KIMISTEVA@DEEP

新たな「現実」を構成するサブカルチャー研究者kimistevaのブログ

「ヤオイ」による物語生成:物語を汚すこと/物語を美しいものへと完成させること

2006-02-28 11:08:39 | 研究
先日、質的心理学の大御所・やまだようこ先生の集中授業がありました。やまだ先生の著書や論文は、大学三年生くらいから何冊も何度も読んでます。きっと、人間に対する見方や、心理学の捉らえかたなんかは、やまだ先生に影響を受けたところが大きいのだと思います。

ちなみに、やまだ先生個人にも実は深い思い入れがあります。おそらく『ことばの前のことば』だと思うのですが、その前書にやまだ先生は、「「歩く」って何だろう?と考えてしまって、歩けなくなってしまう」…というご自身のエピソードを書いていたのです。
このエピソードは、わたし自身にもあったエピソードでもあっただけに、本当に印象的だった。他人には理解不可能なことばに纏わる困難を抱えた経験…。その困難さをわたしと共有できる人間がここにいるのだ、と思いました。

だから、やまだ先生にお会いできたことは本当にうれしかった。…しかも、わたしの発表を聞いていただける機会にも恵まれて本当に幸せでした。

正直、不安でしたけどね。思い入れが強すぎるだけに、受け入れられないことの不安も強大です。

なぜか?

わたしが研究しているヤオイは、やまだ先生のように「物語」「ストーリー」を愛し、研究する人々にとっては、はげしく賛否両論なのです。
わたしの研究室のK先生は、「児童文学論」という講義も担当する物語愛好家ですが、彼はわたしの研究レジュメを一瞥するなり「僕は物語を汚して、自分の下半身のために使うような女の子たちを軽蔑してるからねぇ」とおっしゃいました。…修士論文を書いていたときですね。

実際、男オタクのコミュニティからも「ヤオイは原作を汚してる」とか「コスプレはいいけど、ヤオイは理解不可能」とか言われたりする。
…セクシャルなことに絡むからしかたないことがあるとはいえ、わたしは本当にそれが悲しかった。

わたしは、ただ、純粋でありたかっただけだ。原作では描ききれていない果てしなく美しい世界を完成させずにはいられないだけなのだ。(これについてはまた後日記事に書きたい)

だから本当に不安で不安でしかたなかった。

まあ、でもそんなことは杞憂に過ぎず、やまだ先生はわたし以上にわたしの発表からヤオイの真髄を見抜いてくれたようで、質問の一つ一つ、コメントの一つ一つが、わたしの心に残されたわだかまりのようなものを掬いあげてくれた。(聴衆の一人もそう言っていたから本当にそうなのだと思う)

そうなのだ。
物語をあまりに愛し、それを研究にまでしようとする方なのだから、物語への過剰な愛情表現を理解できないはずがないのだ。
ましてや、人間にとっての物語の意味をすくいあげようとしているやまだ先生なら。

もしかしたら、わたしは常に真っ直ぐだったのかもしれない、と思った。わたしは真っ直ぐに向かっている。人間にとっての物語の意味に向かって。


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