「政治家にかぎらず、自分の出処進退を口にしたら、辞めなければ価値を落とすことになる」などと質問しました。これに対し、海江田大臣は「いつ責任を取るかは、自分で決めさせていただきたい」と述べました。このやり取りの中では、海江田大臣が「私は自分の価値はどうでもいいですよ」と感極まった様子で、声を詰まらせながら答弁する場面もありました。
趣味的にいうとちょっとみっともない。せめて、テレビのうつらないころで、上を向いていてほしかった。
「フェミニズムの先駆者」に誇り 退職の上野千鶴子が特別講義
2011年7月28日
「私はフェミニズムの評判がどんなに悪くなっても、この看板は下ろさない。語る言葉を持たなかった女たちが、言葉をつくるために悪戦苦闘してきた。その先輩たちのおかげで私はいる」
上野が講演の最後をこう締めくくると、教え子も多数詰めかけた会場に万雷の拍手が響いた。
「恩返しのために、次の世代へ渡す時期が来た。バトンは受け取る人がいないと落っこちてしまう。どうぞ受け取って下さい」
この講義の模様はインターネットで視聴できる(http://wan.or.jp/)。
というわけで、
上野千鶴子震災支援特別講演「生き延びるための思想」
さらっと飛ばし飛ばし、メモしながらみる。メモをみながら再構成すると、
フェミニズムの定義 女性解放の思想と運動
女性学 フェミニズムのための理論と研究・おんな経験の言語化・理論化
なるほど。
国策男女共同参画
共同参画という言葉は行政が平等という語を入れたくないので作った言葉だそうである。
目標 人口比に見合った男女共同参画ということで、それを推し進めて、伝統的には男性がやっていた職業、例えば、大工さんなども女性がやるようになる、そして、軍隊にまで、女性が行くようになる、しかし、それでいいのだろうか?と。
まず、構造・ルールを変えないまま女も平等に競争に参加するこのゲームは女が負けるようにできている、と。
ネオリベ
勝ち組 勝間
負け組 香山
頑張って努力して勝ち
女が負けるようなルール
で、彼女は、主婦の研究から始めて、不払い労働の理論を、家事は労働か?という問いをたててぶちまけた、と。
マルフェミ マルクスに挑戦したフェミ
伝統的なマル経からすると、主婦の労働は生産活動ではないが、それに挑戦したのである、と。
で、それまでの理論は、
市場 外部コスト (家族 自然)
という市場 家族 の二元論であり、育児介助 産み育て死を看取る労働がなぜか下位におかれていた、と。
しかし、国家の観点が欠ける、と。で、国家とは
国家 強制力をもつ集中と再分配の制度
の謂いであるが、しかし、女もまた国家に男並みに参加することがフェミのゴールか?と
そこで、四元論を打ち立てた、と。
公
government
common(civil)協
私
family
market
で、福祉については、
福祉 補完主義 市場と家族がうまく機能しえちるときは、補完
と考えられていた、と。
しかし、
自助でもなく公助でもない、共助
というあり方があるのではないか?
血縁・地縁・社縁→選択縁
家族、市場、国家の失敗が身に染みた人達が、しがらみのない自分の意志で選択する、選択縁というものがあっていのではないか、と。
で、
当事者主権 私の運命は私が決める 至高の原理
ということを言い始めた、と。
社会的弱者(障害者、女、老人、患者などの)の決定権が奪われてきた。
そうだ、フェミとは、社会的弱者の自己定義権の獲得する活動であって、弱者は自己定義権を奪われてきた。
弱者は支配的社会的強者に何者かを決められてしまう。
例えばの話、煙草を吸うと女らしくない、あぐらをかくとお嫁にいけない、あがったら女ではない。ブスは女ではない、など、支配者に都合のいい”女”の定義・イメージ
しかし、あんたに教えてもらう必要なない、女性学とは当事者研究なんだ、と。
そして、当事者 問題を抱えたもの、としてとらえられてきたが
→問題を解決する責任が社会にあるニーズをもった主体としてとらえなそう、と。
では、問題とは何か、
問題 あなたをつかんではなさいこと
例えば、女、在日、レイプ被害者などである。
で、今回の震災の話などになって、
弱者を救おうと犠牲になったひともいれば、原発作業員などの決死隊もいる。
戦争などの非常時に、男らしさと結びついて決死隊などがあるが、しかし、そこから、逃げても卑怯ともいえない。
そこから、国家の安全保障というより、人間の安全保障 ということを考えるようになった、。それは、
国家よりも人間が安心して弱者になれる社会
つまり、ヒロイズムから下りてもいいのだ、フェミは女も男並みに強者になる思想ではない。
女は弱者である。女は子供を産むと介護する者ができると、弱者になり、その責任から逃げてこなかった。
弱者だから支えあう、弱者が弱者のまま尊重されるのがいい。
8月15日の敗戦の空、国家も権力、行政もあてにならなくなった焼け野原で歩き始めた女たち。
そこに、生きき延びるための思想がある、と。
ーーーそもそも私はフェミ思想というものをあまり知らない。上野氏の著作も読んだこともない。栗本慎一郎氏などが称賛し売れていた『セクシィ・ギャルの大研究』などを本屋で立ち読みしたことがある程度の記憶である。
誤解もあるだろうし、そもそもはっしょってしまって正確でもないのだが、ある程度刺激的ではある。そこで、氏の話というよりもそれから刺激をうけてつらつらとうかんだ想念の何点かについて。
あ)自己定義権というのは面白いですね。これ、英語圏の記事を読んでいる日本人ならある程度わかる。日本人とはこうだ、と支配的なディスコースによって、都合良く勝手に規定される。
どこでもそういうのはあるのであって、例えば、
アルジャの動画
The Intervention
Examining the impact of the Australian government's so-called 'intervention' policy on aboriginal communities.
Witness Last Modified: 29 Jul 2011
Filmmaker: Julie Nimmo
Recorded over eight months in the community of Katherine in the Northern Territory of Australia, The Intervention reveals the federal government's implementation of its so-called 'intervention'.
JOIN THE DEBATE
Send us your views and join the Witness community
It shows the impact of this controversial policy - which has recently been declared racist by the UN special rapporteur on indigenous human rights - on the aboriginal communities it is designed to 'stabilise'.
The film, by director Julie Nimmo, follows a range of people from within the community as well as the local government workers tasked with implementing the policy. It puts a human face on the consequences of a policy that has divided the country.
これはオーストラリアの先住民アボリジニ政策で、アボリジニは勝手に幼児性虐待者あるいは、お金の使い方を知らないとして規定されてしまう、福祉の名の下に、かえって尊厳を失われているケースを扱っている。
Independent/Reuters
UN claims Canberra has racist policies
Reuters
Thursday, 26 May 2011SHARE PRINTEMAILTEXT SIZE NORMALLARGEEXTRA LARGE
The United Nations top human rights envoy attacked Australia's tough refugee policies and the treatment of outback Aborigines yesterday, saying there was a strong undercurrent of racism in the country.
Long-standing policies of locking up asylum-seekers had "cast a shadow over Australia's human rights record", and appeared to be completely arbitrary, said Navi Pillay, the UN Human Rights Commissioner.
"I come from South Africa and lived under this, and am every way attuned to seeing racial discrimination," Ms Pillay, a former anti-apartheid campaigner and International Criminal Court judge, said at the end of a six-day visit. "There is a racial discriminatory element here which I see as rather inhumane treatment of people, judged by their differences, racial, colour or religion."
国連からは差別的政策である、と非難されているようであるが、まあ、こうしたことがある。
やっぱ、こうした勝手な規定に対してはNoと言っていかなくてはならない。Noと言える女、Noといえる日本、というわけで、この点、深いところで上野氏と石原氏には共通のものがある。それはいいとして、ただ、彼女は女性は弱者である、云々である、と規定してしまっている。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
更新
日本人はこうである、女はこうである、というのを支配的なディスコースで規定されるのだが、日本人も、、女性もまた、そうした支配的なディスコースの規定に同調している人もいる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
女はこうあるべきという圧力から解放されるのはいいが、しかし、女が女はこうあるべきとか、こうである、と言い出してもおかしくなる。伝統的な女性から、男性的な女性などなど多様な女性がいてよい、固定的にみるな、固定は死なり、というところでとどまるべきであろう。なぜなら、女は女、男は男でありながら、その本質はない。
若いときに読んだ本で、維摩経という仏典がある。そこで舎利弗が突然女性に変身させられてしまう章があった筈だ。ググると、
天女、舎利弗に教える
ちゃんとある。天女と舎利弗が問答している場面である。
舎利弗を天女のように変身せしめ、 自らもまた舎利弗の姿に変じてしまいました。
そして舎利弗に問うて言います、『何うして女身を転じて男にならないの?』と。
舎利弗は天女の姿のままで答えて言います、
『私は今、何うすれば転じることができるかを知らずに女身になってしまった。』と。
天女が言います、
『舎利弗、もしあなたが女身を転じて男になることができれば、一切の女人も転じることができましてよ。
舎利弗、女ではなくても女身を現すということがお分かり?
一切の女人も同じですのよ、
女身を現してはいますが、実は
女ではございませんの。
だから
仏もお説きになっていらっしゃいます、
一切のあらゆる物事は、
男でもなく女でもないと。
やっぱし、仏さまは偉いね。
実体なき差異の戯れ、といえば、多少現代風なのかもしれないが、一切のもの、男も女も、太郎ちゃんも華子ちゃんも、”黒人”も”白人”もそれに対応する実体や本質があるわけではない。
こうあらねばならないという自分もない。
い)それが悪いというわけでもないのだが、共助、女縁社会というあり方にも疑問がある。
まず、しかたなく支えあう人々というのがいる。貧困な社会の貧困な家族、あるいは、日本でも一部のホームレスが支え合って生きている。これは美しい。
が、しかし、彼女の考えているのはそうしたあり方ではあるまい。
東大の教授という経歴があり、これからも講演や私大の教授、あるいは名誉教授が保障された勝ち組女性たちや、有閑マダムなら、孤独に耐えきれず、適当に支え合っておもしろおかしく、あるいはちょっとメロドラマ風に生きていくのも可能かも知れない。しかし、そこからはみだしてしまう人達がいる。共助からはみ出し、、可愛くもない、醜い人々もいる。一部の宗教なんかはそこらへん、もっとも醜いものまで、救済を申し出るのであるが、しかし、これにも限界があり、やはり、公助で救済していってもらいたいのである。いや、そもそも共助の土台もある程度公的な援助が必要なはずだ。
それと関連して、
う)ヒロイズム
男たちはヒロイズムから下りていい----それはそうである。
英雄というのは、英雄にならなかったといって非難されるべきものではない。
しかし、あえてやることは称賛されてよいのである。
つまり、行為というのは、やったら、あるいは、やらなかったら非難される行為、やってもやらなくても非難されない行為、やらなくてもいいがやったら称賛される行為があるわけで、ヒロイズムというのは、最後のグループに属する。
で、例えばの話、弱者を救うと言うこともヒロイズムであって、例えば、津波に流される老人を救わなかったとしても非難されるべきものでもないが、やれば、成功しなくても英雄的な行為なわけである。違う角度からみると、弱者同士の支え合いも、できればいいができなくても非難されるものでない。そこにやはり限界があるのである。自助も無理、共助しなくても非難できない場合があり、しかし、それでは忍びない、だからこそ、社会がそうしたものまで見捨てまいぞ、という義務的、強制的公助の部分があってもよいし、強制はしないものも、進んで身を投じたものに対しては、社会からの称賛があって然るべきなのではないか。
え)戦争論に関しては、他に著作があるのかもしれないが、戦争はまっぴらだ、という感情しかないような印象がある。人を殺すのはよくない、というその一点張りでは、戦争を回避することはできない。野蛮な男たちに囲まれた女性たちは輪になってしゃがんで身を縮めているのか?ただ、これについては他になにかいっているのかもしれない。
お)当事者主権について、
問題を解決する責任が社会にある、というところが微妙で、自分との関係性ということで、自分のあり方と他者のあり方両方を問うていく、というなら、わかるのだが、しかし、自分が被害者で、かつ被害者でしかなく、問題は加害者たる社会というようなとらえ方をしてしまう人がいるのではないか、とも感じてしまう。後者は、自分の不幸を母親の教育、あり方のせいにしている大人のような印象を受けるのである。なんていうか、日本は男性支配的社会であり、自分は被害者である、といったにおいのする発言をする進歩的な女性らしき人になにか、かえって、伝統的な意味での”女々しさ”を感じてしまうことがあるのである。
「男は黙ってサッポロビール」ーーーそれはどうでもいいんだが、(日本的?)伝統的価値観の一つの中で、仮に自分が被害をうけても、仮にどうしようもなくても、仮に責められても、他人のせいにせず、黙って引き受ける、というのがある。
この前NHKで上を向いて歩こうについての番組があった。永六輔がイメージしたのは、少年が泣きたいけど泣いてはいけない、泣きたくないけど泣けてくる、上を向いて涙がこぼれるのをじっと耐えている姿なのだそうである。
そうしたことは、少年でも少女でも、あるいは男でも女でもあるのだろうが、これは一つの美である。見せる涙ではなく、見せない涙を偶然見てしまうとそこにグッとくるものがある。海江田氏のはもろにみえてしまったからちょっと、と思うのだが、なんていうか、苦難を黙って引き受けいく姿というのは、男性でも女性でも美しい。
「女も黙ってサッポロビール」
が、それだけでもやっぱまずいから、他人や他者、社会についても言うべきはいい、責任とってもらうところはとってもらう。しかし、やはり、関係であるから、自分にも責任があるわけで、その責任に耐えるべき耐え、また、自分自身もあらたな自分のあり方に向かってアンガジェしていかなければ、関係性はなにもかわらない。
また、その歴史社会的な関係性のなかにしか自分はいないのであって、当事者主権自己定義権といってもその関係性を無視したら空想に終わる。
【1/31】『新編日本のフェミニズム』全12巻完結記念公開シンポジウム全記録
ビデオのなかで紹介されていた文献である。まだ、読んでいない。
@tomojiro
tomojiro
The Economist最新号の特集"Turning Japanese"、どうでもいいけど表紙がむかつく economist.com/node/21524874
Turning Japanese
The absence of leadership in the West is frightening―and also rather familiar
Jul 30th 2011
The world has seen this before. Two decades ago, Japan’s economic bubble popped; since then its leaders have procrastinated and postured. The years of political paralysis have done Japan more harm than the economic excesses of the 1980s. Its economy has barely grown and its regional influence has withered.
As a proportion of GDP, its gross public debt is the highest in the world, twice America’s and nearly twice Italy’s. If something similar were to happen to its fellow democracies in Europe and America, the consequences would be far larger. No wonder China’s autocrats, flush with cash and an (only partly deserved) reputation for getting things done, feel as if the future is on their side.
Just as in Japan, politicians have failed to make the structural labour- and product-market reforms essential to spurring growth. If this deal spawns a fiscal union within Europe, as it may well, that will not be because Mrs Merkel and her peers took a bold, strategic and transparent decision to create one, but because they ran away from more immediate forms of pain
In both Europe and America electorates seem to be turning inward. There is the same division between “ins” and “outs” that has plagued Japan. In Europe one set of middle-class workers is desperate to hang on to protections and privileges: millions of others are stuck in unprotected temporary jobs or are unemployed. In both Europe and America well-connected public-sector unions obstruct progress. And then there is the greatest (and also the least sustainable) division of all: between the old, clinging tightly to entitlements they claim to have earned, and the young who will somehow have to pay for all this.
欧米もこんなことだと日本みたいになっちゃうぞ、と。
どうだ、日本ポストポストモダンや、ガハハッ と笑える事態ではない。
日本の政治家の無能、機能不全ぶり、また、既得権益への粘着している一部の人々が、日本を絶望的にしている。
絶望していないのは、そこそこの既得権益をいまだもっている議員・官僚・ジャーナリストくらいか?
表紙の絵に関しては、・・・・・とくになんだか、よくわからない、といった感じだけ。
原発政策を決める「国民投票」の実現を 「なでしこジャパン」のようにチームプレイ、そして諦めない執念で「電力・原発の政官財癒着」を断ち切れ
2011年07月20日(水) 渡辺 喜美
渡辺 喜美
ミッチーなかなかいいこといってると思うだが・・・・
やれやれ