Japanese and Koreans invaded Asia. We apologize.

参拝の意味

2013年12月29日 01時13分22秒 | Weblog
アゴラ @agora_japan

アゴラ : 「英霊」は餓死、自殺攻撃をさせられた--装置「靖国」賛美の違和感 http://bit.ly/1fPJglD
池田信夫がリツイート



4・つまり、靖国神社は死を「聖化」するための国家神道内の「装置」であり、「人工物」である。純粋な宗教施設ではない。


死を聖化するってのは、まさに、宗教ではないか。ポアするとかいって、殺害を正当化していた新興宗教は記憶に新しいが、キリスト教も、本来、無である死を聖化しているではないか。


日本帝国陸海軍、そして大日本帝国の戦争観は、醜悪な面がある。兵士の命を粗末に扱うのだ。旧軍は明治の建軍以来、戦勝を重ね、日本の国際的地位を高めた栄光の歴史がある。一方でその醜悪な面、そして太平洋戦争で大敗した負の歴史がある。恥ずべき歴史は、記憶をしなければならない


これはたしかにその通り。

私が腹を立てるのは、この戦争で頻発する非合理性である。戦争の勝利という軍の追求すべき目的に基づく合理的行動より、軍官僚の保身、人命の軽視、プロにあるまじき錯誤が目立つのだ


全くその通りだが、非合理といえるか、どうか?

敵国に「こんな気の狂った集団と戦うのはたまらない」という恐怖を与えれば、和平を求めてくるかも知れない。 玉砕はなぜ生まれたのか - 『未完のファシズム』
池田 信夫 
 



醜悪ではあるし、繰り返されてはならないが、限られた資源で、勝つための手段・方法としての一定の合理性はある。 例えば、悪魔が非合理とは限らないのである。


「戦没者に感謝」などと、きれいごとで決してすまない。普通の感覚なら「責任者でてこい」と、糺弾すべき話が多い


 そして、責任者は戦後戦争裁判で裁かれたわけだ。


 2等兵やら1等兵やら、飢えと苦しみのなかで、死んでいった、あるいは、靖国で会おう、といって自爆していった下層の兵士たちを慰霊したくなる気持ちは、私にはわかる。

 
これらの事実について、私は日本軍の作戦・戦備立案者、それを認めた組織に怒りを覚える。戦争は人間の社会で避けられない以上、軍は必要かもしれない。しかし国も軍も、飢餓という地獄に直面させる、爆弾を持って突っ込ませるなどの非人道的行為を、国民に強制させる権限は絶対にない


 その通り。

死にゆく人々を、神とおだてている。これは靖国の存在が前提になっている。


 宗教において殉教者がおだてられるのはめずらしいことではない。

こうした日本帝国とその陸海軍の負の側面と密接に絡み付いた靖国神社に肩入れすることを、私は理解ができない。慰霊はどこでもできる。


私も個人的には、慰霊はどこでもできる、と思う。しかし、靖国で会おう、といって死んだ兵士たちの言葉を重視する人たちもいる。それはその人たちの自由である。


私個人は靖国神社に否定的な見方をしているが、それを信じる人、またここを慰霊施設と見る人の意見は尊重するし、靖国神社を感情的に罵倒する人も不快だ。また中国、韓国、北朝鮮、米国など他国が干渉するのも、反感を抱く。


 なるほど。


しかし靖国神社に首相が訪問することは、国家意思の表明となる。これは対外的なメッセージになるだけではない。それよりも、日本帝国とその軍が、自国民と兵士に行った恥ずべき歴史を肯定するという意味を持ってしまうのだ。


ここが問題なんだなああ、
首相は
日本は、二度と戦争を起こしてはならない。私は、過去への痛切な反省の上に立って、そう考えています。戦争犠牲者の方々の御霊を前に、今後とも不戦の誓いを堅持していく決意を、新たにしてまいりました。

 同時に、二度と戦争の惨禍に苦しむことが無い時代をつくらなければならない。


靖国参拝については、戦犯を崇拝するものだと批判する人がいますが、私が安倍政権の発足した今日この日に参拝したのは、御英霊に、政権一年の歩みと、二度と再び戦争の惨禍に人々が苦しむことの無い時代を創るとの決意を、お伝えするためです。

Japan must never wage a war again. This is my conviction based on the severe remorse for the past. I have renewed my determination before the souls of the war dead to firmly uphold the pledge never to wage a war again.

I have also made a pledge that we must build an age which is free from the sufferings by the devastation of war;


Some people criticize the visit to Yasukuni as paying homage to war criminals, but the purpose of my visit today, on the anniversary of my administration’s taking office, is to report before the souls of the war dead how my administration has worked for one year and to renew the pledge that Japan must never wage a war again.






 安倍氏は、、日本軍が犯した戦争犯罪について肯定するものではなく 歴史を肯定するというより、過去への痛切な反省、と言っているわけですね。

 ここらへん、安倍氏が、侵略の定義は学術的云々とか言ったり、その他、談話を新たにする、などと言っていたのが裏目にでているが、しかし、中国や韓国が勝手に、参拝の意味を決められるというものでもない。

 アメリカ大統領がアーリントンに行くと、それは、原爆での大量虐殺や、ベトナムでの戦争犯罪を肯定することになる、と私が勝手に決められるものでもない。

 やはり、参拝者の意図をくむのが重要である。

 例えば、鎌倉の大仏を参拝に行きました、といって、その人が仏教徒である必要もなく、仏教の特殊な教義を信奉しているとも限らない。参拝の意味は本人に聞くしかない。


 靖国がA級戦犯を合祀してしまったから、ややこしくなったわけで、それまでは、各国要人や天皇陛下も参拝していたわけだ。A級戦犯をヒットラーに喩えるひとがいるが、しかし、ナチの犯罪で、特に問題にされているのは、戦争犯罪というより、人種差別にもとづく大量虐殺であるのであって、比べ物にならない。

 この醜悪な戦争の総括責任者みたいのまで、祀ると、戦死者の慰霊という意味を超えて、醜悪な戦争まで肯定していると解釈されるのではないか、と恐れて、参拝をとりやめるようになったわけであろう。


(1) 靖国や一部の右翼は、先の大戦について、汚い戦争ではなかった、アジア解放戦争であった、と美化しているものもおり、彼らにとって、総括責任者を祀るのは全く問題ないどころか当然なのである。

(2)他方、A級戦犯の犯罪を認めたうえで、しかし、罪に対する罰は受けたわけで、祟りをおそれる神道からすれば、なおそら、その霊を敬うこと自体は問題ない、という人々が居る。

(3) さらに、自分の特定の家族が祀られていたり、あるいは、特定の誰かではなく、靖国に祀られると信じ、苦しみながら死んでいった兵士たちに敬意を表すために、参拝する人もいるわけだ。

(2)(3)の場合、戦争犯罪が犯されたことを否定してもおらず、問題はないのだが、しかし、(1)は、宗教の物語としてはありえるが、事実問題としては、やはり、問題がある。

 参拝をするとすれば、可能な限り、(1)でないことはっきりさせるべきであるが、安倍首相の場合は、(1)の信奉者ととられてもおかしくない言動がそれまでに、あったわけだ。

 だから、非難される余地がなかったわけではない。

 戦死者に誠意を示したかったなら、総理の肩書きなしに、個人として、隠密に、行った行かなかったを明示しない、戦術をとるべきであったし、それで、十分であったはずである。

 国際的に、かなりの影響があることの認識がなかったとすれば、甘いし、認識があって挑発しているとすれば、やりすぎのかんが強い。

 いまだ、流動的な段階であり、この件について、中国がどうでてくるか、注意深く観察していきたい。



 










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