野のアザミ

日頃感じたこと、思ったこと事などを書きとめておきます。

耳川合戦図屏風

2017-09-05 | 郷土史

1577(天正5)年薩摩を本拠とする島津氏は、日向の国の支配者であった伊東氏を豊後に追い落とした。いわゆる「伊東一族豊後落ち」だ。翌1578(天正6)年、伊東氏が頼った豊後大友軍は、大友宗麟のキリスト教国建設の夢も内包しながら日向の国に南下。高城川(現・小丸川)を主舞台に両軍の戦いが繰り広げられた。結果は大友軍の大敗、耳川方面への敗走となった。島津軍はそれを追走、多くの首をとった。

その時の高城川での戦いの様子を描いた絵が「耳川合戦図屏風」だ。実物は相国寺(京都府)にあるようだ。屏風図を書物の写真で何度か見ているうち、ある時ふと気にとまったのが左上のお城。ひょっとするとこれは佐土原城ではないのかと思うようになった。博物館に行けば大きな図があるかもしれないと思い、過日出かけた。屏風図はすぐに見つかったが、実寸よりかなり小さいもので、内側から照らされていた。それでも書物の写真よりはずっとよかった。右側3分の1の所に高城川が大きく描かれている。その川を右から左に渡るのが大友軍。画面中央では両軍が激突している。左下には島津軍の鉄砲隊、その上方は陣から駆け出る島津軍だ。
この合戦図では3つの城が描かれている。高城川左岸(絵では一番右上)の城は、幟から島津軍が守り固めた高城と思われる。大友軍の執拗な攻めにも落ちなかった城だ。そして一番左上が佐土原城、その右奥が都於郡城のようだ。佐土原城とみたのは、三層の天守が描かれているためだ。この天守、「天正年中佐土原城図」(日南市教委蔵)に描かれている天守と瓜二つなのだ。左上の城が佐土原城なら、その右奥は島津軍の出撃の舞台ともなった都於郡城に間違いない。この屏風絵、いつか実物と対面し細かな所も確認してみたい。

尚、なぜ「耳川合戦」と呼ばれるかと言えば、大友記に高城川を耳川と誤記したためか。主戦場はあくまで高城川である。

※「天正年中佐土原城図」の描かれた時期は、天正年間の佐土原城を江戸時代に描いたというのが定説。また、天守台が二層か三層かは不明で、古文書では二層との記述もあるが、現在進行中の発掘が進む中で明らかになりそうだ。
※耳川合戦図屏風に描かれているお城は、どれも天守台を持っているように描かれているが、この頃のお城はどれも山城。佐土原城天守台ができたのは、佐土原島津藩第2代藩主島津忠興の時なので、耳川合戦図屏風に描かれているような天守は、実際はないようだ。