東京 DOWNTOWN STREET 1980's

東京ダウンタウンストリート1980's
1980年代初頭に撮影した東京の町並み、そして消え去った過去へと思いを馳せる。

東京・遠く近きを読む(7)渡りきらぬ橋

2012-01-28 23:03:19 | 東京・遠く近き
「東京・遠く近き」というタイトルのエッセイは、登山関係の評論で知られる近藤信行氏の著作で、丸善から発行されている「学鐙」に1990年から1998年頃に掛けて全105回に渡り連載されていた作品である。氏は1931年深川清澄町の生まれで、早稲田大学仏文から大学院修士課程を修了され、中央公論社で活躍された。その後、文芸雑誌「海」を創刊し、現在は山梨県立文学館館長を務められている。残念ながら書籍化されていないので、その内容を紹介しながら思うところなど書いていこうという趣向である。

「長谷川春子は蕪木清方の門に学んだ画家だが、その語りくちは、軽やかで歯切れがいい。姉時雨が少女のままの初々しさで、おっとりと下町の生活情景をうつしたとすると、妹のほうはずばりと人間に切りこんでくる。」
長谷川時雨の妹、春子についてである。春子は日本画を蕪木に、洋画を梅原龍三郎に師事している。画家としてやっていくのなら、どちらも当代一流と言われた画家の所へという辺りに、長谷川家というよりは、姉時雨の心遣いが感じられる。というのも、この妹春子は姉時雨とは16歳の年齢差がある。彼女が画家を志したときには、姉は既に名の知れた作家であった。

「「姉さんは明治十二年、東京、日本橋に生まれた。学校は当時源泉小学校といわれた寺子屋式の学校に通った以外、あらゆる素養は独学と個人教授的なものだったが、やや長ずるにおよんで、坪内逍遙、佐佐木信綱両先生に師事した。二十歳ごろ、ランプの下、火鉢のすみでそっと書いた処女作『うずみ火』が投書で入選したのを皮切りに、『海潮音』「花王丸』『さくら吹雪』『江島生島』などの作品を次々に書き、歌右衛門、梅幸、羽左衞門、中車(いずれも先代)、新派は伊井、河合、喜多村、また若手で六代目菊五郎、吉右衛門らの手でいつも上演されるに至って、明治の終わりごろには、押しも押されぬ一流劇作家となった。しかし、このころには、姉さんの美ぼうも、その天性の美しさを発揮して、その才とともに、彼女の黄金時代がはじまったが、加うるにそこに現れたのが、若き作家三上於菟吉で、彼女をあっさりモノにして一同をアッといわせた。とまあこんなわけなんだが、それからも彼女は昭和十六年六十三歳の生涯を終わるまで『近代美人伝』「春待記』『渡りきらぬ橋』と多くの独特の味の作品を残したね。」
 姉時雨についてのさりげない略歴だが、簡にして要を得ている。芝居の女作者として明治文壇に登場した彼女のまわりには、劇壇人や文学青年があつまってくる。師の逍遙や松居松葉から女優にならないかとすすめられたこともあった。また、時雨のブロマイドも売り出された。」
今も花見の頃になると普通に使う「さくら吹雪」という言葉は、この時に時雨が造語したものだったという。花吹雪という言葉はあったのだが、さくらという言葉にしたことで、イメージがより明確になった様に思う。

 時雨は親の意向で意に染まない結婚をし、その相手の都合で釜石に一時暮らしていた。この時には、相手が都会の灯りが恋しくて帰ってこない中で自らの創作を始めて、『うずみ火』を雑誌に投書して入選したことから、作家として生きる道が開けていくことになる。心労で倒れるような生活を送りながら、ようやく離婚することができて、時雨は自立した女性の行き方ということを意識するようになっていった。それにしても、三十代を迎えた時雨は、正に黄金時代を迎えたといえる活躍である。当時の歌舞伎や演劇は娯楽の王様であり、世間の注目を浴びるエンターテイメントであった。その作者が女性で、しかも美貌の主であれば放っておかれるわけがないということだろう。ブロマイドまで売り出されたというのがすごい。もっとも、時雨は日本的な美貌の持ち主であったから、女優になったらどうであったのかとも思う。

 最初に時雨の虜になり、彼女も心を寄せていったのは、中谷徳太郎という文学青年だった。時雨の最初の熱心なファンでもあった中谷と意気投合した時雨は、演劇研究誌「シバヰ」を創刊するが、意見の相違から五号で終わる。結局、中谷とは疎遠になってしまう。この二人は、恋仲という間柄まで進むことはなかったようだ。彼も長命であれば後に作品を残すような活躍をしたかもしれないのだが、夭折してしまう。明治という時代の中で、長谷川時雨という大輪の花が輝きを増していった。

「菊五郎と手を組んだ舞踏研究会(大正元年)を、狂言座(大正三年)の結成も当然のなりゆきであった。ことに狂言座の発足にあたっては、顧問に森鴎外、夏目漱石、佐佐木信綱が名をつらねている。自分たちのなかに芽ばえた日本の芝居を新しい心持でとり出してみたい、今の文壇の新しい作物、しかも興行界で演じられる望みのない作品を研究して舞台に現してみたいとの意気ごみであった。投書家時代の友人、中谷徳太郎の「夜明前」、逍遙の「新曲浦島」鴎外の「曾我兄弟」(黙阿弥原作)、木下杢太郎の「南蛮寺門前」。吉井勇の「俳諧亭句楽の死」、そして自身の「歌舞伎草子」などを上演したというが、第二回の講演で挫折においこまれている。
 「あたしはまっしぐらに所信のあるところへ、火のような情熱をもって突きすすんでいった。」
 と時雨は遺稿「渡りきらぬ橋」(没後「新女苑」に発表)のなかに書きのこしているのだが、彼女をとりまくもろもろの事情が、その劇壇活動を許さなかった。女であるがゆえの不幸であったといえるだろうし、自立のむずかしさだったのかもしれない。」
劇作家としてデビューした彼女は、歌舞伎役者や文壇の大御所をも交えた華やかな世界にいるかのようにも見える。とはいえ、そこで舞い上がっているというわけでもなく、むしろ自分のやりたい芝居の追求という明確な方向性を持っていることが、彼女の才能のきらめきと言うべきだろうと思う。そのきらめきがあればこそ、多くの人が彼女のまわりに集まってきたのだと思える。とはいえ、彼女は長谷川家の生活から無関係ではいられなかった。父深造は、新佃島で隠居生活に入っており、変わって母多喜破箱根塔ノ沢の温泉旅館の経営を始めていた。これは既にあった旅館の経営の話が持ち込まれたということであった。多岐は女将の才に恵まれていたようで、この旅館は繁昌したという。明治43年の東京でも記録的な災害となった豪雨で、箱根でも大規模な土砂崩れなどが起き、塔ノ沢温泉の玉泉楼という名であったこの旅館も大きな被害を受けた。とはいえ、盛業中であったこの旅館は再建されていくのだが、多喜は芝公園内の料亭紅葉館の経営に誘われ、ここから歯車が狂っていく。

「遠縁にあたる中沢銀行の社長からその話をもちこまれたとき、「母はたいへん気乗りがして、繁昌な箱根の店を投げ出してまで紅葉館をやろうとした。あたしは反対したが負けた。ともあれこれは、我が家の第二の招いた災難になった」と時雨は書いている。
 紅葉館は明治十年代から東都の名士のあつまる料亭であった。多喜にとって魅力ある場所だったにちがいない。しかし時代の推移はつねにあたらしいものをつくってきたから、ややとりのこされるかたちとなっていた。しぐれはその苦労を眼のあたりにしながら、精神をすりへらして経営の挽回につとめた母の姿をおもいうかべている。しかし、根本の利益を目的とした株式組織をよくのみこまなかったため、「母は憤死しはせぬかと思うばかりの目にあって」やめたというのである。そのあげくに塔ノ沢のほうも棄てなければならなかった。」
塔ノ沢の旅館は、この災害で再建されて玉泉楼新玉ノ湯となり、近年までその姿を残していた。今は廃業し、建物も取り壊されて現存しない。この辺りの詳細については、「評伝 長谷川時雨」岩橋邦枝著筑摩書房刊(1993年)が詳細に彼女の生涯を描いている。芝の紅葉館、ここは新派の舞台にも出てくる明治期の東京の名所ともいえるような料亭である。今の東京タワーの所にあった。

「そんなとき、時雨のまえにあらわれたのが、埼玉出身の三上於菟吉である。十二歳も歳下の男だった。大正四年、自費出版の『春光の下に~またはボヘミアンハウスの人々』を時雨れに贈ってから交際が始まったというが、その本は朝鮮独立運動を描いていて、発禁処分となった。反体制的な一面もみせていた於菟吉だが、彼の放蕩ぶりもまたはげしかった。神楽坂の芸者をつれだして悶着をおこしたり、自殺行の途中、人妻と過ちをおかしたりした破滅型の文学青年である。」
この於菟吉から熱烈なラブレター攻勢を受け、時雨は於菟吉を受け入れていく。最初は、脚光を浴びている美貌の劇作家としがない文学青年という間柄であったが、於菟吉は流行作家として名を成すようになっていく。今の時代、三上於菟吉と聞いてもなかなかその作品が思い浮かぶこともない。彼の得意としていたのは時代物で、「雪之丞変化」という作品が今に至るまででは最もポピュラーなものだと思う。映画、テレビ、舞台で数多く演じられてきているので、その名前はどこかで聞いたことがあると言う方も多いのではないかと思う。
この時から、時雨は於菟吉に尽くす人生を送っていく。牛込、小石川、麹町、赤坂と移り住んでいくのだが、於菟吉が流行作家として売れっ子になるのに比例して、放蕩も激しさを増していく中、時雨は於菟吉、そして長谷川家のために時間の全てを費やしていく。

母多岐は失意の中にいたが、時雨の尽力でやがて鶴見の花月園に隣接して花香苑という料亭を開き、この店を切り盛りすることで立ち直っていく。父深造はこの頃既に亡く、弟虎太郎も若くして亡くなり遺児の長谷川仁の生育も時雨の肩に掛かっていた。さらに、夫於菟吉を作家として独り立ちさせていくという、正に多忙な日々を送っていた。

「そんなおもいをこめて自伝「渡りきらぬ橋」を書いたのであろうか。その末尾にはつぎの文章を読むことができる。
 「・・・・・・あたしは、家庭婦として、あっちこっちに入用になって、引きちぎれるように用をおわされた。
 それを降りちぎったならば、今日、もうすこしましな作をのこしているのであろうが、父のことに対して、心に植えた自分自身の誓いは頭を持上げて、まず、人の為になにかする。
 そうして、すべてを捨ててかえり見ぬこと幾年?昭和三年に『女人芸術』に甦ってからの爾来は、あまり生々しいから略すことにする。」
「渡りきらぬ橋」という題にこめたおもいは、この一節で十分に察することができる。未来をみつめて新しいものを創造しようとしたのに、その行手ははばまれてしまった。元気よく一歩ふみこんで、橋の欄干に手をかけたのに、その橋はついに渡りきれなかった。自分の意志を貫ききれなかった女性の半生と読める。」
最初に長谷川時雨を知ったとき、何故これほどの人が今はあまり知られていないのだろうかと不思議に思った。さらに、「旧聞日本橋」を読んでから、これほどのものを書く人であったなら、もっと多くの作品を残してくれれば良かったのにとしみじみ思った。「女人芸術」を主宰し、数多くの女性作家を世に送り出した彼女の功績は勿論素晴らしいものであったのだが、それ以上にもっと書いていてくれればと言う思いがわき起こった。だが、彼女は自分自身に対して極めて正直に、また真面目に生きた人であった。そんな人であるからこそ、時雨らしい作品を残していったのだと思い至った。

「平塚雷鳥らの「青鞜」にもかかわりがあったが、女性解放思想の旗手にならなかったのは、彼女自身の保守性がそうなさしめたとおもえる。しかしのちに三上於菟吉の援助を受けて刊行しはじめた「女人芸術」こそ、たしかに彼女の甦りであった。時雨はつねに橋をわたろうとする意志を捨てていなかった。」
という辺りが、長谷川時雨という人の有り様の本質を得ているように思う。新しい時代の新しい女ではない、古い時代の古くはない女が長谷川時雨と言えそうに思う。「女人芸術」のユニークさは、女性であれば思想も何も問わず、応援していくという時雨らしい方針だった。時代柄、次第に左傾化していき、時に発禁処分すら受けていくことにもなる。その時雨が、「女人芸術」を一度諦め、そして「輝ク」という新しい雑誌に移行していったとき、日本は日支事変に突入していった。大正デモクラシーの時代から、軍国主義の時代へ。そのなかで時雨は国家の方針に逆らわず、皇軍の慰問などにも出かけて行っている。そして、昭和16年に南方への慰問から戻った時雨は体調不慮を訴え、倒れてしまう。そして8月22日帰らぬ人となってしまう。享年61歳であった。これよりも前の昭和11年、於菟吉は脳血栓で倒れ半身不随となっていた。苦労ばかりを掛け、その挙げ句に倒れた於菟吉を甲斐甲斐しく世話していた時雨だった。だが、その時雨に先立たれた於菟吉は暗澹たる気持であったことだろう。この三年後の昭和19年、53歳で於菟吉もこの世を去っている。

「長谷川時雨が往き来したであろう、かつての緑橋のあたりから浜町川跡地を南にたどってみると、汐見橋、千鳥橋、栄橋、高砂橋、小川橋とつづく。子供のころ、この堀はみどり川ともよばれていたことをおもいおこしたが、それは緑橋の名から出たものだろうか。いまとなっては、橋のおもかげは完全に失せて、俗称の由来を聞くすべもなくなっている。ただ川の跡地には雑然と建物が立ちならぶだけである。」
今も浜町川跡に並行した道筋にみどり通りの名が付けられている。そして、この道筋をたどっていっても、書かれている通りに橋の面影はない。


前回と重なるが、緑橋のあったところである。


この戦後の埋立で立った建物は今も存在している。そして、ざわついた時代の作りの為なのか、どこか雑多な空気をまとっている。


今時の東京のど真ん中で、こんな並びが残されている。


久松小学校の辺りに差し掛かると、埋立地の払い下げを行わなかったようで、広々としてくる。


「過密都市のなかの小さなオアシスというべきかもしれない。あまりにも人工的な風景に目をみはったが、この小公園には、戦後、瓦礫の山の東京ですすめられた埋立地利用に、ささやかな抵抗をしているかのようにみえる。ここには束の間の静けさがただよっている。」
小川橋跡を過ぎた所から、浜町川跡は小さな公園になっている。ここまで埋め立てた跡には建物が並んでいたから、妙にさっぱりしたように雰囲気が変わっている。小川橋という名は、明治19年に殉職した巡査の名から付けられたという石碑が建てられている。橋が消えれば、その名も消えてしまうところだが、明治時代からその前には警察署がたっていた。今も久松警察署がある。


そして、近藤氏が埋められた川のささやかな抵抗を感じた公園は今も変わらぬ姿である。今は水は流されておらず、かわいた水底が見えている。

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