旅つづり日々つづり2

旅のような日常と、日常のような旅の記録と記憶。

うらやましい遊び

2019年03月23日 11時14分14秒 | 日々のこと
子どもたちが8時過ぎから外で走り回っている。私はまだ布団の中。
ぐっすり眠って、てんこ盛りの朝ごはんを食べて、フルチャージ完了といったところか。
近所の子どもも一緒になって、みんなでギャースカ騒いでいる声が聞こえる。
いいねえ。

ダンナ氏が「なんか、ものすごい遊びしてるけど・・・」と半笑いでやってきた。

全員が自転車に乗りながら違う誰かになりきって、四つ角のところでゴツンとぶつかる。
それからその場で初めて会ったかのように自分を紹介しあう。という遊びを夢中に
なってやっているというのだ。
聞き耳をたてていると「あらー。はじめまして、あなたの名前はなんていうの?」
「あっ、おれは○○。近くに住んでるねん」なんて、全く架空の世界の架空の話で盛り上がっている。
しばらく会話を楽しんだ後は「じゃあ、そろそろドライブにでかけてくるわ」「ああ、私もかいもん
いってくるわ」とそれぞれ違う方向に散らばっていき・・・再び違う誰かになって、また出会う。
これのエンドレス。

もう、会話が笑えて仕方ない。ネーミングのセンスも絶妙。
自転車を思いっきりこぎながらゲラゲラ笑っている。おもしろすぎてすっかり目が覚めた。

この遊び、自然発生的にやり始めたのだろうけど、発達の過程でものすごく重要な要素を
いくつもいくつも含んでいる。

・他でもない誰かになりきること
・演じている自分と他人の世界に入り込むこと
・身体を動かしながら考えていること

難しい言い方をすればもっとあるのだろうけど(学生の時に学んだ教科書を引っ張りだしてこないと
忘れた・・・)だけど、これがこの子たちに必要な遊びであることははっきりとわかる。

「あー、子どもだけで遊ぶことができない子たちは、これの代替としてゲームの世界で何かに
なりきっているのかなあ?」とふと思った。大人の監視のないところで思いっきり自分を解放して
遊ぶこと。これこそが大事なんだけどなあ。ゲームの中ではこれが可能なのかも。
だとしたら、こんなバカげた遊びを保障してやる時間と場所と仲間こそが今わたしが子どもたちに
与えることのできるギフトだ。

大人になってもこれ、やってみたいよなー。
その人の本質がダダもれで表れるような気がする。ふふふ。

ごはん6合炊いて、さあお昼。ホーホケキョ。