東京 DOWNTOWN STREET 1980's

東京ダウンタウンストリート1980's
1980年代初頭に撮影した東京の町並み、そして消え去った過去へと思いを馳せる。

旧川越街道~板橋、練馬、和光~その二十三(白子〈五〉)

2014-09-10 19:03:00 | 東京以外の町
旧川越街道、大阪を登り切ると笹目通りに出る。その手前で左手の住宅街に足を踏み入れていくと、若干畑も残っていて、農業を続けられている様子が分かる。今は宅地化の進行に飲み込まれているが、かつては白子川の谷から上がった台地上の畑の広がる一帯であったのだろうと思う。


古い時代からの農家の面影が残されている。瓦屋根が美しい。


住宅街の中を歩いていても、角に大事に石像が祀られていた。真新しい花も上げられていて、大切にされている様子が分かる。


笹目通りと国道254号線の交差する和光陸橋交差点の角に、諏訪神社があった。


手水盤も年代ものな雰囲気。


「天保」と読める。江戸時代のもの。


小振りだが、堂々とした佇まいの本殿。屋根の造作が力強い。
「諏訪神社由来記
 諏訪神社は白子村西御林の中に有り、社は四尺の六尺村民持とされていた。平安の末期、宿の民衆が社を造り建御名方之神を祀った。江戸中期になり、白子宿に悪い病が蔓延した時、苦境に陥った村の人たちが、神社に疫病快癒の祈願をしたところ忽ちの内に全快したといわれている。また、非常に子供好きな神様で度々蛇に姿を変えて近隣の子供たちと遊んだと言い伝えられているところから、悪病除と子育ての神として近在の人々の進行あつく、例年七月二十六、二十七日の祭礼には多くの参拝者で賑わう。尚、神社に成すの紋章があることから近在の農家では、その年に初めてとれた茄子を供え、悪病にかからぬよう祈願した後に供えた茄子の半分を持ち帰って家中でこれを食すという風習が現在も残っている。
 昔は四町八反の諏訪山があったが村人がその森林を開墾して畑とした。その際、土中から銅製の鏡が発見され、これを機に、明治七年社を建てかえてその鏡を御神体として祀り今日に至っている。」(昭和五十五年七月 幣殿増改築竣工記念碑より)
碑文というと、肩に力の入りすぎた印象を受けるものも少なくないのだが、この記念碑の碑文は平易で分かりやすく、スッキリした文章だと感じだ。碑文というと、肩に力の入りすぎた印象を受けるものも少なくないのだが、この記念碑の碑文は平易で分かりやすく、スッキリした文章だと感じだ。


諏訪神社の扁額。


直ぐ外を国道254号線と笹目通りという幹線道路が通っているのだが、境内は落ち着いた雰囲気になっている。かつては国道の新道が開かれるまでは、白子川の谷を見下ろす眺望の良い場所だったのだろうと思う。


外に出てみると、こんな感じ。国道254号線の東京方面を見たところ。

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