東京 DOWNTOWN STREET 1980's

東京ダウンタウンストリート1980's
1980年代初頭に撮影した東京の町並み、そして消え去った過去へと思いを馳せる。

東京・遠く近きを読む(17)無秩序のなかの秩序

2012-06-05 20:51:49 | 東京・遠く近き
 「東京・遠く近き」というタイトルのエッセイは、登山関係の評論で知られる近藤信行氏の著作で、丸善から発行されている「学鐙」に1990年から1998年頃に掛けて全105回に渡り連載されていた作品である。氏は1931年深川清澄町の生まれで、早稲田大学仏文から大学院修士課程を修了され、中央公論社で活躍された。その後、文芸雑誌「海」を創刊し、現在は山梨県立文学館館長を務められている。残念ながら書籍化されていないので、その内容を紹介しながら思うところなど書いていこうという趣向である。

今回は「無秩序のなかの秩序」というタイトルで東京の変遷と、そして東京を代表する町である銀座へと話は進んで行く。

「インサイド・レポートで多くの読者をひきつけたジョン・ガンサーは、かつて東京についておもしろい判断を下したことがある。東京には二つの顔、二つの側面があって、「豚のようにむさくるしいとともに、陶器の艶がある」というのだ。都市のもつ清と濁を考えると、世界中のどこの都市にも通用する論理だが、東京の商業的活動とか物質的要素への関心は、「かなり多くの日本式魅力とごまかしの外套をまとっている」といい、これはキモノを着たウォール街だというのである。」

 東京という都市が世界有数の規模を持っており、つねに経済的な貪欲さの集中する街で有り続けていることは、今も変わらない。とはいえ、ここで取り上げているガンサーの東京レポートは1969年とのこと。既に40年以上の年月が経過していることを思うと、一口に戦後と言っても今の時代までを一括りにしようとすること自体に無理があると感じてしまう。1969年の東京は、私にとっては子供時代の東京であり、その中で私も育った。今と大して変わらないこともあれば、まるで違っている面も多い。私自身の感覚で言えば、昭和40年代に成長期を送った世代としては、戦後というのは実感のある言葉ではなかった。戦後というのは、自分の生まれる前の昭和30年代位までをさすことのように思えていた。既に東京オリンピックは終わり、東京の街から都電は姿を消していき、地下鉄網は各所に伸びていった。未舗装の裏通りまで下水が敷設されるのに歩調を合わせて舗装工事が行われていった。マンガに空き地に土管が積まれている景色があったが、あれは昭和40年前後の光景だと思う。そうして変わった景色は、当たり前のことだが元に戻ることはなく、今に至っている。そして、その頃に既にビルの並ぶ街であった丸の内や日比谷、銀座などでは、古いビルの建て替えが進行しており、既に探し回らないと古い建物を見つけられないようになりつつある。

「そんなことを考えているとき、私は東京にかんする二つの展覧会を見にいった。ひとつは東京写真美術館(恵比寿)における「幕末・明治の東京横山松三郎を中心に」であり、もうひとつは東京都立産業貿易センター(浜松町)での「モースの見た江戸東京」展である。ともに一世紀以上もまえの東京が主題であったが、転換期の都市と停止することのない都市の姿を考えるうえでおもしろかった。
 一八三九年、バリのフランス学士院でダゲールの発明になるダゲレオタイプが公表されたのが、写真術のはじまりというが、日本にはその数年後に渡来している。写真史の年表をみていると、その伝播は実に速やかである。「幕末・明治の東京」展では、イギリス人報遺写真家フェリックス・ベアトの「幕末写真帖」をはじめ内田九一、横山松三郎らの作品がならべられていた。愛宕山からみた江戸のバノラマ図、三田の薩摩屋敷(ベァト)があったり、旧江戸城、市中の風景・風俗(横山)、日本橋、両国橋、竹橋、小石川、昌平橋の風景(内田)などがあって、古色蒼然としていたが、なかでもひときわ眼を惹いたのは、ベアトのバノラマ図(慶応一、二年頃)と「建築中のニコライ教会堂屋上より見れる東京全市」(北海遺大学図書館北方資料室蔵)である。後者は三百六十度、ぐるりと回転させて撮ったバノラマ写真である。」

この連載当時には、私はこの展覧会は見ていないのだが、この二つのパノラマ写真は維新から明治という時代の東京を記録した非常に重要なもので、その後も展示されることが多いし、両国の江戸東京博物館に両方とも大判のパネルがあったように思う。横山松三郎については、やはり江戸博での写真展があって、以前それを見に行ったこともある。維新後に荒れ果てた江戸城の詳細な記録として撮影されていて、非常に面白い写真だった。ニコライ堂の建設足場上からのパノラマ写真の撮影者についても、諸説あるようだ。いずれにしても、明治の世の東京の具体的な姿を知る上では、どちらも貴重な資料である。また、黎明期の我が国の写真家については、技術革新とそれへの対応など、難しい面もあったようで、その変化についていけなかったり、それを契機に脚光を浴びるようになったりと、ここでも悲喜こもごもが繰り返されていたようだ。「明治百話」など読んで、明治の初め頃の東京の様子を少しずつ知りはじめると、こういった古写真が途端に生き生きと見えてくる。さらに、写っている場所に立ってみると、時の流れと共に変化の激しさを実感することが出来る。

「愛宕山とお茶の水台上と場所こそちがえ、二つの写真は二十年の推移をありありとみせている。幕末の武家屋敷、町民の家並みは、明治二十年ごろになるとあちこちが取りはらわれて、二階建て、三階建ての洋式建築となり、官用地、学校用地にはそれとおぼしき建築物がみえる。このバノラマのまえにしばらく立ちつくして、私は東京市中の水路(たとえば眼下の神田川とかかすかにそれと感じられる掘割)や道すじに想像をめぐらしていた。愛宕山からのバノラマに純然たる街の秩序があったとすると、ニコライ堂からの写真ではその秩序が崩れはじめている。新しい時代に対応するための土地利用、街づくりであったとおもえる。
 このニコライ堂堂上からのバノラマは、「モースの見た江戸東京」展にもつかわれていた。それも会場入口の踊り場に大きく拡大されて、いかにもこれが明治の東京だといわんばかりに飾られている。まぎれもなく、写真美術館でみた原図の引書のばしであった。しかしニコライ堂の名はなく、「全東京展望写真帖」より、一八八九年(明治二十二年)、田中武撮影と説明がくわえられていた。どちらが正しいのかは専門家の説をきくとしても、私はまたこれにひきこまれてしまったのである。紀尾井町、旧江戸域から銀座、築地方両も、本郷、小石川方面も、遠くはさ定かではないが指さすことができる。首都であっても東京の街なかはさほど広いところでもなかったようにおもえた。」

たしかに、幕末に撮影された愛宕山の写真には大名屋敷が写り込んでいて、その巨大さには圧倒されるほどであったが、明治20年頃に撮影されたニコライ堂の写真は場所の違いを考慮に入れても江戸から少し遠くなったことを感じさせられる。ニコライ堂の周囲は、元々は徳川家康の直轄の家臣が居を構えたことから、駿河台という名の付いた場所であり、神田川開削以前は本郷台地の端でもあり、大工事によって恐らくはそれ以前とはまるで違う景観になった所であろう。明治時代の45年間で、東京の街は確実に大きな変化を遂げている。江戸という封建制度の下での町から、東京という近代国家の首都へと変貌していった。その歩みはゆっくりとしたものだったかもしれないが、着実な変化であったと言えるだろう。ニコライ堂のパノラマ写真は、建設中の明治二十二年に田中武が撮影したという当時の新聞記事があったという。一方では、ニコライ堂の写真の技術力の高さなどから、バルトンの撮影とする説も根強いらしい。こういった事の検証も地道な調査の積み重ねであって、そのことの説明を聞いているだけでも興味深いものがある。ニコライ堂は、東京のまん中にロシア正教の教会が聳えていると言うことだけでも、なかなか興味深い。日露戦争よりも遙か以前に出来ていたことなど、その経緯などにも興味が湧く。

「モースの見た・…・」とあるとおり、会場には彼の日本におけるコレクションでいっぱいである。大森貝塚の発見者、東大で進化論を講義した動物学者としてよりも、日本に親しんだ日々をしめす民俗採集者としての面が強烈である。そこには鍋釜茶碗をはじめとする生活用具、鍛冶屋、網工師、大工、庭師など職人の道具でうずまっていた。はじめに明治初期のお雇い外人のベルツ(医学)、コンドル(建築)、フェノロサ(美術)、ボワソナード(司法)、ハーン(文学)らをあげて、明治新政府の西欧学問体系の導入を語るが、そこからモースに焦点をあてたところがこの企画のねらいなのであろう。彼は明治十年から十六年までのわずかな期間に三たび来日、滞在は延べ二年半にすぎなかったが、動物学徒としての仕事からすすんで日本人の生活そのものに眼をむけていったのは、古き良き日本への愛情をもった人だったからであろう。」

お雇い外国人は、明治という時代にはやはり欠かせない存在である。急速な近代化を目指した日本に、様々な技術、学問などを持ち込んできたのはこれらの人々である。様々な人たちがいたのだろうが、今もこうして語られる人々は東洋の新興国に真剣に彼らの知る知識をもたらしてくれた。高額な報酬があったにせよ、祖国を遠く離れて彼らの果たした役割は大きかった。モースと言えば、大森貝塚の発見者としても有名な人物である。この展示では、モースが見聞して収集した日本の生活様式の中で使われていた道具などが展示されたようだ。今ではすっかり失われてしまった、戦前、震災前の時代までは日常であった世界の遺物ということになるのかもしれない。

「彼は民具品を「日本の家内芸術」とよんで蒐集につとめている。・『日本その日その日』(万川欣一訳)にはつぎの一節がある。二度目の来日の際の北海遺・東北旅行から東京にもどって、彼が陶器研究の師とあおいだ蜷川式胤にふれた個所である。
「蜷川を通じて、私は蒐集家及び蒐集に関する、面白い詰を沢山聞いた。日本人が数百年間にわたって、蒐集と蒐集熱を持っていたのは輿味がある。彼は、日本人は外国人ほど専門的の蒐集をしないといったが、私の見聞から判断しても、日本人は外国人に比して系統的、科学的でなく、一般に事物の時代と場所とに就て、好奇心も持たず、また正確を重んじない。蜷川の友人達には、陶器、磁器、貨幣、刀剣、カケモノ(絵)、錦襯の切、石器、屋根瓦等を、それぞれ蒐集している者がある。錦襯の蒐集は、三インチか四インチ位の四角い切を、郵便切手みたいに帳面にはりつけるのである。・・・・・・」
 この一節からもわかるように、日本人の蒐集は多分に趣味的であり、モースのそれは体系的であり科学的である。博物学者の眼で日本人のごくありふれた生活をみつめていたことで、百年まえの日本人をあらためて考えさせる展示であった。」

この辺りの記述は非常に面白い。西欧近代文明の学究の徒であるモースは、系統的で物事を分類し、体系づけていくための収集であって、日本人の蒐集は多分に趣味的情緒的なものであって、科学的な背景を持たないという。これには、どこか江戸っ子はものを持っていても所詮は火事で焼けてしまうから、ものには拘らずに暮らすことを良しとしていたというようなことまで考えてしまう。今日では、多くの人が様々なものを蒐集するのはごく当たり前になっていて、近代化の結果として日本人も収集の楽しみを身に付けたといえるのかもしれない。

「幕末・明治の東京」展でみて印象づげられたものに、Main Street Tokio(銀座)の一枚がある。作者不詳だが鶏卵紙に着彩したものである。円柱をもつ二階建ての店舗がならび、歩道が出来、馬車道にとび出たところに、松、柳その他の樹木か槙えられたばかりである。ガス灯も建てられているが、ところどころに樽、手押車、椅子、梯子などが樹の根方におかれていて、いま道路工事がおわったところで、商人の入居はこれからという様子である。人通りは皆無だ。明治政府の指導のもとで成った煉瓦街を外人の写真家に依頼して撮ったものであろうか。完成時の撮影とすると、明治七、八年ごろとおもわれる。目録には大屋書店蔵と記されている。日本橋・京橋間の賑わいに隣接するかたちで、この街は建設されたのだが、もとをただせば明治五年二月二十六日の大火で、銀座・築地・京橋の三十四カ町、二十八万坪が焼かれてしまったためであった。その衰退からの再建計画が道路の拡張となり、煉瓦街という不燃都市建設にむかわせることになった。」

明治の東京、その変革の代表と言えば銀座の煉瓦街といえるのかもしれない。今日に至る、東京一の繁華街銀座の誕生といっても良いのではないだろうか。明治5年の大火で焼失した跡地に、煉瓦造りの西洋建築を建てて目抜き通りにすることが、当時の政府にとっても最重要課題であったわけである。この年には新橋~横浜間の鉄道も開通しており、横浜から鉄道でやってくる外国人に、首都の目抜き通りが彼らの故国と変わらぬ偉容であることを示したいと言うことから、この計画が沸き起こってくる、もし、火災がなければ、一体どうしたのだろうかというのも、煉瓦街の事を考える時に思う疑問の一つだ。計画当初には、東京中に煉瓦街を建設しようかという勢いであったらしいのだが、あまりに建設コストが高くついて、銀座だけで精一杯であったという。
度々このブログで引いている木村荘八も、「銀座煉瓦」という稿を残しており、非常に詳細で読みでのある一編となっている。「銀座界隈」(昭和29年折込広告社刊)に収められたもので、木村荘八全集第四巻風俗(一)(昭和57年講談社刊)に採録されている。明治期の考証については、荘八は明治26年生まれでその時代を生で知っていたり、経験したりしているということ、そしてさらにそれを詳細に描き残していることは改めて評価されても良いのではないかと思う。

汐留シオサイトとして再開発されたが、元あった位置の上に復元されて建てられている旧新橋駅舎。なかにはギャラリーやビアレストランがある。これを復元したのなら、歩道の街路樹も整理してかつての駅前広場の雰囲気まで再現して欲しい。そうすると、この建物と銀座という町の位置関係が分かりやすくなって、煉瓦街が何故生まれたのか、見れば分かるようになると思う。


また、この煉瓦街の住人として有名なのが、岸田吟香である。新聞人として名を馳せた吟香だが、銀座で薬局を経営しており、目薬を売り出して、大成功したことも知られている。中央区タイムドーム明石という施設では、この吟香の目薬の看板なども展示されている。また、この吟香の息子が画家の岸田劉生である。

銀座八丁目の裏に建てられている煉瓦の碑。



「いま、銀座は華やかである。日本の盛り場を代表する場所として名はとどろいているし、実質的にもその内容を誇っている。ガンサーは夜の銀座のネオンサイン、電光板の日本文字をみて、ニューヨークのタイムズ・スクェアについて語ったというG・K・チェスタトンの、見ることはできても読むことのできぬ人間にとって、この光景は二重のおどろきという言葉をおもいおこし、幻想的な気分にひたっている。
 しかし、かつて埋立てて土地をおこし、水の通路を組みたてた銀座も、完全に様相をかえてしまった。存在するのは多国籍的人間ばかりだ。異物・異文化が無秩序のなかであたらしい秩序をつくるかのように共存している。」

銀座というのは、東京の中でも特別な場所という感覚が私の中にもある。単なる盛り場ではない、特別さこそが銀座のだろう。それは、祖父母の代から銀座を歩き、時代の空気を銀座で感じてきたということもあるのだろう。子供のころから、両親と出かける時に銀座へ行くというのは時々あったが、ちゃんとした格好をさせられて行くものだと思っていた。その後、社会人になって最初の職場が銀座であり、二年間だったが、銀座の空気を吸えたことは自分にとっても良かったと今も思える。両親の気に入っていた店、自分の会社勤めの時代に行っていた店、今はもう存在しない店も数多いけど、生き残っている店もある。思い出と懐かしさもあり、愛着も覚える。そんな特別さを持っている町は他にはない。

銀座八丁目から銀座通り、日本橋方向を望む。


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