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甑島(市の浦海岸、亀城、里の武家屋敷跡)



3日目ともなると、地理も少しは分かるようになった。主な観光地は、前日までに済ませてある。あとは、里町周辺だけである。昼食の後は、串木野新港に向けてフェリーに乗り込むだけだ。

雲は出ていたが、時折日がさし天気はまずまずだった。最初に向かったのが、北端に近い市の浦海岸。里町からひと山越えればすぐの所だ。緩やかな湾には、きれいな砂浜が広がり、岬の先には島々が浮かんでいた。久しぶりの穏やかな天気に浮かれ、砂浜でしばし遊んだ。だが、この海岸は歴史を秘めた海岸でもあった。ここに来る途中、「七人合頭・八人合頭」という説明板があった。甑島先住者と後に島を支配していく小川氏との合戦跡だ。小川李能(すえよし)は、承久の変(1221年)で鎌倉方ににつき、宇治川の戦いで手柄をたて、その功労として甑島などを領地として下賜され、その子李直(すえなお)が、上陸したのが市の浦海岸だったのだ。というようなことで、この日は出航するまで、少しディープな歴史散策となった。




次に案内されたのが、「史跡・小川の森」だ。小川氏歴代当主の墓や武士団の墓とともに、それを祀る菩提寺があった所だ。荒れてはいたが、地元では今でも「寺の後」とか「門の口」と呼ぶという。そして、里町が見下ろせる亀城跡へ。小川氏が13代、370年に渡って甑島を治めた本拠地だ。今は公園になっている。階段を上がった正面に、ずらりと名前が刻まれた慰霊碑があった。その中に塩田某という名前も。小川氏はのちに、上甑島は塩田備前守にあずけ、下甑島手打に住まいを移したと説明板にあった。手打の武家屋敷跡が、里の武家屋敷跡に劣らず美しいのはそのためだろう。
そして最後が、普通なら一番最初に訪れるだろう「里の武家屋敷跡」だ。整然と積み上げられた石垣とその上の緑の垣根が美しく、歩いてみたかった場所だ。7、8人で散策した。と、その一角に「石敢當」を見つけた。読みは、「いしがんとう、せきがんとう、せっかんとう」などだ。道路がTの字に突き当たった所などに立てられた石碑や石標だ。魔よけのためという。沖縄で大きなものを見たことがある。わが佐土原にも、島津の支藩だったために残されている。佐土原のものを「東の石敢當」とすれば、ここにあるのは「西の石敢當」とも言える。だが、わが地の旧城下町は、物語こそ掃いて捨てるほどだが、整備が遅れて廃れていくばかりだ。
そうこうしているうちに出港の時間が近づいた。しかし、その時港の方から聞こえてきたのは、「今日の高速船は海が荒れているため出港しません」のアナウンス。だが、私たちが乗るのは川内港行きの高速船ではなく、串木野新港行きの普通フェリーだ。出港するはずだ。はたして・・・。
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