「社会学の人って…けっこうああいう強気な人が多いんですか?」
昨日の教育社会学ゼミの打ち上げのあとに、
一緒に帰ることになった教育社会学研究室OGの方にわたしがした質問です。
そのかたは、終始、飲み会の席上でかわされる議論から距離を置いて、
クールにその場の議論を見られていた方だったので、
嫌味でもなんでもなく素朴にそんな質問をしてしまいました。
なんというか
日曜日にT大学で行われた関東社会学会での、
上野千鶴子氏らの講演をめぐっていろいろな議論バトルが交わされたわけですが、
なんというかね。
…うーん、なんか…
…なんというか…
昔の自分を見ているようで、
なんだかとってもとっても、恥ずかしい気持ちでいっぱいでした。
嫌味でもなんでもなく、
「若いっていいなぁ」と思ったり。
「コスモポリタン」な正しさを追及することは正しいけれど、
「コスモポリタン」な正しさは、とってもステキな机上の「ユートピア」を出すことはできても、
現実を変革するような力にはなかなかならないんだよね。
でも、わたしの場合は、まったく逆のジレンマから研究をスタートさせなければならかったので、「コスモポリタン」な正しさや永遠の「ユートピア」を追及しつづけることは許されなかったわけですが。
わたしの目の前に広がるのは、現実であり、
わたしが自分の研究を届ける先も、他ならぬ現実である以上、
現実から乖離したところで幻想の世界で遊ぶわけにはいかなかった。
ただ、それだけです。
でも、現実に縛られるということは一種のウィークポイントにもなりえる。
(そういう「コスモポリタン」な人たちから見れば、当然の話でしょう)
なぜなら、現実に縛られる限り、自分の理論構築とは別のところで、現実の足枷をはめなければならないから。
それが「理論としての不十分さ」として指摘されることも、当然なことでしょう。
壮大な夢を描きながら、
泥沼のような現実を生きることはとってもつらいことだ。
誰にもわかってもらえないし、報われない。
あげくの果てに、そういう人たちから非難される。
自分が今、そういう立場にあるんだということをあらためて実感した場でした。
でも気づいてほしい。
そういう「コスモポリタン」だと自分を規定するあなたたちも日本人であり、男性であり、自分自身の生きてきたその価値観の中でしかモノを見られないということ。
自分の他者について語るということの、その権力性からは逃れられないということ。
そういうことまでも、あまりにも楽観的に「そんなことない!」と語ってしまうのは、あまりにも傲慢なのではないかなぁ…とわたしなんかは思ってしまう。
自分自身の視界の限界に気づかないことは罪だと思うよ。
それこそ、自分の女性への偏見に気づかないセクハラ予備軍の男性と同じくらいには。
昨日の教育社会学ゼミの打ち上げのあとに、
一緒に帰ることになった教育社会学研究室OGの方にわたしがした質問です。
そのかたは、終始、飲み会の席上でかわされる議論から距離を置いて、
クールにその場の議論を見られていた方だったので、
嫌味でもなんでもなく素朴にそんな質問をしてしまいました。
なんというか
日曜日にT大学で行われた関東社会学会での、
上野千鶴子氏らの講演をめぐっていろいろな議論バトルが交わされたわけですが、
なんというかね。
…うーん、なんか…
…なんというか…
昔の自分を見ているようで、
なんだかとってもとっても、恥ずかしい気持ちでいっぱいでした。
嫌味でもなんでもなく、
「若いっていいなぁ」と思ったり。
「コスモポリタン」な正しさを追及することは正しいけれど、
「コスモポリタン」な正しさは、とってもステキな机上の「ユートピア」を出すことはできても、
現実を変革するような力にはなかなかならないんだよね。
でも、わたしの場合は、まったく逆のジレンマから研究をスタートさせなければならかったので、「コスモポリタン」な正しさや永遠の「ユートピア」を追及しつづけることは許されなかったわけですが。
わたしの目の前に広がるのは、現実であり、
わたしが自分の研究を届ける先も、他ならぬ現実である以上、
現実から乖離したところで幻想の世界で遊ぶわけにはいかなかった。
ただ、それだけです。
でも、現実に縛られるということは一種のウィークポイントにもなりえる。
(そういう「コスモポリタン」な人たちから見れば、当然の話でしょう)
なぜなら、現実に縛られる限り、自分の理論構築とは別のところで、現実の足枷をはめなければならないから。
それが「理論としての不十分さ」として指摘されることも、当然なことでしょう。
壮大な夢を描きながら、
泥沼のような現実を生きることはとってもつらいことだ。
誰にもわかってもらえないし、報われない。
あげくの果てに、そういう人たちから非難される。
自分が今、そういう立場にあるんだということをあらためて実感した場でした。
でも気づいてほしい。
そういう「コスモポリタン」だと自分を規定するあなたたちも日本人であり、男性であり、自分自身の生きてきたその価値観の中でしかモノを見られないということ。
自分の他者について語るということの、その権力性からは逃れられないということ。
そういうことまでも、あまりにも楽観的に「そんなことない!」と語ってしまうのは、あまりにも傲慢なのではないかなぁ…とわたしなんかは思ってしまう。
自分自身の視界の限界に気づかないことは罪だと思うよ。
それこそ、自分の女性への偏見に気づかないセクハラ予備軍の男性と同じくらいには。
どうでもいいけどアナタにしては自己紹介長すぎですよ。そんな自己紹介しなくたって、その改行のない長文を見れば誰だかわかります。
腐っても言語教育研究者の卵ですよ。そして、文体論は専門です。
それはともかく、
褒めているのだが、けなしているのだかよくわからないコメントありがとうございます。
日ごろ、教壇にたって具体的に噛み砕くようなことばっかり言っているので、せめて研究の話は抽象的なまま書きたくなるんですよね。
それに悪口(ととられかねないようなこと)をそのまま書くのって下品だと思ってしまう。
実際、そこまで悪くは思ってないし。…若いナァとは思うけどね。
>「『彼らのコトが解る」とその男は言った」
あまりにそのまますぎて、個人中傷になりそうな気がするのでやめておきます。