Japanese and Koreans invaded Asia. We apologize.

”自分を超える価値が認められなければ、生きていることすら無意味”

2016年11月20日 14時08分51秒 | Weblog




大西は「もはや内地の生産力をあてにして、戦争をすることはできない。戦争は負けるかもししれない。しかしながら後世において、われわれの子孫が、先祖はかく戦えりという歴史を記憶するかぎりは、大和民族は断じて滅亡することはないであろう。われわれはここに全軍捨て身、敗れて悔いなき戦いを決行する」と話していたという(『一億人の昭和史3 太平洋戦争 昭和16~20年』


特攻を押し付けられた方はたまったもんではないが、

仲間のため、大義のために死んで英雄になる、

というのは、何度でも繰り返される物語である。


グスコーブドリの伝記









終戦の詔勅自体については私は不思議な感動を通り越したような空白感しかありませんでした。それは必ずしも予期されたものではありませんでした。今までの自分の生きて来た世界がこのままどこへ向かって変わって行くのか。それは不思議でたまらなかった。そして戦争は済んだら、あるいは戦争に負けたら、この世界崩壊するはずであるのに、まだ周りの木々が、みどりが、濃い夏の光浴びている
そのあと二十年は、一見太平無事な時代が続いているようでありますが、結局これは日本の工業化のおかげでありまして、精神的にはやはり何ら知的再建に値するものはなかったんではないか。
リルケが書いておりますが、現代人というものはもうドラマチックな死が出来なくなってしまった。病院の一室で一つの細胞の中の蜂が死ぬように死んでいくというようなことどこかで書いていた記憶がしますが。今現代の死は病気にしろあるいは交通事故にしろ何らのドラマがない。英雄的な死というものもない時代に我々は生きております。
それと死ぬのも何かのためということは必ず出てくる。それは昔言われた「大義」というものです。そして大義のために死ぬということは人間の最も華々しい、あるいは英雄的な、あるいは立派な死にかたというふうに考えられている。しかし今は大義がない。これは民主主義の政治形態というものは大義なんといらない政治形態ですから。当然なんですが。それでも、心の中に自分を超える価値が認められなければ、生きていることすら無意味なるというような心理状態ないわけではない。
自分に返って考えてみますと、死を、いつか来るんだと、決して遠くない将来に来るんだというふうに考えいたときの心理状態は今に比べたら幸福だったんです
。それは実に不思議なことですが、記憶の中で美しく見えるだけでなく、人間そういうときに妙に幸福になる。そして今我々求めている幸福というものは生きる幸福であり、そして生きるということは、あるいは家庭の幸福であり、あるいはレジャーの幸福であり、楽しみでありますでしょうが。しかしあんな自分が死ぬと決まっている人間というものは今ちょっとないじゃないか。そういうことを考えて死というもの、じゃお前恐れないのか?それは私は病気になれば死を恐れます。それから癌になるのも、一番嫌で。考えるだに恐ろしい。それだけに、なんかもっと名誉のある、もっと何かのためになる死に方をしたいと思いながらも、結局[はぐれ」の著者のように、生まれて来た時代が悪くて、一生そういうことを思い暮しながら畳の上で死ぬことになるだろうと思います。





武士は普段から
武道の鍛錬を致しますが
なかなか、生半なことでは
戦場の華々しい死なんてものはなくなってしまった。

そんな中で
汚職もあれば社用族もあり、
今でいえばアイビー族みたいなものが
侍のあいだにも出てきた時代でした。

そんな中で「葉隠」の著者はいつでも、
その武士というものは一か八かの選択の時には死ぬ方を選択しなければならない。
と、口をすっぱくして言いましたけれども、
著者自体は長生きして畳の上で死んだとあります。

そいう風に武士であっても
結局、死ぬチャンスがつかめないで
「死」ということを心に描きながら生きていった

そういことで仕事をやっていますときに
なんか、生の倦怠と言いますか、
ただ人間が自分のために生るとうことだけには
賤しいものを感じてくるのは当然なのであります。

人間の生命というのは不思議なもので、
自分のためだけに生きて、自分のためだけに死ぬというほど
人間は強くないんです。

というのは人間は何か理想なり、何かのためということを考えているので、
生きるのも自分のためだけに生きることには飽きてしまう
死ぬのにも何かのためということがでてくる。

それが昔言われていた「大義」というものです。
大義のために死ぬというのが人間にとって華々しい、あるいは
英雄的な、あるいは立派な死に方だと考えられていた。


しかし、いまは大義がない。
これは民主主義の政治形態が、大義なんていらない政治形態ですから、
当然なのですが、

それでも心のなかに自分を超える価値が認められなければ、
生きてることすら無意味になるというような心理状態がないわけではない。

ここでは「社用族」で合っていると思う。
一瞬、太宰の「斜陽族」の方かと思ったけど、話としては恐らく「社用族」のことを言っている。

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