東京 DOWNTOWN STREET 1980's

東京ダウンタウンストリート1980's
1980年代初頭に撮影した東京の町並み、そして消え去った過去へと思いを馳せる。

要町から新井薬師へ(2):要町周辺その二

2015-07-18 15:49:29 | 豊島区
さて、洞雲寺から、表通りに出て来たところ。池袋駅西口から要町へと通じる道沿いに、大きなお寺がある。祥雲寺という。面白いのは、最初が鳩寺の功雲院、次が黄檗宗の洞雲寺で、表の通り沿いにあるのが祥雲寺と、不思議と雲のつく院号や寺号が集まっている。
「瑞鳳山祥雲寺
 祥雲寺は後北条氏の重臣江戸城主遠山隼人正影久によって、永禄七年(一五六四)に江戸城和田倉門内に駒込吉祥寺の末寺として創建されたのが始まりで、開山は吉祥寺安充和尚である。当初は影久の室(北条上総介綱成の娘)の菩提所として法号にちなみ浄光院と称し、永禄七年に戦死した影久の法号から瑞鳳山浄光院と号した。
 天正十八年(一五九〇)後北条氏滅亡にともない遠山氏も退転したため、しばらく吉祥寺の隠居所となり、神田台(駿河台)、小日向金杉、小石川戸崎台と移転した。
 寛永六年(一六二九)に信州松本藩主戸田氏が檀越となり、数度の火災の復興に際しても多大な尽力をした。宝永六年(一七〇九)、五代将軍徳川綱吉の死により御台所が落飾して浄光院殿と称したのち憚り、戸田氏最初の檀越康長の法号により瑞鳳山祥雲寺と改号した。
 当地への移転は明治三十九年であり、重宝類は昭和九年の火災に焼失した。現在の本尊の薬師如来は体内銘によれば、天正十七年(一五八九)の造立になるという。墓地には戸田家代々の墓、酒豪として知られた三浦樽明、首斬り浅右衛門の七代目山田浅右衛門などの墓がある。
 昭和五十六年三月 東京都豊島区教育委員会」


山門横には結界石も置かれている。


戦災は受けていないようだが、昭和九年に火災で焼けているというのが惜しい。本堂は新しいもの。


境内には、大きな木も茂っている。


その辺りから、谷田川の暗渠の道を更に南へ向かう。立教大学の裏手を山手通りから劇場通りまで新しい道が通っている。この道は最近出来た道。少し前までは、宅地化していたものの、山手通りから池袋駅方面に行くには、立教大学前の道か、要町から池袋駅西口への道を行くしかなかった。細い裏通りが抜け道になったりしていたのだが、新しい道が通ったわけである。その通りに羽黒神社があった。


小さいながらも、綺麗に整備されている。


この道路整備のタイミングで神社も新しくなったようだ。
「江戸前期延宝年間(一六七六年)八幡神社御嶽神社羽黒神社のお社を当寺の村の有志の方々のお力で建立された。平成十八年(二〇〇六年)で三百三拾年を迎えるに辺り記念碑を奉納。」


羽黒神社に御嶽神社と、山岳信仰の神社が重なっているのが面白い。御嶽神社は次回に掲載予定。

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