野のアザミ

日頃感じたこと、思ったこと事などを書きとめておきます。

東京遊覽乗合自動車遊覽

2019-09-23 | でき事





ムムムッ・・・! 古くから物置にあるタンスを整理していたら、引き出しから古い写真が数十点見つかった。半分は虫食い状態。白い粉をふいたり、黒い点々がついたり・・・。そんな中に、比較的きれいな記念写真がひとつ。表紙は、無地の厚紙にボンネットバスの模様がプレスされた上品なデザイン。下の方に「東京乗合自動車株式會社遊覽課寫眞部」の文字。その上に「東京市・日本橋區・室町」の住所。下には寫眞部専用の電話番号が記されている。

◎いつ頃の写真か
「東京市」は、東京府(現東京都)東部に1889年(明治22年)から1943年(昭和18年)まで存在していた市のようだから、少なくとも戦前の写真ということになる。「東京乗合自動車」は、「東京市街自動車=認可1919年(大正8)」から「東京乗合自動車」に改称されたのが1922年(大正11)のこと。しかし、これは乗合バス事業のこと。遊覧バス事業の開始は1925年(大正14)末なので、想像するに多分昭和初期の写真のようだ。

表紙をめくると、「東京遊覽乗合自動車遊覽経路圖」だ。現在わが町から東京に行くとすれば、宮崎空港から羽田空港利用が一般的だが、当時だと列車ということになるのだろう。それも蒸気機関車に一昼夜以上揺られて東京駅に着いたのだろう。お上りさんだから乗車したのは東京駅前だろうか。そうだとすれば、地図上のポイントを追えば、「東京駅前→三越→被服廠跡→浅草公園→上野本社→上野駅→(日本橋)→(銀座)→新橋駅前→桜田門→宮城(皇居)→馬場先→靖国神社→神宮外苑→明治神宮→乃木邸跡→泉岳寺→愛宕山放送局→日比谷公園→東京駅前」というコースだ。
次をめくると「東京名所」15点の写真のページ。内2点はバスの外観と内部の写真。バスは30人乗り、「最新型展望式遊覽自動車」と説明がある。印象的なのは、明治神宮や靖国神社の樹木がまだ植えたばかりのようなことと、日本橋の頭上を走る首都高がないこと。靖国神社の鳥居周辺の樹木は、まだ幼木という感じだ。

かつて、わが町には「西の松尾芭蕉」とも称された旅の先駆者がいた。山伏が見た江戸期庶民のくらしということで知られる野田泉光院だ。モダンアートの騎手・瑛九の祖先にも当たる人だが、その旅日記では、全国各地で何回か同郷の人に出会っている。泉光院の当時は徒歩だ。それに比べれば、東京はとても近くなったのだろうが、それでも「東京遊覽乗合自動車遊覽」は、一生一度の大旅行だったに違いない。




次のページが記念写真だ。二重橋前での記念写真だ。半透明のグラシン紙がかけてあったため、痛みは少ない。向って右端にガイドと思われる洋装姿の女性。あとは2列目左端の男性と3列目の若い男性を除けば、皆和装。洋装の男性は遊覧自動車会社関係の人と思われる。わが家のご先祖様が写っているのかもしれないが、誰それに似ているという顔も見当たらず、何度見ても誰が誰だかちっとも分からない。このまま捨てようとも思ったが、地域には100歳近くになるおばさま達が健在だ。まずはデジタル化しておくことにして、今度、皆さんに尋ねてみることにした。それにしても、この写真が昭和初期のものだとすれば、ついこの前までは、このような服装で旅行に出かけていたのだと思うと、時代の移り変わりの早さに驚く。現代は、あまりに急ぎ過ぎなのではないだろうか。これから100年後、どうなっているのか?