東京 DOWNTOWN STREET 1980's

東京ダウンタウンストリート1980's
1980年代初頭に撮影した東京の町並み、そして消え去った過去へと思いを馳せる。

目黒・世田谷を歩く~その二十八:林芙美子旧居と円泉寺

2015-06-07 19:02:54 | 世田谷区
さて、太子堂八幡神社を出て歩き回っていると、淡島通りに出て来て、三軒茶屋から下北沢へと通じる道と交差していたりする。その道を少し三軒茶屋方向に戻る形で進んでいると、立派な石の鳥居が目に入ってきた。御嶽山と刻まれている。


道路に面した鉄の門扉は閉ざされており、神社というわけでもないのかなと思って、帰宅後に調べてみた。御嶽山の山岳信仰を元にした神道の一派ということらしい。木曽御嶽山を信仰する御嶽山日之本教会というところであるそうだ。


横手に回り込んで行っても、立派な門が作られている。


その細い道を先へと進んでいく。恐らくは古くからある道。その痕跡が路傍の巨木である。


「林芙美子旧居 太子堂三丁目29
 此の路地奥の二軒長屋は、林芙美子の不遇な時代の寓居です。その一軒には壺井繁治、栄夫婦が住み、若い頃の平林たい子も度々訪れました。芙美子の処女作「放浪記」にはこの頃の太子堂での生活の一こまが描かれています。壺井栄の「はたちの芙美子」にも当時の生活が記されています。芙美子のすぐれた文学性が磨かれた場所として文学史上、記念されるべき場所と言っていいでしょう。
 昭和四十七年三月 世田谷区教育委員会」
林芙美子が流行作家になって、終の棲家とした中井の家にも行ったことがある。確かに、あの立派で大きな家を手に入れるまでの彼女の道のりは苦難の道程であったのだなと思う。


さて、さらに進んで行くと、円泉寺に到達した。既に夕暮れ時。訪問時は冬だったので、日暮れが早かった。


「円泉寺
 聖王山法明院とよび、真言宗である。文禄五年(一五七九)に建てられ、開山は賢恵僧都である。本尊は不動明王立像及び二童子像である。また境内の太子堂には聖徳太子像がまつられ、太子堂の地名はこれにもとづいている。世田谷教育界の恩人宮野芟平先生の碑がある。先生は、明治三年郷学所がつくられてから、太子堂幼童学所、荏原学校と、なまえは変わっても、引きつづき校長として郷土の教育につくした。この荏原学校は区内最初の小学校である。
 昭和四十九年三月 世田谷区教育委員会」
寛政3年の造立の子育地蔵尊。昭和43年5月21日に三軒茶屋から此の場所へと遷座された。小さなお堂の左側にあるのが、上記案内にあった宮野先生の碑である。


明治32年建立の本堂。大正15年と昭和39年の二度に亘り、大改修を受けている。おそらく最初は萱葺きであったのではないだろうか。


整備が行き届いているが、造りは凝ったものを感じさせられる。


夕暮れの中、細工の目がギラリと睨む。


昭和11年に改修された庫裏。


境内は綺麗に整備され、舗装されている。本堂の前から振り返ると、広々としている感じが分かるだろうか。


夕暮れにすっかり葉を落としたイチョウの巨木が聳えている。


太子堂村の要であった寺でもあり、今もそんな雰囲気を感じとることが出来る。


それでも、こんな風に見ると本堂の背後にもビルが聳えている。高級マンションが建ち並ぶ町へと変貌してきている。


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