KIMISTEVA@DEEP

新たな「現実」を構成するサブカルチャー研究者kimistevaのブログ

「神のことば」と「当事者のことば」

2008-02-02 09:32:19 | 研究
杉万俊夫先生の集中講義に出席している。

「「集中講義」と書いてあるけど、
「集中講義」というより「集中セミナー」みたいな感じでね。
みなさんの発表や関心なんかを聞きながらやっていきたい。」

・・・と語る杉万先生の語り口は、なんともおだやかで、一切の不安もなくて、
あらためてこの方は雲の上の方だなぁと思い知る。

フィールドワークをやったことのない人にとってはわかりにくいことかもしれないが、
アカデミックな世界にどっぷりとつながら、
しかも研究目的で研究者としてフィールドに降り立ちながら
その場に生きる人たちと同じ地平で、「日常のことば」を話すことは、とても難しい。

研究のことだけに関心がとぶと、
すぐに大文字のカタい言葉ができてしまって、
その場にいる人たちを困惑させてしまう。
もっとも難しいのは、企画を提案したり、反省会をしたりしているとき。
こちらとしては、かなり抽象化された次元で解釈しているので、
特に考えながら話そうとすると、そういう抽象化されたことばがそのままの響きを持って口から出てしまう。
そういうとき、その場にいる人たちは当惑したり、
あるいは、やんわりとわたしに注意する。
・・・そういう経験をもう何度もしてきた。


そんなことを思っていたとき、
杉万先生が、「量的」研究と「質的」研究の違いはその「ことば」にあるとおっしゃった。

「量的」研究は、「神のことば」。
「質的」研究は、「当事者のことば」。

これに対して、よく言われる「数学的言語」=数字、「日常言語」=文字言語という対比は、「定量的研究」と「定性的研究」という対比にあたる分類だと言う。

わたしは、これを聞いて、
本当にそのとおりだなぁ、と思った。
「質的」という言葉に何か意味があるのだとしたら、
その研究としての難しさや独自の特徴があるのだとしたら、
それは「当事者のことば」を用いることができるかどうかであると思う。

単に、ビデオ記録を1回か2回撮ってきてそれを文字化し、分析しただけの研究に「質的研究」という名をつけることに、違和感を感じてしまう理由は、そこにある。
アンケートでとった自由記述をバラバラにして、再構成するだけの研究に「質的研究」と名をつけることに違和感を感じてしまう理由はそこにある。

もちろん、そういう手法そのものが問題だと言っているわけではない。
そうではなくて、
そういう研究を「質的研究」と呼ぶときに感じる違和感がある。
それは、「当事者のことば」を用いていないということ。
「当事者性」なるものが、どこにも感じられないということ。
そのことにあるのだと、あらためて思った。


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4 コメント

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Unknown ()
2008-02-04 19:22:17
>「当事者性」なるものが、どこにも感じられないということ。

当事者として、量的研究をしたとしたら、それは質的研究と言えるだろうか?

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それは (kimisteva)
2008-02-05 11:05:11
それは正確に言うと、
>当事者として、量的研究をしたとしたら、
ではなく、「当時者として定量的研究をしたら」ですよね。
そういう質問としてお答えします。

杉万先生の説明を私なりに解釈すれば、その答えは、YES。
杉万先生のおっしゃったことですごく印象的だったことの一つに、
「答える側から見れば、インタビューもアンケート(質問紙)もそんなに変わらないんですよ」という言葉がある。
結局、答える側だって、アンケートを作った人、配った人に向けて何かを伝えようと思って回答を書くわけで、そういう意味で、アンケート(質問紙)だから「客観的」というのは大きな間違いだ、と。

どちらも、当事者による言説である。
それをどう扱うか?・・・という点に「量的/質的」という研究者の立場がかかわってくるのであって、
たとえば、「まちおこし」や原子力発電所設立に賛否両論の嵐が吹き荒れるコミュニティにおいて、住民全員(数としては当然何百、何千となる可能性がある)に質問紙を配って、それを数量化三類で分析したり、あるいは因子分析や重回帰分析で、数値的な因果関係を導き出したりしても、それは「質的研究」である。
なぜなら、それは当事者である住民の問題意識の中でたまたまその当事者意識を共有する研究者が行った調査であって、それはまさに当事者の中にかえっていく研究であるから。

むしろ、心理学的な一般傾向を調べるために自由記述でアンケートとってKJ法かGTAで分析した研究は、「定性的手法をとる量的研究」なんじゃないかな。

わたしには、その感覚はすごくよくわかる気がする。
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Unknown ()
2008-02-05 20:26:47
句点を打ちすぎる癖がありごめんなさいね。

なんでしょうね。

数で言わないと、政治は動いてくれない。
というような感覚がある。

「数の説得力」にはすごいものがあると思います。
マイノリティが消え去る方法ではなくて、マイノリティを抽出する為に大規模調査をすることも良いと思う。
どんなマイノリティであれ必ず一定量はいるのだから、例えば全国規模で調査をすれば、マイノリティは無視できない存在であることはすぐわかるでしょう。

もちろん、質でしか測れない繊細なファクターは量では消えてしまいます。
けれど、「私たちはこういう存在だ」とか「私たちはこういうことを願う」という提言を、量で簡潔に示すことには説得力があると思います。

量に対する批判として、「ソフトなデータを加工し数値化し、ハードな数式に乗せて分析する」ということがあると思います。
これは私にとってずっと長い間、大きな違和感で、統計の嫌なところでもありました。

でも最近、京都大学の医療統計S先生の集中講義に出席し、ちょっと救われた気分になりました。
というのも、S先生は「ハードな数式」について、「こんなもの合っているわけはない」から「本来、医療統計の前提は崩れている」という趣旨のことを話しておられたので・・・。
その上で、私たち研究者ができること・やるべきことは、「それ以上の前提をできるだけ重ねない」つまり「前提が少ない簡潔な方法で分析をする」。
また「データが情報であることそのものを重視し、加工しない数値を多く提示する」こと。
(ある意味で、データの考察は読み手に任されるわけです)

医療統計は、心理統計に比べとても簡素で、そのかわり考察がふんだんになされるという特徴がある。
ファクターの多い複雑なものを複雑な解析を重ねてもっと複雑に・・・とやってどんどん実体から離れていくのを嫌だと感じていた私にとっては、とても誠実さを感じる授業内容でした。

京都大学の学風なのでしょうか?
量的データを質的に(できるだけありのままに近い形で)見ようとするような印象を受けました。

この他にもいくつか疫学の優れた点を発見しているので、この分野に移ってとても気が楽になったし(誠実みが増したという意味で)「こういう分析でなら、当事者として量をやってもいいかな」と思っています。



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うーん (kimisteva)
2008-02-06 17:10:17
すみません。コメントの趣旨がよくわからないのですが、とりあえずコメントを書き始めたときに言いたかったことは、
「量的研究をネガティブに捉えなくてもいいんじゃない?」
・・・ということですか?


だとすると、
いつの間にかコメントが、(「量的」「質的」)ではなく「定量的」「定性的」という話にシフトしてしまっている気がします。

うーん。
どういうことが言いたかったのだろう・・・?
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