きらくなたてものや

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省エネと快適性の評価方法を学ぶ

2009年01月31日 | 今日のできごと
今日の午後は、
今年度最終回の木の建築塾。

「木造住宅省エネ設計とその評価」という演題で
岐阜県立森林文化アカデミー講師の辻充孝氏より
お話をいただきました。

省エネ、快適性、
とても大事なことです。

これからは確かに、
住まい手の選択の判断材料の一つとして、
それらを客観的に数値化して評価することが
必要な時代になるのだろうと思いますが、
そのしくみを作り上げようと日々研究されている
辻さんの話は、大変勉強になりました。

節約するということ、
心地よさを求めるということ、
家づくりに限らず、
このことは私たちの暮らしのうえで
‘当たり前’の意識に
なっていけばいいと思うのですが、

客観的で分かりやすい評価手法が確立すれば、
多くの人たちがそういった話に
関心が向くのではないかと思います。

ただし、
こうした評価手法が
確立されていく一方で、
「快適性」の評価についてはぜひ、
‘数字’はあくまでも参考資料、
これを基に
頭だけで判断するのではなく、
身体で感じた感覚を
ぜひ大事にしてほしい、
そのうえで‘数字’を
受け入れてほしいですね。


次に、
今「省エネ」に関して
もう一つ思っていること。

ダム、送電線、原発…、
暮らしに及ぼす安全もさることながら、
旅をして、明らかに風景とは合わない
エネルギーのふるさとを見るたび、
たくさん使うことを前提として
エネルギー供給の増強を図ることは
もうやめにしないか、と思っていたので、
省エネのことを
ぜひ考えていきたいですね。

あるいは薪や太陽光など、
身近に採れるもので
熱源を確保していきたいものです。

ただ薪はともかく、
太陽光発電や温水器をはじめとして、
自然エネルギーの利用については課題が一つ、
設備機器と家のデザインの折り合いを
どう付けるか、ということです。

それらが付いていると
分からないようにするか、
それともあえてそれらの設置を
前面に押し出すか、

どういう方法であれ、
そうした設備機器が
普及していくためには、

それらを家の中にどう納め、
どうデザインするか、
私たち設計者にとって
工夫のしどころだと思っています。


以上、
講義を受けて、徒然なるままに。

鉄錆と弁柄

2009年01月27日 | 藤沢む邸
鉄錆色の玄関扉の廻りが
仕上がってきました。

鉄錆の色と
ベンガラを塗り込んだ焼杉の色、

いずれも、
工業化製品にはない、
温かみのある味わいがあります。

そして実に、
相性がよい!

考えてみたら、

鉄錆は鉄の酸化物、

ベンガラも鉄の酸化物、

相性がよいのは、
必然かもしれません。


元の鞘

2009年01月26日 | 今日のできごと
昨今の不況のあおり、
林業就業説明会に
行列ができたとの記事

見つけました。

農業のほうも、
人々の関心が
高まっているようです。

不況は確かに
苦しいことではありますが、

今回のこの不況は、
しばらく空の旅に出ていた
日本の社会構造が
地に足をつけ、
元の鞘におさまる
きっかけになるような
気がしています。

白沙村荘

2009年01月25日 | 今日のできごと
今日は一日、
家で図面作業。

とくにできごとという
できごとがなかったので、
今日の話題は、
昨年末に訪れた、
そして折を見て訪れる、
京都の白沙村荘について。

ここは私が学生時代、
住んでいた下宿の
すぐ近くだったのですが、
初めて訪れたのは、
京都を離れてからでした。

というのも、
入館料が800円。
(※学生500円)
貧乏学生には
ちょっと難しい金額でした。

さてここは、
橋本関雪という、
明治から昭和初期にかけて
活躍した日本画家が、
住んでいた邸宅と庭園。

現在記念館として、
開放しています。

銀閣寺のすぐそばにあって、
目の前の人通りは多いのですが、
あまり知られておらず、
また入館料が高めということも
あると思うのですが、
いつ来ても
ひっそりとしています。

それだけにここは、
心落ち着いて見学を
楽しむことができます。

ここで私のお目当ては、
池のほとりに立つ門魚亭



不整形な屋根と開口の
質素な庵が、
絶妙なつり合いで
池の上にせり出しています。

この小さな庵は、
危なげで不整形であるがゆえに、
人の心を惹きつけてやみません。

私はここへ来るたび、
この庵の横でしばし佇むのですが、

静寂な庭の中で
心落ち着きつつも、

この遊び心と
愛嬌溢れる空間を眺めながら、
微笑みを浮かべつつも、

心の中ではなぜか、
熱い創作意欲が
かきたてられるのです。

階段を上から見下ろす

2009年01月24日 | 鎌倉ほ邸
踊り場に、
引き違いの掃き出し窓が
ついています。

これがあるので、
明るい階段となりました。

階段が居間と
光の量が変わらないので、
居間の続きのような
感じがします。

なおこれは
私の勝手な構想ですが(笑)、
この先の窓に、
大きめの物見台、もしくは物干台を
作ったらどうかと思っています。

階段を下から見上げる

2009年01月24日 | 鎌倉ほ邸
階段の低い部分は、
居間に対して開放。

開放部分の段の
一番高いところで
床から1m以下なので、
居間側に手すりは不要です。

※ただし壁側に手すりは必要。
これから設置します。

また階段の下も、
居間に対して開放し、
モノが入るようになっています。

階段の壁を見上げる

2009年01月24日 | 鎌倉ほ邸
階段の壁の上部は、
嵌め殺しの硝子窓。

だからいっそう、
階段と居間が
明るく感じます。

この窓は方角が西。
西陽が気になろうかと思いますが、
屋根が1m近く張り出しているのと、
隣家がちょうど
影になってくれているので、
実はそれほど
気になりません。

記憶喪失のまち

2009年01月23日 | 今日のできごと
今日久しぶりに、
幼少のころから小学6年生まで
住んでいた最寄りの駅で
電車を降りました。

いつ以来でしょう?

しかしこのまちは、
区画整理が行われ、
道路も建物も
何もかも一新され、
昔の面影は全く
なくなってしまいました。

だいぶ前に来た時、
私が子どもの頃
覚えているまちなみが
まだそこにあった時は、
多少お店や建物が
入れ変わっていたとしても、
ここで○○したなあ、とか、
ここの○○はうまかったなあ、とか、
一歩一歩ごとに記憶がよみがえり、
とてもなつかしくて
そしてなぜか
ドキドキしたものでしたが、
今日来た時は、
私の全く知らないまちでした。

一方、今日の夜、
建築史を学ぶ講座に参加。
その講座で講師の方の
「歴史は時の積み重ね」という言葉が、
お昼のできごとがあっただけに、
よけいに胸に沁みました。

戦後私たちは、
戦争の嫌な記憶を、
捨て去りたかったからでしょうか、
あるいはがむしゃらに、
前を向くしかなかったからでしょうか、
これまで先人が積み重ねてきたものを
否定するどころか、
その存在すら記憶から、
消し去ろうとしてきました。

いやそうすることこそが、
戦争から立ち直り、
戦後の高度成長を遂げる
原動力だったのかもしれません。

ただ今日、
その流れを酌む結果に直面してみて、

がっかりというよりも、

しみじみと、
無常とはこのことか、
と感じ入るというよりも、

全てが無になり、

お互い何も知らない、
赤の他人同士に引き裂かれ、
そこにもう愛は
失われてしまった、

そういう‘乾いた’
気持ちがしました。

しかしこれは、
他所者の勝手な意見、
例えるならば、
昔付き合っていた異性の
結婚相手に口出すようなもので(笑)、
区画が変わる直前まで、
そこに住んでいた人たちの声を
ぜひ聞いてみたいところです。



一方なぜ私は、
歴史都市、いや歴史都市でなくとも、
時を丁寧に積み重ねたまちに
心打たれるのか、

それは単に、
まちなみの美しさ
ということだけではなく、
その理由が肌で
分かったような気がしました。