今から十数年前、窯元で器を買おうと、母と姉と一緒に笠間まで行った。当時、まかない付きの寮で一人暮らしをしていた私は、器を買う必然性はあまりなく、ほんの付き合いで行ったように思う。
笠間に着くと、窯元らしい商売っ気のほとんどない、一軒のお店に入った。華美な装飾はなく、だからこそ毎日使えそうな、落ち着いた色、形の器が並んでいる。私は、その中で四角い銘々皿、二枚に惹かれた。地味なお皿が並ぶ中、絵が描かれていたのは、そのお皿だけだったように思う。砂色の地で、縁が少しベージュがかっている。一枚は、横二本の枝に、淡いピンクの梅の花がいくつか描かれ、もう一枚は、薄い藍色で露草のような草花が描かれている。今まで使ったことのなかった四角い形と、控えめなその絵柄が気に入り買うことにした。
器を包んでもらい、お金を払ったそのとき、作家さんの奥さんであろうお店の人がこう言った。「もし良かったらこのお皿持っていってもらえませんか?」焦げ茶の七寸皿が棚の下の奥の方から出てきた。「これは作るのに結構な手間がかかり、釉も上等なものを使っている、いいお皿なんです。でも、最後、焼いたときにちょっとした焼むらができてしまって、売り物にならないと主人は言うのです。わからない程度のものなんですけど。」確かに私にはどこが駄目なのか、まったくわからない。「本当は割らなくちゃいけないんですが、どうしてもできなくて。主人に見つかると怒られてしまうのですが、使ってもらえたらと思って。」懇願するような感じで奥さんは言う。焦げ茶一色というわけではなく、生地のクリーム色がところどころ浮かび上がる微妙な風合い、上等なものなのだという感じは伝わってくる。 奥さんの言葉に押されて、というより、お皿の魅力に引かれて一枚もらうことにした。使ってみると、このお皿はたちまち威力を発揮した。ただトーストしたパンや、何でもないぺペロンチーノもこのお皿で食べると実に美味しい。ちょっと寂しかった一人の食卓もおしゃれな洗練されたものになる。器の持つ偉大な力を知った。
この力を生み出しているのは、作家さんの妥協を許さぬ仕事に対する厳しい姿勢なのであろう。そして、その厳しさを知りながら、いや、そのご主人の苦労を知っているからこそ、どうしても割れなかった奥様の複雑な思いから、私は器の偉大な力を知ることになる。ご主人の満足のいくお皿は更なる力を持っているのだろう。意に背いて、このお皿を使っている点でご主人に対しては心苦しい思いもある。ただ、この焦げ茶のお皿のおかげで、器が「ただ単に食べるものをいれるもの」から、「食事を楽しむための愛すべき道具」に変わった。私の器好きはここから始まる。(ゆ)