さて、蛇崩の道を進んでいくと、三宿から五本木へ抜ける道と交差し、先に進むと下馬に入る。気が付くと、世田谷区に入っている。蛇崩川の暗渠を溯るようにして先に行くと、駒繋神社に出た。昭和26年に掛けられたという橋が迎えてくれる。蛇崩川は暗渠となり、水面は見えない。
「駒繋神社
祭神 大国主命 昔から「子の神」といわれ、出雲大社の分霊を守護神として祀る。天喜四年(一〇五六)源頼義、義家父子が奥州征伐の際、その武運を祈ったと伝えられている。その後、文治五年(一一八九)源頼朝が奥州の藤原氏征伐のおり、祖先義家が参拝したことをしのび、愛馬芦毛を境内の松の木につないで参拝したとのいい伝えから、明治以後駒繋神社と称するようになった。
昭和五十四年三月 世田谷区教育委員会」
古くからの神社で、蛇崩川のほとりにある小高い山の上という地形も要衝であったことを伺わせるものがある。周辺は住宅地になっているのだが、境内に入ると古い時代の雰囲気を感じとることができる。
道標なども残されている。
境内には稲荷社が二つ祀られている。南北それぞれのエリアのためといわれているそうだが、ユニーク。
下馬地区の耕地整理記念碑。昭和17年に行われた耕地整理の記念碑だが、建立されたのは昭和41年。この辺りの宅地化が進行した時期に、それ以前の記憶を残そうということで作られたのだろうか。
社殿はコンクリート造の昭和38年築のもの。ただし、内部には明治31年に造られた社殿が中に収められているという。
境内には、大きく育った木々が茂る。
明治25年築の神楽殿。明治中期の木造建築は貴重な存在。
こちらは境内社の招魂社。
裏参道は高台に通じている。夕暮れが近づく町並みに繋がる。
蛇崩川の流れの上に社殿がある。
「駒繋神社
祭神 大国主命 昔から「子の神」といわれ、出雲大社の分霊を守護神として祀る。天喜四年(一〇五六)源頼義、義家父子が奥州征伐の際、その武運を祈ったと伝えられている。その後、文治五年(一一八九)源頼朝が奥州の藤原氏征伐のおり、祖先義家が参拝したことをしのび、愛馬芦毛を境内の松の木につないで参拝したとのいい伝えから、明治以後駒繋神社と称するようになった。
昭和五十四年三月 世田谷区教育委員会」
古くからの神社で、蛇崩川のほとりにある小高い山の上という地形も要衝であったことを伺わせるものがある。周辺は住宅地になっているのだが、境内に入ると古い時代の雰囲気を感じとることができる。
道標なども残されている。
境内には稲荷社が二つ祀られている。南北それぞれのエリアのためといわれているそうだが、ユニーク。
下馬地区の耕地整理記念碑。昭和17年に行われた耕地整理の記念碑だが、建立されたのは昭和41年。この辺りの宅地化が進行した時期に、それ以前の記憶を残そうということで作られたのだろうか。
社殿はコンクリート造の昭和38年築のもの。ただし、内部には明治31年に造られた社殿が中に収められているという。
境内には、大きく育った木々が茂る。
明治25年築の神楽殿。明治中期の木造建築は貴重な存在。
こちらは境内社の招魂社。
裏参道は高台に通じている。夕暮れが近づく町並みに繋がる。
蛇崩川の流れの上に社殿がある。
駒繋小学校を卒業し、写真の駒繋神社は良く遊んだ所です、当時は蛇崩川は綺麗な流れで目黒川に繋がっていたと思います。
世田谷、目黒は史跡も多く大変懐かしく拝見しました
ぜひ松陰神社や豪徳寺等歩かれてはと思います。
御覧頂いて、どうもありがとうございます。
蛇崩川が清流であったのも、それ程遠い昔のことではないとはいいつつ、失われてしまえば、遠ざかっていくばかりなのは寂しい事だと思います。
目黒から世田谷に掛けては、城北地区とはまた違った趣があって面白く感じています。
世田谷の探索はまだ少し先になりそうですが、是非歩いて見たいと思っています。