Must-Read: Comfort women and Yankee princess (1)
このように,反共―親米主義的な思考回路をもとに西欧流の発展論理を無批判に追求してきた韓国式近代化の歴史の中で,基地村の女性は米軍に「体を売る」汚い「洋ガルボ」として社会的な蔑視の対象となったが,時には国益に寄与するドル稼ぎの「愛国者」と呼ばれた。韓国政府は特殊区域の指定,酒類免税,韓米親善協議会,韓米親善郡民協議会,韓国特殊観光協議会など数々の名目と制度をつくり,女性を継続的に統制し搾取してきたが,公式の歴史の中では彼女たちの存在は可視化されて来なかった。大韓民国全体が「洋公主」が保証する国家安保に依存し,
「洋セクシ」が稼いだ金に,あるいは彼女たちの職場と結びついた経済構造に寄生し,一定程度アメリカの「慰安婦」となって生きてきた歴史は沈黙の記憶の中に埋められるしかなかった。
結論的には,基地村を通じてアメリカは外部に露出することのない孤立した地域で米軍の性的欲求を安全に解決し,民主主義と自由の守護者というイメージを維持することができたし,韓国政府は国家経済と安保の保証を得ながら韓国社会全般の性産業の形態,奇形的な産業発展,家父長的イデオロギーと結びついた基地村の問題を米軍基地だけの問題に還元することで,国家の問題を地域化,個人化,種別化することに成功した。
.日本軍「慰安婦」と米軍基地村「洋公主」の相同性
では,特定の歴史的な局面において構成され,日本軍「慰安婦」と米軍基地村「洋公主」を歴史的な連続線上で思考するというのはどういう意味だろうか? 日本軍慰安所と米軍基地村がもつ制度としての違い,歴史的時空間の違いがあるにも関わらず,筆者はそれらを弁別的主体として特定の局面にのみそれぞれ停泊させないことによって遂に「見えるもの」があると考える。
第一に,制度として,日本軍慰安所と米軍基地村は近代以降軍事化された世界秩序の歴史的
断面を表している。
両制度はともに,自国の軍人の士気の高揚,戦闘力の維持,性病の効率的
な防止のために考案されたもので,そのために人種化された他国の女性の身体が動員されたという共通点をもつ。シンシア・エンロー(Enloe,2000)が指摘したように,軍事主義は金と武器だけでは存続できず,特定の性的関係を保障する政策に依存する(253)
。したがって,軍事主義の企画においてジェンダー関係は男性軍人に対比される対象(性的対象としての他国の女
性)を維持,再生産するように組織されなければならず,それは男性軍人の再生産のための必須条件となる。
軍社会化された世界秩序の中で,地域と国家内の安保のパラダイムは依然として女性の暴力の経験を沈黙させる機制として働く。周知の通り国家安保の論理は,朴正煕政権以降,反共・規律社会としての大韓民国を支える主要なイデオロギーのひとつであった。それは,第一に米軍と基地村周辺の韓国国民の暴力に対する女性の抵抗行為を軍事的同盟関係を損なわせる反政府的行為と判断させ,第二に米軍基地反対運動と基地村性売買反対運動を国家安保を害する反国家的行為と判断させ,80年~90年代初期まで反基地(村)運動を抑圧する機制となり,第三にニクソン・ドクトリン当時米軍撤収の危機に直面すると「洋公主」を国家発展に寄与する「愛国者」と呼ぶ欺瞞的政策が採用された背景となる。そのような軍事主義的経済は,最近の全地球化されたセックス観光産業の拡大の根幹にもな
る。バタチャリヤ(Bhattachar yya,2002)の指摘のように,グローバル・セックス労働の枠組みは冷戦時代に確立し,この時期はグローバルな性的サービスがアメリカ化した商品文化のスタイルを借用した時期でもある(121)
。韓国の近代的性売買の根幹が日帝強占期に確立され,それをもとにした基地村と妓生観光の構築,韓国内性産業の拡散,基地村への外国人性労働者の流入という歴史的な過程を考慮すると,韓国の性売買の歴史において冷戦体制の中の軍事主義的経済の影響力は決して無視してはならないだろう。とりわけ近年全地球的な生産関係の再組織化は,単位国家と民族的境界を越えて廉価で代替可能な労働力のプールを創出し,超国家的な性産業に流入する人々の数を増加させて来た。このような状況で富国(richer nations)の軍事的権力が貧しく従属的な地域に居座ると,その軍人の存在は地域経済を変化させ(Bhattachar yya,2002:121),同時に異国的な(exotic)他国の女性への男性の接近度を高めるばかりでなく,そのような幻想の主体を再生産する機能を果たす。
2010年現在,平澤の米軍基
地内に多数のフィリピン人性売買女性が存在するという事実は,国家の従属性と女性のセクシュ
アリティの関係の中に記入される異国的なファンタジーがどのように第三の国家(駐屯国)に
おいて具現されるのかを赤裸々に物語っている。何より,朝鮮半島は冷戦体制が唯一存続している地域で,冷戦時代のパラダイムが依然として有効な場所である。
「銃口」を突きつけている外部の「敵」が明らかな状況で,名もない「人間」の犠牲は常に国家安保の名のもとに正当化される。問題は,そのような犠牲の時期にも完全に消滅する名前と思い出される名前に二分されるという点である。国家安保のため壮烈に戦死した国軍兵士は記憶されるべき名前だが,国家安保のために動員される身体としての女性は消されなければならない名前となる。
第二に,慰安婦制度や基地村制度は,被殖民地,地域男性の意図的/非意図的な共謀があっ
たために可能だったシステムである。
まず,すでに少し言及したように,日本軍慰安所に朝鮮女性が大規模に強制動員されえた背景には,伝統的な儒教・家父長社会において「嫁入り前の」朝鮮の処女の性的純血が疑いの余地無く「事実」として認識されたという点である。
何よりも実際に朝鮮人男性の共謀がなければ,かくも多くの朝鮮女性が「挺身隊」という美名の下で組織的に動員されえただろうか(日帝強占期の公娼制を維持できた大規模な人身売買の体系をはじめ慰安婦動員を仲介するときに朝鮮男性が介入したという事実は,生存者の証言や多数の歴史的資料からすでに確認されている)まして「慰安婦」の動員に関わった韓国内の男性による証言の不在,「慰安婦」問題自体に関する韓国社会の長い沈黙,公論化されて以降も継続する民族の「羞恥」という強力な言説が物語るものは何だろうか?
米軍の休息と娯楽のための空間として,基地村もまた韓米両国の同盟の中で建設されたが,韓国国民の「日常の承認(daily acceptance)(67)がなければ維持されるのは困難であっただろう。米軍政下で米軍兵士クラブを運営した者は韓国人男性であり,その後確立された
基地村の性売買を経営し管理する者もまた韓国人であった。
彼らの経営手法が,チョン・ジンソン2003)が明らかにした日帝時代の企業慰安所の形態と類似しているという点もまた驚くべき事実ではない。性売買の抱主やクラブの事業主のみならず,不動産業者,地域の公務員と警察,周辺の商人もみな日常の中で米軍の存在を「当然のもの」として受け入れた。しかし,皮肉にもその「当然のもの」は社会的な「害毒」をもたらす「性病保菌者」として,
「隔離」の対象である「洋公主」という非正常な存在と同時性をもっている「若者と子どもたちに害毒をもたらすので,彼女らを防止できないのであれば,いっそのこと隅に追いやって」隔離しなければならない(韓国日報,1955年12月12日)。「特殊地帯を設置し設定する問題は内務部との意見の食い違いによって遅れていはいるが,米軍の娯楽施設の指定要求は第一に衛生的で,第二に保健上支障を来たさない施設を指定することだというのに,売春女性の性病保菌問題が大きな難題であるという(朝鮮日報,1958年2月2日)。このようにつくられた米軍基地村という「正常」でない状況は,「正常性というカモフラージュによって隠されてきた。基地村の構成的な「非正常性」は,第一に,基地村経済(米軍の存在)を通じて得る日常の中の物質的利益とともに,より大きくは国家的利益の計算を通じて隠されてきた。第二に,非正常性の民族的羞恥は,韓国内に存在する「女性」への男性中心的な規範と結びついて「正常化」される。すなわち,米軍の存在が汚い女性の身体を通じてのみ維持されうる(私が実際やっていけるのは,あの汚い
洋カルボのおかげである)という「認定不可能な」非正常性は,性的規律の対象として男/女を区別し,民族的範疇においてそれらを位階化することによって正常化されるのである。しかし,非/正常性が常に存在するという事実だけで,「正常性」は民族的不安を通じて暫定的に縫合されているに過ぎないという逆説を表している。エンローが看破したように,いかに軍基地が地域のカモフラージュを獲得するかという問題についての理解は,国際的軍事同盟が維持される方法についての理解の本質であり,それを維持させる「正常性」は既存の男性性/女性性に関する思考に依存する(67)。そのため「慰安婦」と「洋公主」は,はじめから男性間関係を形成し維持し再生産する構造の中に置かれ深く根づいており,ジェンダー関係の(再)構築と不可分の関係にある。
第三に,
両問題は,民族主義の高揚のためのアリバイとして動員される女性の「凄惨な」経験という側面において相同性をもつ。
これこそが,「慰安婦」と「洋公主」の身体がなぜ大韓民国の国民の無知と関心,沈黙と暴露の不連続線上に置かれるのかを説明してくれる。被植民者の去勢された男性(性)=無能な国家と民族を象徴する記標としての「慰安婦」
,
羨望と屈辱の空間としての基地村,卑屈な韓国男性の二重性を顕現する存在としての「洋公主」は隠される
べき民族の羞恥であると同時に国家の自主権,民族の自尊心,植民地主義と帝国主義の残忍さを告発する記標として選択されてきた。このうち「ユン・グミ事件」は,「洋公主」の現存が韓国社会で公認された初の事件として記録されるべきものである。
当時米軍によって凄惨に殺害された「洋公主」の身体は,主権を侵奪された祖国と同一視され,基地村は奪われた民族の領土として召喚された。こうして,生前ただの一度も「真の」民族の一員になれなかった「汚い」「洋カルボ」は,死後はじめて「民族の魂」として昇華した。アメリカ帝国主義の「犠牲」となった女性の身体は,その後反帝,反米民族主義運動を後押しする触媒として機能した。このように「慰安婦」と「洋公主」という存在の「公認」が,韓国の民主化と民族主義意識が高揚した1990年代という時代的同時性をもつという点は,偶然というよりは必然であると思われる。
もちろん,民族のパラダイムは,植民地主義と帝国主義による女性の性的搾取の問題を読み取らせるという長所がある。なかんずく韓国で民族主義の言説は,政府の対日,対米交渉時に相当なレバレッジ効果〔てこの原理〕を生み出してきたし,十分に脱植民地化されていない国家に対する根本的な問いへと転換されうるという点で意味がある。実質的に市民社会の強力な抵抗が政府に交渉力を付与し,対日,対米従属関係において民族の自尊心を律する道具的な機能も果たす。しかし,
それは当面の国家(政府)の利益に合致するときにのみ選択的に使用されるという限界があり,民族とジェンダーの二重の関係について説明することはできない。まして韓国の植民地の歴史と植民地性の克服の問題を内部から省察するよりは,日本による過去「清算」,あるいは駐韓米軍撤収の観点にのみ還元することで,「韓国男性の主体の位置は消え去ると同時に曖昧になる」 。この不透明さこそ隠された主体の位置を確認し,安定化するのに寄与する。民族主義は,文化的な再現体系であると同時に社会的な差異がつくられ遂行される歴史的実践である。
。
民族主義はしばしば暴力的で,常に性別化された社会的競争を通じて人々のアイデンティティを構成する(260)。なぜならば民族は,民族国家の資源への接近を制限もし,正当化もする文化的な再現をめぐる競合体系(contested system)だからである。そのため,性的に侵害された女性という象徴を通じて,国家の自主権と民族の自尊心を主張し,日帝侵略と米軍駐屯の問題を提起しようとした男性(集団)(ら)の「慰安婦」「洋公主」言説 からわれわれが読み取るべきは,民族主義と女性の矛盾した関係だけでなく,暴力の技術と政治的な権力の関係がどのように具体的に女性の身体を通じて具現され,維持されるのかについての洞察である。
結論的には,日本軍「慰安婦」と米軍基地村の「洋公主」問題は,国家と女性の二重の関係を物語っている。どんな形であれ継続すべき国家間関係の中で,優先的に考慮すべき事柄,排除されたり沈黙されるべき事柄にジェンダーがどのように介入したのかを示しているのである。国家の必要性にもとづいて女性の身体/セクシュアリティが動員されたが,非難の対象,沈黙の主な対象は女性であり,国家は時々偽善的な代弁者,事後の保護者として登場する。
かくしてわれわれは,植民地主義と帝国主義が被植民地/他国女性の身体/セクシュアリティを活用する方法とともに,民族(主義)がそれを解決できる代案的,抵抗的実体として存在しないという悲しい現実を直視することになる。日帝によって「つくられた」慰安婦は,植民地支配の終息後も継続する植民地性の残存物が重層的に機能した「結果物」であり,植民地支配終息後の韓日関係の中で依然として清算されていない過去と現在の象徴である。
同時に,基地村「洋公主」は過去を十分に清算できないまま再植民地化を経験し,それを完全に克服できなかった後期植民地国家の凄絶な現実の証拠となる象徴である。そのため証拠は,実体を「非存在化」する戦略を通じて削除されてきた。
歴史の中で慰安婦と洋公主は,民族の羞恥だからであろうと,国際関係における外交的な理由からであろうと,国防と経済開発の目的であろうと隠されるべき非存在であったが,かろうじて明らかになる,あるいは明らかにせざるをえない彼女らの「実存性」は,非存在化という戦略が必然的な失敗であることを暴露する。存在の否認,非存在の矛盾した認定が折り重なり交差する中で,「慰安婦」または「洋公主」という「女性の身体」は,第一に外部の他者(敵)を確認する機制であり,第二に内部の境界を(再)構成する機制として活用されてきた。
日本やアメリカの立場から見ると,女性の身体は「外部の他者(敵)」を攻略したり無力にする機制であり,
彼らの内部の男性性を再構築する基盤となる。
韓国の立場から見ると,それらの女性の身体は実質的に両国の関係を持続させる足掛かりとなってきたが,時に日本軍と米軍の「残忍さ」の証拠となり,日本帝国主義,アメリカ帝国主義の不道徳さに対比される韓国民族の道徳的な優位を確認したり,「強い民族=男性性」を再構築するために動員される。何よりも他国によって性的侵奪を受けた「貞操を捨てた女性」は「正しい女性」に対する反対抗的なリファレンス(reference)〔参照点〕として機能し,効果的に女性を分ける境界線となる。
「慰安婦」や「洋公主」は,民族国家の設立過程で望ましい「女性」をつくるための規制的(regulator yフレームとして機能したに過ぎず,物的存在と身体としての女性の経験は削除される。そのため,実在した物的存在としての「女性」(慰安婦であれ洋公主であれ)は,大韓民国の歴史と現在において非存在として幽霊のように彷徨するが,適切な時期に動員される「記標」はむしろ実存性を獲得するのである。このような存在/非存在の交差過程における逆説は,男性(男性により代弁される国家)同士の葛藤・対話において主体にも客体にもなれないまま,それらの関係の「場」となったり主張の材料として活用される「女性の身体」ではなく,女性(ジェンダー関係)不在の男性同士の関係,国家間の関係が成立しえないということを暴露するという点である。結論的には,ジェンダー関係を通じて縫合された大文字の歴史,国際関係,国家安保と経済成長,民族の自尊心という言説の脆さがみずから内部崩壊する地点を指し示すという点において,「慰安婦」と「洋公主」言説の構成体系は相同性をもつのである
.脱植民地の可能性のために:解決されない諸争点
第一に,戦時性暴力との関係性と差別性の問題である。すでに指摘したように,慰安婦と基地村の制度は,女性個人と性購買者の個別の取引関係ではなく,国家の男性代理人同士が女性の身体/性を交換する体系である。それらは,もちろん戦時下で行われる他国による占領国の女性に対する組織的な強姦と性的搾取の問題に関連するが,慎重に分離すべき必要性も提起される。
まず,「慰安婦」制度は,植民地状態で被植民地女性に対する性的暴力の問題であり,帝国の拡張に動員された被植民地女性の身体/セクシュアリティの問題なので,一般的な戦時女性暴力の問題とは弁別される
(チョン・ジンソン,2003)。基地村もまた,終戦ではない休戦体制の下で,同盟国の兵士の性的欲求の解消とそれにもとづいて確固とした同盟関係を築くために駐屯地女性の身体/セクシュアリティが動員されたという特徴をもつ。もちろん,戦時慰安所と米軍基地村の構成的な特徴に関してはより多くの実証的研究が必要だが,優先的に筆者は(広義の)「戦時体制」において国家の利益のために動員され交換される女性の問題として,
「慰安婦」と「洋公主」問題を読み解きたい。もちろんここには,女性同士の人種および階級の差異の問題が記述されなければならないだろう。「慰安婦」と「洋公主」の問題は,国家間,植民・被植民地の権力の位階秩序において特定の人種(民族)の女性に対して行われる性的蹂躙の問題なので,人種差別の問題と切り離すことができず,同じ時空間であってもすべての女性が同じく経験する問題ではないので,階級の問題でもある。社会的な階層分化が停滞していた日帝期階層と地域にかかわらず多くの朝鮮女性が日本軍「慰安婦」として動員され(チョン・ジンソン,
2001:56)
,
朝鮮戦争後多くの女性がただ生存のために基地村で働いたが,どのような文脈においても与えられた選択肢が少なく,総体的に性的暴力に脆く,継続的な性的搾取から抜け出し難い女性は,低所得層,低い階級の女性だからである。このような点から,われわれは階級化され,性愛化され,人種化された女性の身体(classed, sexualizedand racialized women bodies
)
が国家間の位階秩序の中でどのように位置づけられるのかという認識論の地図を描けるだろうし,それを通じて既存の秩序に亀裂を入れる抵抗の拠点をつくりだせるだろう。
第二に,性売買(prostitution)との関係設定の問題である。強制性(強制動員,誘い込み,強制労働,欺き,詐欺など),
暴力および人権侵害的な要素(賃金搾取を含む),男性同士の関係網の中で取引されたり活用される女性の身体,被害者が被害を打ち明け難いばかりでなく,みずから羞恥心と烙印を抱いて生きていく構造としての男性中心主義的なセクシュアリティの問題という点などにおいて,
日本軍「慰安婦」と基地村「洋公主」は,一般的な「性売買」と類似の側面をもつ。しかし,性売買との類似点または連続線を強調すると,歴史的な差別性の問題が無化されるという点ばかりでなく,被害者に責任を転嫁する男性中心的なセクシュアリティの構造に再び行き着くというジレンマに陥る。特に,「みずから貞操を捨てた女性」に対する強力な家父長的パラダイムと実践的構造が常に存在する限り,それらの共通点を指摘することは現実的でも抵抗的でもない。
一般的に韓国社会で通用する「慰安婦」言説は「動員され強要された性奴隷制」という家父長的なパラダイム,「踏みにじられた純粋な民族の処女性」という民族主義的パラダイムにもとづいており,その根底で強力に働いているのは強制性と任意性にもとづく性売買に関する認識枠組みである。自発性にもとづく性売買女性と区別してこそ耳に届く「慰安婦」言説という逆説は,性売買が汚く醜いもので,女性の選択にもとづいたものであるという見方を前提としている。強制性にもとづいてこそ犯罪行為が成立すると考える視点もまた,性売買=罪や悪とい
う認識論とさほど異ならない。このような二分法的な見方が存在する限り,またみずから強制性を証明できない限り,「洋公主」が自身の経験を公論化することは難しいだろう。
実際,
韓国社会にはこのような観点から日本軍「慰安婦」と米軍基地村「洋公主」を切り離して,思考してきた。それは,慰安婦運動陣営においても一定期間維持されてきた立場だった。「慰安婦は,当時の公娼制度下の日本人売春女性とは異なり,国家と公権力によって軍隊から強制的に性的慰安を与えることを強要された性奴隷であった」(従軍慰安婦問題第2次調査発表に対するわれわれの立場)このような主張は,「慰安婦」言説を構成する男性中心の論理,とりわけ過去を否認する日本の右派の立場(慰安婦=売春婦)を否定するためには適切であるかのように見えるが,性売買の論理の根底にある男性中心の論理を再度認める愚を犯すことになる。それは,性売買女性とそうでない女性,強制的に「やられた」「かわいそうな」女性とそうでない「不穏な」女性を分けるという点で強力な家父長制のコードと出会い,結局「強制的に騙されて連れて来られた女性」のみが同情の対象となり,そうでない女性の経験は沈黙されるという結果を生んだ。何より自発/強制の論理に束縛された純粋な被害者/不純な同調者という二分法の問題は,性売買に従事する女性のみに注目し,それと関わる男性を免責する機制として働くという問題点がある。男性主体が民族主義と帝国主義(植民地主義)の言説を通じて一度,性売買言説を通じて二度隠される間に,女性は二重,三重の傷を負ってきた。
「どのように性売買女性となったのか」という問いが隠しているものは結局,「慰安婦」や「洋公主」の後ろ指を差してきた韓国国民の情緒に共通に流れる家父長的イデオロギーの偽善的な顔であり,植民地主義と帝国主義が発話する場所である。日本政府が慰安婦問題を取り上げるたびに持ち出す「官憲による強制連行はなかった」という主張(チョン・ジンソン,2007:404),それを裏付ける公文書の不在に対する主張,
基地村に(韓,米)国が介入していたという公的な証拠が不在であるという主張が,実際は性売買女性を非難する狭義の自発/強制の概念と相通ずるという点を想起しなければならないだろう。
そのため,狭義の強制性を超えた概念の設定が必要であり,最終的に自発/強制という二項対立的な論理構造にもとづく性売買パラダイムを克服する必要がある。非/自発的に「体を売る女性」を体系的につくりあげる制度とイデオロギーに対して問題提起するには,条件によって制限された選択肢を選択せざるを得ない文脈への理解が先行されなければならない。何より,自発であれ強制であれ,
女性の身体/セクシュアリティが位置する場において行われる搾取と
暴力,抑圧の効果に注目すべきである。このとき,
体系的な国家介入の問題,自発的にやめることのできない状況的問題,烙印の問題とそれを通じた暫定的あるいは最終的に利益を獲得する者の問題は必ず問わなければならない事項である。それは,現在も継続している駐屯軍による暴力と搾取,清算されていない植民地性と歴史的責任の問題から大韓民国,日本,アメリカ政府のいずれもが自由でありえないということを告発するのである。
最後に残された問題は,普遍的な人権言説に訴える方法と超国家的にアジェンダ化するときに直面するジレンマである。アメリカと国連,そして人権関連の国際機構の実践を批判的に検討したグルーアル(Grewal,1998)は,国際化という美名の下で行われている実践様式のみならず,グローバル・フェミニストの活動の中においてすら,人権言説は多様性と多元論に関する非‐衝突的(non-conflictual)モデルに包摂された普遍主義概念にもとづいていると評価した(520)
。したがってグルーアルは,暴力の対象を再現する方法だけでなく,再現する者の主体構成の方法もまた探究の対象となるべきであると主張する。これは,特定の歴史的局面において誰が誰を代弁して語るのか? どのような文脈で何が聞こえ,何が黙殺されるのか? 誰が誰の代わりとなり,誰に語る権利,判断する権利を付与するのか? という質問につながり,現実的に「女性問題」を国際的に公論化する方法と密接に関わっている。現在まで日本軍「慰安婦」運動は,イシューの社会化,歴史化,国際化という点において大きく貢献してきた。しかし実質的に国内のみならず国際的に,とりわけ国連の人権機構にそれを知らせアジェンダ化するたびに直面するジレンマは,特定の時空間において恣意的に選択される女性の経験に関する問題であり,それを選択する主体の位置性である。何よりも「普遍的な女性の経験」「普遍的な人権言説」によって装飾されてこそ国際社会で訴える力をもつという点である。
NGOの立場で選択せざるを得ないもっとも効率的な運動方法は聞こえるものを聴ける場所にまで引き連れていくことであるが,問題は特定の事案を構成する歴史的な文脈が削除されたまま,それを受け入れ公論化「してあげる」主体‐権力の位置性のみがますます足場を固めていくという点である。その主体‐権力が植民地主義と帝国主義の拡大をリードした国家であるならば,ますます問題である。このような難題は,「日系米国国会議員の発議‐米下院の
決定‐日本政府に対する圧力行使」というナラティブの構造を持った2007年の米下院の日本軍「性奴隷制」謝罪決議案の採択過程で克明に現れた。その過程で結果的に浮かび上がったのは,非西欧国家の抑圧を非難し矯正しようとする(西欧の)「自由の守護神」「国際警察」としてのアメリカの国家的な位相である。
「植民地の過去の中に囚われている」韓国女性の「被害」経験は,「近代化され民主的な」西欧男性と「伝統的かつ家父長的な」東洋男性の対話‐対決の場において,アメリカ(西欧)の道徳的位相を高める道具として活用されたのである。このことを通じて逆説的に明らかとなったのは
,基地村「洋公主」が公論化されえない理由である。基地村問題は実際に「聞くことができ,代わりに語ることのできる」権力の主体がみな関係している現在的事案であり,したがって真の脱植民地国家への希望をもつことが不可能な企画であることが迂回的に明らかとなったのである。そのため,われわれが究極的に問わなければならない問題は,極端な暴力の被害者を再現する方法が,どのようにそれを再現(しようと)する主体の自己構成様式と結びつくかという点であり,したがって究極的な分析の対象は被害者の経験ではなく,いかなる方法で,なぜ,誰が被害者に注目するかである。歴史を再考するとき常に,ある事柄は説明されないままこぼれ落ち,記憶の残存物として残る。それは西欧的な思惟方法と理論的枠組みに傾倒したわれわれの(植民地化された)「片目」の思考によるものなのかも知れない。問題は,説明されるべき当の対象は何層もの層位に囲い込まれ,中心で安らかに隠れているという点である。他者は常に境界の政治学(包摂と排除)を通じて区別され,項目化され,見える対象,分析の対象,説明して証明すべき対象として残るが,それを行う権力‐主体は特権化された位置で目に見えない透明な存在として残る。今われわれの問いは,「慰安婦」「洋公主」についてのものではなく,彼女らを構成しようとする権力,彼女らについて沈黙したり語らせたりする権力,彼女らを位置づける権力,彼女らをして「事実」の証明を要求する権力についてのものでなければならないだろう。明らかにされる「対象」を通じて発話しようとする隠された欲望を追跡することこそが,性売買言説,植民地言説,民族主義言説,被害者言説,人権言説などに安楽に寄りかかり隠れている主体の位置性を暴露する作業となると思われるからである。かくしてわれわれは,大韓民国に残存する植民地性,歴史的残滓としてのみならず全地球的な資本化の過程の中で継続する植民地主義と帝国主義の問題を正面から凝視することになるだろう。
※本文の〔 〕内は訳者注