東京 DOWNTOWN STREET 1980's

東京ダウンタウンストリート1980's
1980年代初頭に撮影した東京の町並み、そして消え去った過去へと思いを馳せる。

要町から新井薬師へ(4):豊島区長崎その二

2015-07-20 18:46:30 | 豊島区
さて、山手通りを進んでいくと、西武池袋線をオーバーパスする陸橋に行きつく。その傍らにお寺の屋根が見えるので、側道から下りていくと西武池袋線椎名町駅の前に出てくる。そこには金剛院というお寺がある。その門前には、長崎不動が祀られている。


古びた石仏も置かれている。
「地蔵尊の由来
 この舟型浮彫地蔵尊は、寛政八年(一七九六)八月二四日に道標をかねて造立された道標地蔵尊です。地蔵尊の石中には「念仏供養」、その左右には「北・下板橋道 南・ほりの内道」という文字が刻まれています。ほりの内というのは、杉並区堀ノ内のことです。江戸時代には、宿場町として栄えた中山道の板橋区仲宿方面、また厄除け祖師の堀之内・妙法寺へ、お詣りする人々の道しるべになっていて、南北に通じる道があったことを教えてくれています。また、この地蔵尊の御仏体は、江戸城築城の時に使われた石の一部であると言い伝えられています。」


「真言宗豊山派金剛院什寶
「長崎不動尊」案内板
 このお堂は「長崎不動尊」と呼ばれ、ご本尊に不動明王、脇仏には明王を護る従者である制吒迦、矜羯羅の二体をお祀りしております。不動明王が剣や索、火焔を備えて忿怒の強い形相を示されておられるのは、煩悩を滅して私たちを救い、降魔を払うためです。
 古くからこの不動信仰が盛んで、ご利益にまつわる霊験も多く伝え残されており、私たちの願いをかなえ、お守りくださる仏さまです。お参りの方は、不動明王の真言または法号を唱えてお参りください。
「長崎不動尊」は、昭和二十一年十月に地域の守護仏として、その加護を頂けるよう当地へお祀りされました。また童子に長崎不動講を結成し不動尊の運営と管理にあたってきました。
 このたび堂宇の老朽化に伴い再建建立を発願して、併せて慈悲深い観音菩薩像を造立しました。清浄水にて観音様の御仏体を洗い流しながら、観音菩薩の真言、あるいは法号を唱えてお参りください。
 平成八年十二月吉祥日
 宗教法人 金剛院 長崎不動講」


「金剛院
 金剛院は、聖弁和尚によって大永2(1522)年に開創された真言宗豊山派の寺院で、正式には蓮華山金剛院佛性寺という。本尊は、観世音菩薩と勢至菩薩を脇侍として配した阿弥陀三尊である。開創当時は現境内地から北西方向に800mほど離れた、長崎三丁目の観音堂(現在は当寺の境外仏堂)の位置にあったといわれており、宝永6(1709)年ごろ当地に移転した。
 宝暦8(1758)年には、「百字真言梵鐘」と呼ばれる釣鐘が鋳造されている。その後の安政年間(1854~60)には、尼僧の智観が寺子屋を開設し、長崎地区の庶民教育の拠点となっていたほか、明治元(1868)年の神仏分離令までは長崎神社を管理する別当寺でもあった。さらに、明治34(1901)年には、寺内に長崎村役場が置かれていた。
 薬医門様式の山門は、安永9(1780)年に建立されたものである。その装飾は彫りが深く、意匠的にも優れているため、平成6(1994)年6月に豊島区指定有形文化財になった。その後、平成8年には山門の保存修復および左右両袖塀の復元工事が実施されている。また、この山門が朱塗りであったことから、「赤門寺」と呼ばれていたこともあったという。
 境内にある2基の板碑のうち、1基には阿弥陀如来の画像が、もう1基には影響2(1440)年の年郷が刻まれている。また、宝永4(1707)年に長崎村の村人が造立した庚申塔も1基残されており、いずれも地域の歴史と文化を伝える貴重なものとして、豊島区登録有形文化財になっている。
 平成8(1996)年6月 東京都豊島区教育委員会」


山門脇にはキレイなカフェまで造られている。赤門テラスなゆたという。


庚申塔、青面金剛像に三猿。


大師堂。弘法大師を祀ってある。


奥には本堂。


長い歴史のある寺だけあって、古い石仏が境内には数多くある。


山手通りの直ぐ横なのだが、境内は静かで別世界の様だ。


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