荏原町商店街の進んでいくと、暗渠を緑道化した感じのスペースと交叉する。調べて見ると、品川宿や大井町近辺で何度も川筋を歩いた立会川であった。なんだか、知り合いに久し振りにであったような感じ。緑道といっても、一応キレイに舗装されているものの、何もない感じで彼方に続いていく。
木造の店舗。もんじゃ焼、お好み焼きと出ている。暗渠化されたのは昭和40年代のことなので、その前からあった建物だろう。
そして、ようやく荏原町駅。この商店街は駅が北限でそこから南に向けて伸びている。
東急大井町線の荏原町駅。昭和2年に目黒蒲田電鉄が大井町~大岡山間を開通させた時に開業している。私にとっては、田園都市線といっていた時期が懐かしい。改めて見ると、歴史的には短い間なのだが、新玉川線から半蔵門線への乗り入れが始まった昭和54年にこの名前はなくなっている。目蒲線が目黒線になったり、東急は運転系統の変更を重ねてきているのが分かる。
大井町行きの電車が走り抜けていった。
踏切を越えると、スイッチが切り替わったように商店街は終わっている。そして駅の前には、法蓮寺という日蓮宗のお寺がある。
「・文永年間(1264-74)の創建。日蓮宗
・毎年10月16日に行われる御会式には、地元や近在の結社が万灯や纏(まとい)太鼓などを持って集まり、たいへんにぎわう。
・荏原七福神のひとつ、恵比須様が祀られている。」(しながわ観光協会サイトより)
戦災で伽藍は焼失したそうで、今の伽藍は戦後に再建されたコンクリート造りのもの。そして境内の様子。
「鎌倉時代の中期、文永年間(1264~75)に、荏原左衛門義宗の末子であった郎慶(徳次郎)を開山に、荏原氏の居館を寺として創建されたと伝えられる。旗岡八幡神社とともに源氏にゆかりの寺として、「八幡山」の山号がつけられ、近隣の中延5・6丁目付近には「源氏前」という古い地名が残されている。毎年10月16日が当寺のお会式(日蓮上人の忌日=10月13日に行われる法会)で、多くの人々が万灯や纏太鼓を持って集まり、大いに賑わう。」(しながわ観光協会サイトより)
「『江戸名所図会』の「中延八幡宮」、現旗岡八幡神社に関する記述では、荏原氏が八幡神社と法蓮寺が建つ地に館を構えていたとしている。
館には、義宗が先祖から受け継いだ八幡の神像が既に祀られていたようだ。旗岡八幡で、こちらのほうが法蓮寺よりやや歴史が古いが、神仏習合時代のことであり、荏原氏により法蓮寺開山と同時に八幡神社も作られた。八幡さまはもともと源氏と縁の深い神さまだが、荏原氏が支配した旗の台、中延地区はとりわけ源氏との関係が深かった。中延には「源氏前」という地名が近年まであり、小学校の名前として今も残っている。」(しながわ観光協会サイトより)
境内にあった品川区の案内より。
「将軍家斉と法蓮寺住職の角力伝承
ここ法蓮寺には、徳川十一代将軍家斉と当寺の住職日詮上人が角力を取ったという伝承があります。家斉は品川か目黒筋への鷹狩りの途中、中延八幡宮(今の旗岡八幡神社)に立ち寄られたという。そのとき別当寺であったここ法蓮寺の芝庭において、家斉は法蓮寺三十九世住職の日詮と角力を取ったとされこのとき日詮上人は手加減せずに将軍を負かしたのでかえって賞されたというお話です。江戸幕府が編纂した歴史書『徳川実記』の中には家成りが寛政から文政年間(江戸時代後期)にかけて幾度か品川周辺で鷹狩りを行ったと書かれています。
平成十九年二月一日 品川区教育委員会」
今は周辺も完全に住宅街になっているのだが、鎌倉時代からの歴史を持っている寺。辺りはその頃にはどんな有様だったのか、今では想像も付かない。
木造の店舗。もんじゃ焼、お好み焼きと出ている。暗渠化されたのは昭和40年代のことなので、その前からあった建物だろう。
そして、ようやく荏原町駅。この商店街は駅が北限でそこから南に向けて伸びている。
東急大井町線の荏原町駅。昭和2年に目黒蒲田電鉄が大井町~大岡山間を開通させた時に開業している。私にとっては、田園都市線といっていた時期が懐かしい。改めて見ると、歴史的には短い間なのだが、新玉川線から半蔵門線への乗り入れが始まった昭和54年にこの名前はなくなっている。目蒲線が目黒線になったり、東急は運転系統の変更を重ねてきているのが分かる。
大井町行きの電車が走り抜けていった。
踏切を越えると、スイッチが切り替わったように商店街は終わっている。そして駅の前には、法蓮寺という日蓮宗のお寺がある。
「・文永年間(1264-74)の創建。日蓮宗
・毎年10月16日に行われる御会式には、地元や近在の結社が万灯や纏(まとい)太鼓などを持って集まり、たいへんにぎわう。
・荏原七福神のひとつ、恵比須様が祀られている。」(しながわ観光協会サイトより)
戦災で伽藍は焼失したそうで、今の伽藍は戦後に再建されたコンクリート造りのもの。そして境内の様子。
「鎌倉時代の中期、文永年間(1264~75)に、荏原左衛門義宗の末子であった郎慶(徳次郎)を開山に、荏原氏の居館を寺として創建されたと伝えられる。旗岡八幡神社とともに源氏にゆかりの寺として、「八幡山」の山号がつけられ、近隣の中延5・6丁目付近には「源氏前」という古い地名が残されている。毎年10月16日が当寺のお会式(日蓮上人の忌日=10月13日に行われる法会)で、多くの人々が万灯や纏太鼓を持って集まり、大いに賑わう。」(しながわ観光協会サイトより)
「『江戸名所図会』の「中延八幡宮」、現旗岡八幡神社に関する記述では、荏原氏が八幡神社と法蓮寺が建つ地に館を構えていたとしている。
館には、義宗が先祖から受け継いだ八幡の神像が既に祀られていたようだ。旗岡八幡で、こちらのほうが法蓮寺よりやや歴史が古いが、神仏習合時代のことであり、荏原氏により法蓮寺開山と同時に八幡神社も作られた。八幡さまはもともと源氏と縁の深い神さまだが、荏原氏が支配した旗の台、中延地区はとりわけ源氏との関係が深かった。中延には「源氏前」という地名が近年まであり、小学校の名前として今も残っている。」(しながわ観光協会サイトより)
境内にあった品川区の案内より。
「将軍家斉と法蓮寺住職の角力伝承
ここ法蓮寺には、徳川十一代将軍家斉と当寺の住職日詮上人が角力を取ったという伝承があります。家斉は品川か目黒筋への鷹狩りの途中、中延八幡宮(今の旗岡八幡神社)に立ち寄られたという。そのとき別当寺であったここ法蓮寺の芝庭において、家斉は法蓮寺三十九世住職の日詮と角力を取ったとされこのとき日詮上人は手加減せずに将軍を負かしたのでかえって賞されたというお話です。江戸幕府が編纂した歴史書『徳川実記』の中には家成りが寛政から文政年間(江戸時代後期)にかけて幾度か品川周辺で鷹狩りを行ったと書かれています。
平成十九年二月一日 品川区教育委員会」
今は周辺も完全に住宅街になっているのだが、鎌倉時代からの歴史を持っている寺。辺りはその頃にはどんな有様だったのか、今では想像も付かない。