KIMISTEVA@DEEP

新たな「現実」を構成するサブカルチャー研究者kimistevaのブログ

無知の無知の無知

2007-11-22 16:31:28 | 研究室
人がある特定の視点を持った「誰か」としてしか生きられない以上、
知らないことがあるのは当たり前のことだと思う。
だから、知識の多少をもって人を批難することには意味がない。

わたしが本当に「頭が悪い」と思うのは、
自分が「知らない」ことすら気づかず、
(もしかしたらプライドが高すぎで自分が「知らない」ことに気づきたくないのかもしれない)
さらに相手が自分より何かを「知っている」ことすら気づかず、
口三寸のレトリックだけでその相手を見下そうとする輩である。


昨日行われた教員と学生との懇談会での出来事である。

ある青年が言った。
「テレビドアフォン(セキュリティのために各研究室につけられているモニターつきのインタフォン)は費用効果という点から見てよくないと思う。だって誰も使ってないですよ。(他の学生に向かって)どなたか使っている人いらっしゃいます?」

この疑問がおかしい、ということは誰だってわかる。
「セキュリティ」は費用効果の原則とは異なる原則によって必要とされるものだし、そもそもその「効果」なるものを「テレビドアフォンを使っている人」という変数によって測るなんてことはまったく無意味。
「テレビドアフォン」を使っている人がいないのであれば、それは使っていない人に問題があるのであってそのこと自体を設置者側の問題にするのは、論理のすり替えである。


まあ、こういうちょっと変な意見を言われたときに、
「若輩者が馬鹿なこと言うんじゃない」
なんて、大ボケ反論をする人がいると余計に事態がむちゃくちゃになるのだが、
このとき反論をした教育学専攻長は、わたしが「勝てない」(…というか、わたしとは異なる論理において完璧)と思っている方の一人なので、彼らしい完璧にスマートな反論をして、完全にその学生に「勝って」おられた。

わたしの頭の中で、「教育学専攻長勝利」カンカンカーンと鐘が鳴った。



研究の世界にいると、自分が「知っていること」に対して、謙虚であるべきだと思うことが多々ある。
いろいろな人が自分の視覚の限界を知っていたら、もっと生産的で創造的な議論が可能になるのに。
なぜ、人は自分の打ち立てた論理で他人をビートすることに必死になってしまうんだろう。


そういう人たちの「無知の無知の無知」に対して、いつもため息をついてしまう。
もちろん、自戒をこめて。

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