたことはないが、シャンソン歌手としても活動していたらしい。


僕にボリス・ヴィアンの存在を教えてくれたのは、佐野元春だ。
1989年リリースの佐野さんのアルバム『ナポレオンフィッシュと泳ぐ日』に、
「陽気にいこうぜ」というストレートなロックナンバーが収録されている。
この「陽気にいこうぜ」は、ボリス・ヴィアンに捧げられている。


リリックのなかの
「俺はくたばりはしない」
「命は短い 恋をしよう」
などといった、ヴィアン的なラインが心地いい。


佐野さん曰く、
「陽気にいこうぜ」は「ハッピーマン」の続編的ナンバー
らしいけど、僕にはそう響かない。
「陽気にいこうぜ」の主人公は、「ハッピーマン」みたいに無邪気じゃなく、
よりシリアスで、木で鼻をくくったような男だと思う。


ヴィアンは心臓に持病があり、ずっと不整脈に苦しんでいた。
余技でしかないトランペットを吹くことは、
ヴィアンの心臓にとってマイナス以外の何ものでもなかったが、
彼はまったく意に介さなかった。
「40歳までに死ぬ」と自身の寿命を規定し、それを公言していたヴィアンだが、
実際にその命は39歳で尽きてしまった。


詳細は省くが、死因は心臓発作で、
サリヴァン名義の小説『墓に唾をかけろ: J'irai cracher sur vos tombes』が映画化され、
その試写会がはじまって数分後に発作が起こった。
最後の言葉は、怒り満ちていて、
「こいつらはアメリカ人になったつもりなんだろうか?バカにしやがって!」
だった。


ヴィアンのスノッブ的なところはどうも好きになれないけど、
僕も、ヴィアンのように音楽と薔薇を愛して、陽気にタフに生きていきたい。
最近スランプ気味だから、自分に喝を入れるつもりできょうのエントリーを書いた。


陽気にいこうぜ 夜が明けるまで

Stones and Eggs

2008-05-30 10:43:37 | 佐野元春
最近、お風呂とか歯磨き中によく聴いてるアルバム、『 Stones and Eggs 』
リリースされたとき、
「佐野元春でも自己模倣するんだ」
と、ちょっと意外だった。


Stones and Eggs Stones and Eggs

 佐野 元春
 価格:¥ 3,059(税込)
 発売日:1999-08-25


『 Stones and Eggs 』は、デビュー20周年を意識して制作されたわりに、
佐野さんのキャリアの中でさして重要なポジションにはない。
リードトラック的な楽曲もない、といっていい。
僕的にも、印象の薄いアルバムだった。


ところが、あらためて聴き返してみると、コレがなかなかいい。
いい意味で、力が抜けている。それでいてキレがある。
佐野さんならではのアプローチも随所に垣間見ることができる。


ビートルズでいえば『 The White Album 』的なヴァラエティ感があって、素直に楽しめる。
『 ナポレオンフィッシュと泳ぐ日 』や『 Fruits 』と同系統の(or 延長線上に位置する)アルバム
といえば、褒めすぎだろうか?

De Bop a do di bap pop do...

ロッキングチェア

2008-05-23 10:06:34 | 佐野元春
Rocking_chair血迷って衝動買いしたロッキングチェアが届いた。
とりあえず、リビングに置いてみた。
けっこう場所とるなー。


ロッキングチェアは、
最近はモダンなデザインのものもあるようだけど、
僕が選んだのは、オーソドックスなカントリーっぽいやつ。
かといって、格別のこだわりがあるわけじゃありません。


ところで、佐野元春の初期の楽曲に、「ロッキングチェア」がでてくるのがある。


   「 It's alright 」

   ロッキンチェアから転がり
   頭を灰皿にぶつけて
   マドモアゼルからマッシュポテト
   ライ麦畑で ついに迷子・迷子・迷子


よくわからんリリックだけど、
僕んちには灰皿がないから、頭をぶつける心配はないか。


荒廃した都市の中に息づくイノセンス

2008-03-28 13:49:57 | 佐野元春
Hermann_hesse佐野元春が好きだから、そのことを書く。
とくに主題など設けずに、
福岡でのライヴの余熱みたいなものを綴ってみたい。


このひとが、1980年代、説得力に富んだ美学的ロジックでもって、
日本語ロックというポップソングを
一変させた人であることはいうまでもない。
当時の年齢は、まだ20代前半でしかなかった。
しかも、デビューして数年は鳴かず飛ばずだった。


といって、佐野さんに悲壮感はなかったように思う。
不遇時代のリリックもメロディもじつにあかるく、
世間(シーン)を呪うということもなかった。
それどころかその当時の楽曲は、「元春クラシックス」として、
今では絶大なる支持を得ている。


どうも、こんな境地は努力して得られたものじゃなく、
単に佐野さんの性分にちがいない。
このことも、ロック・グレイツになった現在からみれば、
ファンである僕たちには悲しみをともなうほど爽やかである。

だから、僕たちは佐野元春が好きなのだ。


先日、佐野さんが言うところの「ツアー(ロード?)最終日」…
'Sweet Soul, Blue Beat' 福岡公演に出かけた。
ライヴのレヴューは、このツアーの中津公演のときに書いたし、
他のブロガーさんたちの秀逸なものが数多くあるので、今回はパスする。


この福岡公演では、ライヴの他に楽しみがあった。
佐野元春ファンのブロガー Beat goes on...(以後 BGO)さんの面晤を得ることだ。


BGO さんとは中津公演がキッカケでネット上で知り合い、
その後、何度かお互いのブログを行き来した。
BGO さんは、佐野さんにたいする愛情が人一倍深いのにもかかわらず、
その多量の愛情の量に惑溺することなく、
佐野元春にまつわるクレバーでクールな論評を数多く自身のブログで発信しておられる。
完全無欠のリアル・ファンだ。
その BGO さんが、僕のシートまで挨拶にきてくれるというのだ。


そしてその夜、ついに BGO さんと対面した。
BGO さんは、その日、
以前 MWS ストアで限定販売していた
KingBird オリジナル・ネルシャツを身に纏っていた。
ひと目でそれとわかる出で立ちだ。


初対面の挨拶をし固い握手を交わしたあと、
BGO さんがおもむろに1冊の本を僕に差しだした。  
その本とは、
「 ヘッセからの手紙 -混沌を生き抜くために- 」
という、ドイツの作家(小説家・詩人)ヘルマン・ヘッセの書簡集だった。


ヘッセについて」 or 「ヘルマン・ヘッセと佐野元春について
は、以前このグロで触れたので、きょうは省く。
とにかく、リアルにお会いできるだけでも光栄なことなのに、
ヘッセの書簡集までいだたけるとは望外のことでただただ恐縮した。


このライヴのアンコールの MC で、佐野さんは、
「僕たちオトナにできることは、次の世代の子どもたち-KIDS-に希望を与えることだ」
という内容のコメントをしていた。
その希望を謳った楽曲の代表曲が「 SOMEDAY 」であることはまぎれもない。


「 SOMEDAY 」は、佐野さんのソングライティングにおける初期のテーマ
「荒廃した都会の中に息づくイノセンス」の完成型であり、
このテーマのナンバーで「 SOMEDAY 」を超えた楽曲を僕はまだ知らない。


いきなり話が変わるようだけど、
ここのところ理解不能な理由でもって、ひとの命を奪う事件が続発している。
犯人(容疑者)たちにその人たちをコロス理由はなく、
「誰でもよかった」
と、異口同音にほざいている。
これでは、凶刃に倒れた人たちは浮かばれない。


「 SOMEDAY 」は25年以上もまえに書かれた楽曲だけど、
今こそこの楽曲のテーマが見直されるべき時代になった。
だから佐野さんは、ひととき封印していたきらいのあるこの楽曲を
最近のツアーではセットリストに復活させたんじゃないだろうか?


この夜の「 SOMEDAY 」は、意図的なのだろうか?
TT Sisters の歌声を、彼女たちがマイクから離れた位置に立っているのにもかかわらず、
全篇にわたり際どくひろっていた。
佐野さんのメインヴォーカルと相まって、僕には何かレリジアスな賛歌のようにきこえた。


そう、僕は信じたい...
この荒廃した国のどこかの片隅で、イノセンスがまだ息づいていることを。
There's an innocence on the edge of town...

ナポレオンフィッシュと泳ぐ日-Limited Edition-

2008-02-27 14:23:30 | 佐野元春
Napoleon_fish

約20年の時を経て、『ナポレオンフィッシュと泳ぐ日』が再リリースされる。

このアルバムは、日本ロック史における事件的アルバムだ。
佐野ROCKの到達点、
それはとりもなおさず「日本語によるロック」への「答え」でもあった。


多くのJ-POPの先人たちが、「日本語ロック」というジャンルの答えをさがして、
試行錯誤を繰りかえしてきた。
しかし及第点はとれても、明確な解答を導きだしたアーティストはいなかった。


1980年、佐野元春というひとりの若者が現れて、
デビュー曲「アンジェリーナ」によって、日本語ロックにある一定の道筋を示した。
以来、時には研究医のように、また時には町医者のように、実験と臨床を繰り返し、
ついに『ナポレオンフィッシュと泳ぐ日』によって完全なる解答を叩きだした。


『ナポレオンフィッシュと泳ぐ日』という、この奇妙なタイトルの由縁は、
J・D・サリンジャーの短編小説「バナナフィッシュに最適な日」からのインスパイアなのか?
ナポレオンフィッシュに遭遇したダイバーは幸福になれるというジンクスに起因してるのか?
そんな瑣末な詮索は、この際どうでもいい。


このアルバムは、すべてのロックファンのマストアイテムだ!
かつてKidsだった僕ら世代は、
この歴史的なアルバムをもう1度体感できるチャンスを逃す手はない。
そして、未だこのアルバムを体感していない現代のKidsにとっては、
日本ロック史の一新紀元-Epoch-を確認できる貴重な機会となるにちがいない。 

この素晴らしい中津の夜

2008-01-27 15:02:51 | 佐野元春
Tour2008僕の街に、佐野元春がやってきた。
僕の街に、The Hobo King Band がやってきた。
僕の街に、TT Sisters がやってきた。
夢のような時が流れた。


最近の佐野さんを突き動かしているものは、
音楽を通して世代を超える何ごとかを見つけたい
という想いなのだろう。
この夜も、佐野さんの叫びにも似た願いが、
僕らの心に突き刺さった。


オープニング曲は、100人の元春リアルファンがいても、
ぜったい予想できないナンバー。
そもそも、ライヴで演ったことあるのだろうか?
僕は知らない。


この日、佐野さんの出で立ちは、
まるでUKの名門大学の教授を思わせるファッション。
シルヴァー・フォックスの髪によく似合っていた。
そう、知性的(Sweet Soul)ではあるが、
だからといって、そのアグレッシヴな演奏(Blue Beat)が
損なわれることは決してない。
それどころかヴォーカルの調子は、
ここ数年で1番のコンディションじゃないだろうか。


セットリストは、80年代中心。
Rock & Roll Night Tour 並のラインアップ。
オールドファンには、垂涎のセットリストだ。
あえてスローナンバーを封印し、
高齢化したファンに座ることを許さない。
オーディエンスを煽りに煽り、さらなる高みへ押し上げる。


佐野元春 & The Hobo King Band ほどのライヴ・アクトなら、
当然、名演は他に幾らでもあるにちがいない。
それでも、中津の夜はサイコーだった
と声を大にして叫びたい。
身贔屓な感想だということは充分承知しているけど、
今は昨夜の余韻に浸っていたい。


ウィンクの数 またひとつ増えてゆく

1月26日

2007-10-12 17:01:30 | 佐野元春
ひょんなことから、佐野元春のライヴの開催にタッチすることになった。
僕は、佐野さんのファンということもあって、この話に一も二もなく飛びついた。
大分公演は、当初10月に宇佐市での開催予定だったけど、紆余曲折があり、
なんとうれしいことに、来年1月26日に僕の地元、中津市での開催の運びとなった。


Motoharu_sano4


この件については、今までマル秘扱いだったんで、他言できずにつらかった。
今般、オフィシャル・ファンクラブからツアー日程が公式アナウンスされたので、
やっと公言できる。


アルバム『 COYOTE 』のデキ(というか、ビヘイビア)からいって、
今回のツアーは素晴らしいものになることは必至!
しかも、バッキングは H.K.B 。
とにかく、楽しみで楽しみでしょうがない。

アルバム『COYOTE』考

2007-09-15 16:40:01 | 佐野元春
先日、書庫を整理していたら、むかし読んだ懐かしい本たちに再会した。
それら本の中に、ヘルマン・ヘッセの長編小説『荒野のおおかみ』をみつけた。
目から鱗が落ちるとはまさにこのことで、
その刹那、僕は佐野元春の最新アルバム『COYOTE』の謎がイッキに解けた。


荒野のおおかみ (新潮文庫) 荒野のおおかみ (新潮文庫)

 ヘルマン・ヘッセ (Hermann Hesse)
 価格:¥ 540(税込)
 発売日:1971-02


ヘルマン・ヘッセは、20世紀前半のドイツを代表する作家(詩人・小説家)の一人である。
父親がかつて牧師だったこともあって神学校に入学したが、やがて、
「詩人になるか、でなければ、何にもなりたくない」
と、逃げだすように退学した。
その後、もっぱら読書をとおして独学し、
さまざまな職業(本屋の店員など)を転々としながらつぎつぎと作品を発表した。


その作風は、第1次世界大戦を境に大いに変化した。
当初は、ロマンティシズムに溢れた牧歌的な作品が多かった。

やがて第1次大戦を体験し、ヘッセは深くその精神を病んだ。
このころから、ヘッセの作風は一変する。
現代文明への強烈な批判と洞察および精神的な問題点が多く描かれるようになった。

さらに第2次大戦後は、自我をもとめてくるしむ若者、
とくに芸術家の姿を描いた多くの作品が、若い世代の共感をよんだ。

戦争は、ヘッセのような過敏すぎる神経と多すぎる感情の量をもった
作家には如何にしても耐えがたく、
その精神を蝕んでいったにちがいない。


そのヘッセの作品に、第1次大戦直後に発表された小説
『荒野のおおかみ』 (Der Steppenwolf)
というのがある。


ここで僕は、論証なしに、ある仮説を述べたい。
アルバム『COYOTE』の下敷きになっている架空のロードムービーは、
ヘッセの『荒野のおおかみ』にインスパイアされて構成されたのではないか。


『荒野のおおかみ』は、ヘッセの小説のうちで、もっとも革新的な作品であるといえる。

主人公の放浪する芸術家ハリー・ハラーは生まれついてのアウトサイダー(ボヘミアン)で、
二面的な本性(人間的なものと狼的なもの)をもつがゆえに、
悪夢のような迷宮にまよいこんでしまう。
ハリーは自殺をひとつの(あるいは唯一の)逃げ道としてかろうじて精神の均衡を保ち、
自分のことを“荒野のおおかみ”だと規定して絶望のうちに暮らしていたが、
ある少女との出会いをキッカケに生きる希望を取り戻そうとする。
…というストーリーだ。


つまり、この作品は、反逆しようとする個人と、
ブルジョワ的伝統との間に横たわる亀裂を、
象徴的に描こうとする試みであった。


佐野元春がはじめて作曲したのは11歳のとき、
ヘルマン・ヘッセの『赤いブナの木』という詩に自作の曲をつけた
という逸話は、ファンのあいだでは有名な話だ。
それから40年ちかい月日が流れたが、
新アルバム制作にあたり、佐野さんのなかで"Younger"というキーワードが浮かび、
必然的にヘッセ的マインドに本卦還りしたんだと思う。


この仮説が正しければ、『COYOTE』は『荒野のおおかみ』同様、
相も変わらず戦争に向かおうとする社会状況や、
性急に発達する文明に翻弄され自分自身や社会に対して
無反省に日々の生活を送っている同時代の人びとを、
アウトサイダーの視点から痛烈に批判した作品ということになる。


ヘッセの『荒野のおおかみ』は、佐野元春によって『荒地を往くCOYOTE』となって、
今まさに現代に蘇ったのだ。