旅つづり日々つづり2

旅のような日常と、日常のような旅の記録と記憶。

学ぶこと。学びあうこと。

2020年03月05日 23時22分19秒 | 日々のこと
「学校と塾の一番大きな違いは
 学校は“学びあう場所” 塾は“学ぶ場所” です。」

福の一年生の時の担任の先生が、入学してすぐの懇談会でおっしゃた言葉だ。
ストンと心に落ちて、ずっとこの言葉を大事に持っていようと思ったのを覚えている。

だから、学ぶだけの目的であれば塾でもいいし、ホームスクーリングでもいいし、
独学でも構わないということ。学校の目的はクラスメイトと、先生と、地域の方たちと
「学びあう」ことでその年齢に必要な知識を吸収していくことだと。

今、この国の子どもたちが置かれている状況に日に日に疑問と怒りが深まっていく。
「ネットで授業配信したらいいのでは」
「ホームスクーリングのお試しになってよいのでは」
「タブレット教育を今後推進していくにはいいきっかけになるのでは」
「誰もが誰も学校に“登校”するという前提がおかしいのでは」
「塾あいてるし、普段から学校には期待してないからそんなに危機は感じない」
そんな声もあちこちら聞こえてくるが、じゃあ、言わせてもらおう。

今のこの状況は【ゲームやりたい子のゲーム機から電池を抜いてるようなもの】
【タブレットで勉強しようとしてるのにネットに接続できないようなもの】
【塾に行こうとしたらいきなり倒産して塾ごとなくなったようなもの】

私にはそんな風に思えてならない。

家でプリントをしている子どもたちの表情に授業参観でみたようなイキイキさは
全く感じられない。うちの家のトランポリンに集まってくる中学生たちは明らかに
エネルギーの放出先を失って、変なハイテンションになっている。

お昼ご飯を一人でチンして食べた子、今日この国に何人いたんだろう?
やりきれない。

政治が暮らしに直結していることを頭では理解しているつもりだった。
でも、こうして適当に決められた政策に、ドカンと日常を乗っ取られると
どうやって動いていいのかさっぱりわからなくなる。
結局私もゆるゆると日常を疑うことなく“平和ボケ”していたその一人でしか
なかったのだと呆然としている。

保育園を開けている理由はなんや?
学童と教室とどっちの方が接触度が高いか、知ってるよな。
(政治家は知らないとでも?じゃあ、今すぐ視察しろ)

「でも、しゃーないよな。こんな時だから」

こんな時ってどんな時?黙って言うことを聞かなあかん時なのか?
誰が決めた?それ本当に自分で考えた?
せめて、専門家の意見をもっともっと公表してほしい。自分で判断する基準が欲しい。

で、なんでこの国には小学一年生の子どもにわかるように、今回の休校を説明しようと
する大人がどこにもいないのか??当事者はこの子たちだ。
子どもはもっと直感的な感覚でこの空気をじゅうぶん理解している。
大人のやることをみている。先生がやることをみている。そして自分の頭で考えている。
その年齢なりに現実としっかり向き合っている。

学校は全ての子どもにではなくても、確かに子どもの「居場所」なのだ。
学びの場をいとも簡単に奪われた子どもの尊厳はどこにあるのか。
それをずっと考えている。