東京 DOWNTOWN STREET 1980's

東京ダウンタウンストリート1980's
1980年代初頭に撮影した東京の町並み、そして消え去った過去へと思いを馳せる。

東京・遠く近きを読む(65)佐多稲子の下町

2014-08-16 19:09:21 | 東京・遠く近き
「東京・遠く近き」というタイトルのエッセイは、登山関係の評論で知られる近藤信行氏の著作で、丸善から発行されている「学鐙」に1990年から1998年頃に掛けて全105回に渡り連載されていた作品である。氏は1931年深川清澄町の生まれで、早稲田大学仏文から大学院修士課程を修了され、中央公論社で活躍された。その後、文芸雑誌「海」を創刊し、現在は山梨県立文学館館長を務められている。残念ながら書籍化されていないので、その内容を紹介しながら思うところなど書いていこうという趣向である。今回は、佐多稲子についてである。私も、日本の女流作家の中で一番好きな作家なので、楽しく読んだ。

「昭和三十五年二月上旬のことだったとおもう。佐多稲子さんのお供をして、新宿・上野から墨田・江東両区のあちこちをまわったことがある。同行はカメラマンの杉村恒氏、撮影の主題は佐多さんの『私の東京地図』であった。
 そのころ、私は室生犀星先生を担当していて、『わが愛する詩人の伝記』につづく連載に女流作家評伝を計画していた。前年の秋から準備をはじめたが、毎号、グラピアをつけるということで、その人にふさわしい風景を考えながら仕事をすすめてきたのだった。犀星先生はそのためにわざわざ先方へ出むいたこともある。「わたしは三流訪問記者だ」と冗談をとばしながらステッキを突いていた姿を、いまありありとおもいおこす。」

 日本文学の巨人といわれた様な方々がご存命中で、こういった企画が行われていたということを思うと、ある意味今日よりも遙かに豊穣な時代であったことを思わせられる。そして、近藤氏が佐多さんと共に『私の東京地図』をモチーフにして、縁の場所を訪ねて回るなんて、何と贅沢なという感慨に囚われてしまう。なによりも、その時代に一流の編集者であることの意義というものを感じさせられる。今日、これ程の文学的に豊かな企画を考えられるものだろうか。生み出される文学というもの、文学者という存在、編集者という存在、それぞれの位置付けがこの時代から大きく変わってしまっていることをも考えさせられる。

「その連載は『黄金の針』として新年号からはじまっている。第一回は円地文子、二回目は吉屋信子だった。三回目には『父の帽子』をはじめ随想集を出しはじめたばかりの森茉莉、四回目に佐多稲子が登場したのだった。黄金の針の意味について、犀星はつぎのように書いている。
「女流作家は着物を縫ひ上げる手技の細かさを持ってゐるから、小説を書くのにも一針も余さずに書く。男の作家はぷつりぶつりと畳屋さんの三寸針の心得で突つ徹して行く。女流作家の原稿紙は裏側から見ると縫目の列が揃ひ、男はがたがたである。
 小説といふものは余りきちんと仕過ぎると両白く友い。小説の秘法は小説を書くことを知らないふうで、小説を持て余してやつと書いてゐる状態が好ましい。」
「女流作家は信念が強いのか、作風をがらりと変へることが滅多にない。一つ覚えの針の手一本で何時もおすすみになる。その点で私なぞにあるまよひは彼女らにはない。、どういふ作品でも女の人にかかると、一応縄まるし失敗することはまれである。克明で念がはいつてゐる上に、針の手はこまかく紙の上をかがつてゆくのである。そこに行くと畳屋さんは突き徹すことは知つてゐても、へりの縫ひ目はイナヅマのやうに乱射してゐる。」
 こんなところからは女流評伝を書こうとした犀星の意図がわかる。『随筆女ひと』をひきつぐような女人讃歌定った。
 といってかなり幸辣なところもあって、俎上にのせられた女流は一喜一憂するありさまであった。のち、単行本になったときの扉には「おうごんの針をもて文をつくる人々の伝記」とあるが、犀星の針は畳屋のそれどころではなく、対象の要所要所を簡潔に縫いあげて、讃美と批評とともに自分を語っていたのである。」

 この引用を読んでいるだけで、犀星という人の繊細さ、細やかな神経、感受性といったものを感じとることが出来る。現役の女流を訪ねて、大家たる犀星御大が評伝を書くというのは、確かになかなか凄い試みであったのだとも思う。基本線としては讃美するものになるにせよ、それだけでは読者にとって面白く、興味深いものにはなるまい。まして、評伝として書かれる上で、誉めるばかりでは書き手としても物足りないものではないだろうか。当を得た上で、傷付けるものではなく、納得のいく厳しさはもちろん必要な要素であったことだとも思う。更に考えて見れば、やはりその時点であっても、その企画を成り立たせることのできる書き手というのは、そう多くはなかったことにも思い当たる。そう考えていくと、この企画そのものが犀星御大に正にはまる、余人には実現し得ない様な企画であったということが分かる。つまり、近藤氏の編集者としての力が、そんな風に感じ取れる訳である。恐れ入るとしか、言い様がない。この「黄金の針 女流評伝」は未読だが、これは読まなければという気になっている。

「佐多稲子さんが長崎から上京して、本所向島小梅町に往んだのは、大正四年十一歳のときである。牛島小学校(いまの小梅小学校)に転校したが、すぐやめて浅草・和泉橋のそばのキャラメルエ場で働いている。市電に乗って吾妻橋をわたってゆく。電車賃のないときは歩いてゆくのだった。翌年には上野池之端清凌亭の小間使いとなった。また向島のメリヤスエ場に住みこみ、大正九年にはふたたび清凌亭に出て座敷女中として働く。翌十年には新聞広告の求人に応募し、日本橋・丸善の洋品部につとめている。関東大震災で向島をはなれるが、兵庫県相生の播磨造船所勤務の父親のもとですごした二年間のほかは、ほとんど向島暮しである。それだけに下町への想いはふかい。」

佐多稲子旧居跡の案内が出ているのは、すみだ郷土文化資料館の前。


この辺りは震災後に様相が大分変わった様で、今は彼女の旧居跡の辺りは学校や公園になっている。


 キャラメル工場のあったのは、神田の和泉橋、近藤氏にしては珍しい。この和泉橋界隈というのは、明治時代以降、比較的安価な菓子の製造元が集まる町でもあった。そして、安価な菓子は衛生面でも問題が多いといわれていた時代でもあった。この時代に、株式会社化するほどに成長していった森永製菓では、工場で働く女性に白衣を着せ、広告にも衛生第一と大書してみせたりしていた。キャラメル工場と言っても、森永が一級品の時代に、無名の商品を作っていた工場である。そこに、僅か十一歳で学校にも通えずに働きに出されていたわけで、佐多さんの人生の序盤は正に苦労に苦労を重ねる様な時代を過ごされている。悲惨とすら言いたくなる貧困と苦労を背負いながら、佐多さんという人が素晴らしいと思わせられるのは、こういった苦労が彼女の人柄に影を落としていないという点に尽きる。大きな苦労を背負った人は、どうしても後の人生でもその影をキャラクターの中に感じさせることになりがちだ。そのことは責められる性質のことではないのだと思うが、佐多さんの様に大きな苦労の話をカラリとした明るい口調で語ることの出来る人というのは、滅多にいないと思う。
 上野池之端清凌亭の時代の事なども、不忍通りを北へ延びていく市電の工事が行われていた様子など、著書で読んでいると興味深い。

 そして、キャラメル工場のあった神田・和泉橋の辺り。


「佐多さんの作品の核をなすものは、自分を正確にみつめる姿である。その生の証しである。それは一貫して変わらなかった。『くれない』にしても『私の東京地図』にしても、『時に侍つ』『夏の栞-中野重治をおくる』にしても、読者のこころをとらえるのは、真撃な、美しい姿勢である。」

 自らの生き方に対しても、彼女ほど厳しい人はいなかったと評される人でもある。それは確かにその通りである反面、彼女の著書を読み、残されたインタビューの録音など聞いていて思うのは、そういった厳しさから来る硬いイメージよりも、むしろしなやかで生き生きとした、大きな懐を持つ女性というイメージを持っている。彼女が話している音源など聞くと、長崎生まれとはいえ、幼い頃から東京の町場で育っておられるだけに、今の時代には希だと思う様なきれいな東京ことばで話をされる。色々な話をしていても、決して重苦しいわけではなく、辛かった昔の話をされている時でも、明るく軽やかな調子で話をされていく。そこに、彼女の大きな魅力を感じる。

「大震災をはさむ三年間の丸善時代についても、多くの文章がある。本誌昭和三十七年八月号にも「丸善のおもいで」があった。日本橋の本店で女店員を傭うのはそのときがはじめてである。当時、一階が和書と洋品部、二階が洋書部だった入口には下足番がいて洋服の客の靴にはカバーをかける。化粧品売場に立っている佐多さんは、二階に上ってゆく客を畏敬の念で見上げたというのである。売場では中條百合子(のちの宮本百合子)、市川左団次、杵屋六左衛門に応待したと語る。そのときのことを話しても、百合子さんには女店員の私への記憶があるはずもない、と書いている。
「とにかく丸善という店は、当時、よそにない雰囲気を持っていたようにおもう。私はガラス棚を磨いて、舶来の香水をかざり、よく読めぬローマ字をにらめて会社の名から香水の名を覚え、とにかくその場の売子を三年勤めた。ときには勤めの時間に上っぱりを脱いで三越や白木屋へゆき、同じ香水の値を調べてきたりした。そういう気構えで日本橋を渡るとき、自分も日本橋という場所の人間という気持ちがした。」
 この女子店員第一期生は、模範社員という肩書をもらっている。重い荷物でもなんでも持って一所懸命に働いている。後年の社内誌「まるえむ」九号(昭和六十年七月)には、「學鐙」編集室の西村みゆき、小池圭子さんのインタビューがあって、当時の働く婦人の立場を語っている。「女学校を卒業したら家で花嫁修業が当り前という時代で、職業婦人というものが今ほど正当に見られていないでしょう。女の子が働くのは貧乏だからという世間の見方でした。女が仕事するというと、芸者さんと同じような感じで男の人は見るんですね。何だかんだ悪口言う人もいたりして、私なんか腹立ててたものなんですよ」と言うが、そのうえ、恋愛ほ御法度、貧乏な女はふしだらだと後ろ指をさされるのがイヤで身を固くしていたというのだ。模範社員といわれてもことさら給料が上るわけではない。その佐多さんに上司の紹介で某資産家の息子との縁談が持ち上る。しかし不幸な結婚であった。大正十四年にほ、夫とともに大量の睡眠剤をのんで自殺を企てている。
それは新聞の三面記事にもなった。芥川龍之介が自殺寸前、「驢馬」同人格の彼女に経験を問いただしたというのは、意志的な死をはっきりと告げたことにほかならない。」

 大正の関東大震災を挟む時期に、日本橋の丸善に彼女は勤めていた。彼女自身はまともに学校にも通っていないのに、という調子で書いていたが、学歴はなくとも、彼女が非凡な女性であったことは間違いないだろう。大震災で日本橋のビルが倒壊する様子など、彼女は書き残している。それ以上に、大正時代の東京に、西洋の文化の香りを持ち込んでいた丸善という存在の特別な雰囲気というものが感じられる。ある意味では、学校という場に恵まれなかった彼女が、商品というリアルな形を取って西洋文明の最先端が流入する場であった丸善で働くことになるというのも、面白い巡り合わせであったとも思う。
 彼女の境遇であれば、より安易にお金を手にすることが出来る方向へ堕ちていくことの方が容易かったであろうに、彼女はそこで踏み留まり、自らの道を切り拓いていく。それでも、その丸善の上司の紹介での結婚は不幸なものに終わる訳である。この時の彼女は、決して強い意志で自らの行く手を切り拓く逞しさなど持ち合わせていない、愛情に溺れるというわけでもない結婚の挙げ句に、その相手と睡眠剤を飲んでの自殺という、相手に引き摺られていく様な弱さを表しているように思える。それでも、こんな経験をしていようと、彼女のキャラクターに翳りを落とすことはない。むしろ、これを最後に彼女は自らの人生を手に入れていくことになっていく訳である。

 芥川が自殺する直前に、彼女を自宅に呼んで話を聞いたという。自殺する時にどんな薬を飲んだのかとか、生き返ってからまた死にたいと思ったかなどと聞いたという。その時、佐多さんは後に結婚することになる窪川鶴次郎との恋愛の真っ最中で、彼女の人生の中で初めての幸福を感じていた時期であったというから、ある意味これも皮肉な巡り合わせであった様だ。上野池之端清凌亭の時代の贔屓であった芥川との再会を楽しみにしていた佐多さんには、暗い顔で彼女の人生の苦しみの時期の話を聞きたがる芥川は予想外であったようだ。そして、「驢馬」の同人達も芥川がどこまで精神的に追い詰められていたのか、それを感じとるような距離の付き合いではなかったようだ。

「たしかに『私の東京地図』の主人公の歩く道は、暗い陰窮におおわれた道である。自分とはいったい何だったのかと自問自答しながら、遇去の実像をさぐろうとする。左翼運動にかかわりながら、またブロレタリア作家として反体制の自覚をもちながらも、戦時中の自分のとった軍隊慰問のような行動に深く反省をしめしている。「古い地図の数々の折れ曲った道を心にきざみながら、私はまた、ひとつの方向に進む足音に自分の足音を混じえて歩いて行こう」との最後の一節を読みおえたとき、私はこころから感動をおぽえ、佐多さんはほんとうに美しい人だとおもった。私にとっては母親にあたる年齢だ。佐多さんの歩いてきた道は、実に人間的魅力にみちている。それは戦後の民主化運動、平和運動につながる道であった。」

 近藤氏が私から見れば親の世代に当たるわけで、佐多さんは祖父母の世代にあたる。それでも、彼女の書いたものを読んでいると、私も心を動かされる。女性として魅力的な存在であり、「驢馬」同人を初めとして、室生犀星、中野重治など数々の人々から、正に文壇のアイドルのような存在であったともいう。若き日の彼女の写真を見れば、確かにそれも頷ける美人であったことも確かなのだが、それ以上に彼女が人間的な魅力に溢れる人であり、自らに正直に向き合っていることが伝わってくる人であるから、そう思えるのだ。
 佐多さんの特徴的な所として、彼女が生涯を通じて、左派の立場からの政治的な活動を棄てなかったと言うこともある。決して、共産党べったりとか言うものではなく、むしろ対立して除名される結果になったりもしている。それでも、彼女は自らの信念にも正直に向き合い続けていた。プロレタリア文学が自らの出発点にあり、彼女のベースにあったことを、自ら大事にしていたことを感じる。そういうと、堅苦しい雰囲気を想像したくなるわけだが、彼女はそれさえも軽やかに、しなやかに成し遂げているという点で希有な人だと思うのだ。

「室生犀星さんは大正末期から「駿馬」の同人をはじめ佐多さんを知っていたわけだが、『黄金の針』連載のとき、あらためて佐多さんに会いたいと言われた。下町巡遊の数日後だったと記憶するが、九段のある料理屋に席をつくったことがある。そのときのことはあえて書かれなかったが、『黄金の針』には「文学の事では知つたか振りも気鋭の誇示も、ご自分の小説の将来に就いても余り話をしない人である。黙つて肯づいて見せるだけで自分の考へを相手に突きつける人ではない、それでゐて政治方面、社会方両の事になると文学で温和しい彼女は、切れ味を見せ藩蓄を示して平常見せてゐない半身も現はして来る」と書いた。」

 犀星氏から見ても、佐多さんは単なる女流作家という存在ではなかった。大正末の田端文士村の時代、若い「驢馬」の同人達の良き兄貴分であった犀星氏からみても、佐多さんは目映い女性だったようだ。当時、「驢馬」同人が窪川の部屋に集まって侃々諤々の議論を繰り広げていると、佐多さんは部屋に入り損ねて、外で一段落するまで待っていたらしい。そこに犀星氏が通り掛かると、大声で窪川を呼び出して彼女を待ちくたびれさせないように気遣い、そしてそのまま歩み去っていったという話が、私はとても好きだ。そんな空気の中で文学者としての道を歩みはじめる佐多さんは、実に美しい人として人生を送っていくことになる。その有様自体が、とても美しく感じられる様に思えるので、私は佐多稲子という人がとても好きなのだ。

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