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■【小説風老いぼれコンサルタントの日記】 3月1日 ◇コンサルタント起業体験記 ◇【経営コンサルタントのトンボの目】はきもの音風景  ~ 個性失われた足音 15a06

2025-03-01 08:21:00 | 【連載小説】竹根好助のコンサルタント起業

 

  ■【小説風老いぼれコンサルタントの日記】 3月1日 ◇コンサルタント起業体験記 ◇【経営コンサルタントのトンボの目】はきもの音風景  ~ 個性失われた足音 15a06 

  平素は、私どものブログをご愛読くださりありがとうございます。

 この度、下記のように新カテゴリー「【小説風 傘寿】 老いぼれコンサルタントの日記」を連載しています。

 日記ですので、原則的には毎日更新、毎日複数本発信すべきなのでしょうが、表題のように「老いぼれ」ですので、気が向いたときに書くことをご容赦ください。

  紀貫之の『土佐日記』の冒頭を模して、「をとこもすなる日記といふものを をきなもしてみんとてするなり」と、日々、日暮パソコンにむかひて、つれづれにおもふところを記るさん。

【 注 】

 日記の発信は、1日遅れ、すなわち内容は前日のことです。

■【小説風 傘寿の日記】

 私自身の前日の出来事を小説日記風に記述しています。

 

 「文章を書くことは、脳の活性化に繋がる」ということを聞いたことがあります。
 それを信じて、毎日複数回、つぶやきとしてSNSに書くことにしています。
 老いぼれコンサルタントが、心も頭も老いぼれないように願って・・・

■【経営コンサルタントのトンボの目】はきもの音風景  ~ 個性失われた足音 15a06

 

 故山本修先生は、美容サロンを独立開業され、その経験を元にサロン経営者に「商品管理」「顧客管理」「計数管理」を提案し、サロン経営の生産性向上に成果を上げてこられました。
 日本経営士協会では、専務理事・関西支部長等を歴任され、その貢献度は多大です。その功績に敬意を表して、10年ほど前に、先生が当ブログに投稿してくださったコンテンツを再掲いたします。内容的に、当節にそぐわぬこともあるかもしれませんが、そこから何かを感じ取って下さると幸です。

 

 

■ 履物による足音の変化

 正月の初詣。神社の境内では様々な音が聞こえてくる。鈴の音、柏手の響き、賽銭箱に硬貨が落ちる音、人々のさざめき、玉砂利を踏みしめる音等。正月は和服の人も多く、何時もは聴くことの少ない音も耳に入る。石畳を下駄で歩くとカランコロンと軽やかな音がする。草履がけの小走りには、スタスタという描写が相応しい。

 雪駄には、かかとの部分に裏金が打ってあり、チャラチャラと鳴る。粋な人が履いていればよいが、似つかわしくない若者がこの音を立てると評判を落とす。軽薄でやすっぽいことをチャラチャラという音で表現することとは、無関係ではないと言われる。


■ 日常の履物と足音

 日常の生活を顧みると、現在では殆どの人が靴をはく。革靴の底は堅いので、舗装された道を歩くとコツコツという音がする。

 女性の履物も、パンプスやブーツのかかとが床に当たるとツカツカという印象の高い音が出る。とりわけ女性が夏に好むミュールというサンダルの靴底は甲高い音を立て、うるさく感じる。


 最近の靴底の変化

 最近の若い女性の足元を見ると、分厚いコルク底が流行の様である。南半球からもたらされた「ボアブーツ」も目立つ。底はゴムや樹脂で大きな音がしない。騒がしく感じた女性の足音も、いくらか静かになってきた感がある。 

 男性の履物でも、スニーカーやタウンシューズなどが広がったせいか、足音が小さくなってきている。サラリーマンでは相変わらず革靴が定番ではあるが、近年は樹脂製の底が増えてきている。これは、雨の日の街路や磨き上げられたフロアで転倒するのを防ぐためであると言われる。


■ 履物の変遷と路面の変遷

 履物の変遷は、私たちが土の上を歩く機会を無くしたことと連動する。舗装された路面が前提となって、それに合う足音の小さい画一的なものとなってきたとも言えるのである。

 以前には履物の種類によって足音には違いが有ったし、同じ履物でも、歩く人の体格や、癖が音の高さやリズムの差を生んでいた。それが段々と画一的なものに置き換わる・・・。家で待つ者が、足音を聞いて親しい人の帰りを知る。そういった能力も、いずれは昔語りになるのであろうか。

 夜道を歩く時の足音は自分の存在を周りに知らす役目があったが、現在では、夜遅く一人で夜道を歩く時に、足音の無い人の気配に背筋の寒くなる思いをしたことのある人は筆者だけではないと思われるが、いかがでしょうか。

               参考文献 産経新聞掲載 永井良和著

■【今日のおすすめ】

 

■【今日は何の日】

  当ブログは、既述の通り首題月日の日記で、1日遅れで発信されています。

  この欄には、発信日の【今日は何の日】などをご紹介します。

   https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/c/7c95cf6be2a48538c0855431edba1930

  ■【今日は何の日】 3月2日 ■ ミニの日 ■ ミニぶたの日 早春の高台寺  一年365日、毎日が何かの日

■【知り得情報】

 政府や自治体も、経営環境に応じて中小企業対策をしています。その情報が中小企業に伝わっていないことが多いです。その弊害除去に、重複することもありますが、お届けしています。


   出典:e-中小企業庁ネットマガジン

■【経営コンサルタントの独り言】

 その日の出来事や自分がしたことをもとに、随筆風に記述してゆきます。経営コンサルティング経験からの見解は、上から目線的に見えるかも知れませんが、反面教師として読んでくださると幸いです。


■  3月なのに二月堂とは如何に? 301

 3月は、なぜ「弥生(やよい)」と呼ぶのでしょうか?
  http://www.glomaconj.com/#tsukimei
 3月1日には、奈良東大寺の二月堂で修二会が開かれます。
 修二会行事のハイライトは「お水取り」です。
 3月12日に行われます。
 二月堂の外廊下を、日で飾る行事は、火事にならないかと心配になりますね。
 修二会とは?
  http://blog.goo.ne.jp/keieishi17/e/143c1b8bdb51a452b3f00dec4095eda7

 

【経営コンサルタントの独り言】 二月堂の名前の由来

 修二会が2月に行われることが、二月堂の名前の由来であることは想像がつきます。

 日本仏教の法要のひとつが「修二会(しゅにえ)」で、東大寺では「お水取り」が行われます。

 二月堂のすぐ前(下)に、閼伽井(あかい)の建物がありますが、見落とされがちです。

 修二会とは、二月堂のご本尊であります十一面観世音菩薩に対する方法です。

 「十一面悔過(じゅういちめんけか)」といわる、春を迎えることを告げる法要で、旧暦2月に行われます。

 新暦では、3月ですので、二月堂の法要であるのに3月に行われるのです。

 

三月堂

 二月堂の東隣にある三月堂は、毎年3月に、この堂において法華会(ほっけえ)という行事が営まれることからから「三月堂」と呼ばれます。

 このことから「法華堂」というのが正式な後生なのだそうです。

 法華堂には、あの有名な国宝「不空羂索観音(ふくうけんじゃくかんのん)」が配されているお堂で、継ぎ足しお堂であることでも知られ、屋根の形と瓦でそれが判ります。

 

四月堂

 東大寺三月堂(法華堂)の向かいというか、南隣に立つお堂が四月堂です。旧暦の4月に法華経に由来する法華三昧会が行なわれたことから、四月堂の通称がありますが、「三昧堂(さんまいどう)」が正式呼称です。

 古くは普賢堂、普賢三昧堂とも呼ばれたそうで、普賢菩薩が本尊だった時代もあります。現在では、堂内に小像ながら平安期の普賢菩薩騎象像が安置されています。

 これは、法華経を信仰する者のところに、白い象に乗って普賢菩薩が現れるという形をを表しているそうです。

 

■【連載小説】 竹根好助の「経営コンサルタント起業」体験記
 私は、経営コンサルタント業で生涯現役を貫こうと思って、半世紀ほどになります。しかし、近年は心身ともに思う様にならなくなり、創業以来、右腕として私を支えてくれた竹根好助(たけねよしすけ)に、後継者として会社を任せて数年になります。
 竹根は、業務報告に毎日のように私を訪れてくれます。二人とも下戸ですので、酒を酌み交わしながらではありませんが、昔話に時間を忘れて陥ってしまいます。それを私の友人が、書き下ろしで小説風に文章にしてくれています。
 原稿ができた分を、原則として、毎週金曜日に皆様にお届けします。
【最新号】

【これまでお話】 バックナンバー
  https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/c/c39d85bcbaef8d346f607cef1ecfe950

■【老いぼれコンサルタントのブログ】

 ブログで、このようなことをつぶやきました。タイトルだけのご案内です。詳細はリンク先にありますので、ご笑覧くださると嬉しいです。

 

 明細リストからだけではなく、下記の総合URLからもご覧いただけます。
  https://blog.goo.ne.jp/keieishi17

    
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【連載小説】竹根好助の経営コンサルタント起業8章 1 転職なんて

2025-02-28 12:21:00 | 【連載小説】竹根好助のコンサルタント起業

  【連載小説】竹根好助の経営コンサルタント起業8章 1 転職なんて 

 
■ 【小説】 竹根好助の経営コンサルタント起業 
 私は、経営コンサルタント業で生涯現役を貫こうと思って、半世紀ほどになります。しかし、近年は心身ともに思う様にならなくなり、創業以来、右腕として私を支えてくれた竹根好助(たけねよしすけ)に、後継者として会社を任せて数年になります。 竹根は、業務報告に毎日のように私を訪れてくれます。二人とも下戸ですので、酒を酌み交わしながらではありませんが、昔話に時間を忘れて陥ってしまいます。
 これからコンサルタントを目指す人の参考になればと、私の友人が、書き下ろしで小説風に文章にしてくれています。 原稿ができた分を、原則として、毎週金曜日に皆様にお届けします。
【これまであらすじ】
 竹根好助は、私の会社の後継者で、ベテランの経営コンサルタントでもあります。
 その竹根が経営コンサルタントに転身する前、どのような状況で、どの様な心情で、なぜ経営コンサルタントとして再スタートを切ったのかというお話です。

 1ドルが360円の時代、すなわち1970年のことでした。入社して、まだ1年半にも満たないときに、福田商事が、アメリカ駐在事務所を開設するという重大発表がありました。
 角菊貿易事業部長の推薦する佐藤ではなく、初代駐在所長に竹根が選ばれました。それを面白く思わない人もいる中で、竹根はニューヨークに赴任します。慣れない市場、おぼつかないビジネス経験の竹根は、日常業務に加え、商社マンの業務の一つであるアテンドというなれない業務もあります。苦闘の連続の竹根には、次々と難問が押し寄せてくるのです。
 日常業務をこなしながら、アテンドという商社マンにつきものの業務を自分なりに見つめ直す竹根です。慣れないニューヨークを中心としたアメリカでのビジネスですが、時として折れそうになってしまいます。そのようなときに、若い竹根の支えとなってくれたのが、本社で竹根をフォローしてくれるかほりでした。彼女の父親は地元の名士ということから、竹根などに娘をやるわけにはいかないと厳しかったのです。かほりと竹根の努力で、結局、父親は折れざるをえず、晴れて結婚が認められました。
 たった一人でニューヨークで苦闘してきた、若者、竹根好助(たけねよしすけ)も5年の任期を終え、東京に戻り、本社勤務に戻りました。5年という歳月で自分の置かれている立場が急激に変化してきたことを実感している竹根です。その最大の変化が、まさか自分の身に降りかかると思ってもみなかったヘッドハンティングです。

◆8章 半歩の踏み込み
 ニューヨークでの5年の任期を終え、東京に戻り、商社マンとして中堅どころに足を踏み入れた竹根です。東京本社勤務が始まったばかりというのに、ヘッドハンティングという、想定だにしなかった話が舞い込みました。
  ※ 直前号をお読みくださるとストーリーが続きます。
     直前号 ←クリック

◆8-1 転職なんて
 東京本社に戻った竹根に、雲の上の人とも言える福田社長が竹根に約束してくれた「できるところからやってみる」という言葉が、少しずつであるが見られるようになった。福田社長がいくら熱を込めて話しても、それが担当役員、部長、課長と階層を経るにしたがい、その熱が冷えて伝わってゆく。結局、現場の人たちにしてみれば、それも指示・命令の一つに過ぎず、目先のことに追われると、福田社長の熱は横に追いやられてしまうのである。
――これが、商社の現実なのか。限界と言ってもいいのかもしれない――
 暖かい笑顔に迎えられた竹根の夕食後のことである。新聞を読んでいたが、竹根の頭の中は、その日に見た商社の現実のことであり、記事の内容は眼を通過するだけで理解とか記憶の回路でそれなりの作業をしないのであった。
 夕食後の後片付けも終わり、まだ四歳になったばかりの娘の由紗里も眠ったらしく、いつのまにか、妻のかほりが竹根のそばにいた。最近、竹根の様子がおかしいことが気になっていたのであろう、かほりがそっと竹根の手に掌を重ねた。
 柔らかい、暖かなものが竹根の全身に走った。
 それが引き金となって、竹根は自分の悩みをかほりに話し始めていた。かほりは、時々「それで」とか「うん、うん」とか「解るわ」とか相槌を打ってくれる。それが、竹根の次の言葉の誘い水となり、次々と竹根の胸の内が言葉に変換されて、かほりに伝わる。
「福田商事に、こだわらなくてもいいのじゃないの」
 ポツンと、かほりが言った。
 竹根は、その言葉をどのように解釈してよいのか解らなかったが、かほりが竹根の周波数と同じに竹根を受け入れていることを感じ取ることができた。
――これが、夫婦か。かほりが、父親から勘当されてまで、俺のところに来てくれたことは、一生忘れてはいけないのだ。この女性を、不幸にすることは罪悪なのだ――
 妻のかほりの入れてくれたお茶が、とてつもなくうまく感じた。
  <続く>

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【連載小説】竹根好助の経営コンサルタント起業7章 誘惑と模索 6 ヘッドハンティング

2025-02-21 12:21:00 | 【連載小説】竹根好助のコンサルタント起業

  【連載小説】竹根好助の経営コンサルタント起業7章 誘惑と模索 6 ヘッドハンティング 

 
■ 【小説】 竹根好助の経営コンサルタント起業 
 私は、経営コンサルタント業で生涯現役を貫こうと思って、半世紀ほどになります。しかし、近年は心身ともに思う様にならなくなり、創業以来、右腕として私を支えてくれた竹根好助(たけねよしすけ)に、後継者として会社を任せて数年になります。 竹根は、業務報告に毎日のように私を訪れてくれます。二人とも下戸ですので、酒を酌み交わしながらではありませんが、昔話に時間を忘れて陥ってしまいます。
 これからコンサルタントを目指す人の参考になればと、私の友人が、書き下ろしで小説風に文章にしてくれています。 原稿ができた分を、原則として、毎週金曜日に皆様にお届けします。
【これまであらすじ】
 竹根好助は、私の会社の後継者で、ベテランの経営コンサルタントでもあります。
 その竹根が経営コンサルタントに転身する前、どのような状況で、どの様な心情で、なぜ経営コンサルタントとして再スタートを切ったのかというお話です。

 1ドルが360円の時代、すなわち1970年のことでした。入社して、まだ1年半にも満たないときに、福田商事が、アメリカ駐在事務所を開設するという重大発表がありました。
 角菊貿易事業部長の推薦する佐藤ではなく、初代駐在所長に竹根が選ばれました。それを面白く思わない人もいる中で、竹根はニューヨークに赴任します。慣れない市場、おぼつかないビジネス経験の竹根は、日常業務に加え、商社マンの業務の一つであるアテンドというなれない業務もあります。苦闘の連続の竹根には、次々と難問が押し寄せてくるのです。
 日常業務をこなしながら、アテンドという商社マンにつきものの業務を自分なりに見つめ直す竹根です。慣れないニューヨークを中心としたアメリカでのビジネスですが、時として折れそうになってしまいます。そのようなときに、若い竹根の支えとなってくれたのが、本社で竹根をフォローしてくれるかほりでした。彼女の父親は地元の名士ということから、竹根などに娘をやるわけにはいかないと厳しかったのです。かほりと竹根の努力で、結局、父親は折れざるをえず、晴れて結婚が認められました。

◆7章 誘惑と模索
 1ドル360円時代の商社マンは、「企業戦士」と言われるほど海外赴任活動は、心身共に厳しいです。たった一人でニューヨークに乗り込んだ竹根好助(たけねよしすけ)も5年の任期を終え、東京に戻り、本社勤務に戻りました。
  ※ 直前号をお読みくださるとストーリーが続きます。
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◆7-6 ヘッドハンティング
 言葉は丁寧だが、端々にコンサルタントらしい、教えてやる的な表現が入るのが気になる。
 一方で、熱心な語り口には、引き込まれてゆく自分があるのを竹根は感じながら、耳を傾けた。
――さすが経営コンサルタントだな――
 経営コンサルタントとは中堅・中小企業だけではできない経営の側面を指導することにより、大企業にも負けない企業作りをするやりがいのある仕事である。経営コンサルタント業について、いろいろな側面を話してくれた。
 竹根の活躍は、北野原だけではなく、何社かの経営者からも直接・間接に聞いたとも話した。その話は具体的であり、竹根にも思い当たることであったので、作り話ではなさそうである。
 二時間近くにわたり、話をしてくれたが、竹根には、経営コンサルタントという仕事が実感として湧かないし、福田商事のやりかたには不満はあるが、仕事や同僚仲間は好きである。自分の気持ちをはっきりと伝えると、「今すぐでなくても結構です。今後、『経営コンサルタント』という言葉を聞くことがあれば、私のことを思い出してください」と丁寧に締めくくってから別れた。

 竹根には、経営コンサルタントという世界が日本にもあるのかという漠然とした思いで帰路についた。ただ、小田川の「経営コンサルタントというのは、クライアントに『ありがとう』と言われることを楽しみにできる仕事です」という言葉は、このときに竹根のどこかに住み着いたことを、そのときはわからなかった。

 数日後、小田川からの丁寧な礼状と、坂之下社長の講演会の案内状が送られて来た。幸い、その日はスケジュール的に何とかなることもあり、小田川に対する儀礼からも行ってみることにした。
 さすが坂之下経営らしく、大手町にある日経ホールは満杯で、熱気がムンムンしていた。受付に行くと、いつの間にか小田川が竹根の右斜め後ろにいて、「竹根さん、先日はありがとうございました」と声をかけてきた。自分の方が恐縮してしまうほど丁寧であった。
 さすが時代の寵児の一人と言われる坂之下先生の話は、聴衆を引きつけるものがあった――企業には、光と影の部分があり、光が当たっているところだけに目がいきがちであるが、陰の部分にも目を配る必要がある――という下りは、さかんな拍手が出るほどであった。
 竹根には、「先行管理経営」という言葉が、言っていることは当たり前のことなのに、何か惹かれるものがあると思った。それが経営コンサルタントの魅力なのかとまた考えた。
 帰り道、小田川の「ありがとう」、坂之下の「先行管理」という言葉が、頭の中をグルグルとエンドレスに回っている状態が続いた。いつの間にか自宅に着くと、かほりが由紗里を連れてにこやかに迎えてくれた。一日が終わり、もっともホッとする瞬間である。「家庭があることはすばらしいことだ。かほり、由紗里、ありがとう」と心の中でつぶやくのであった。
  <続く>

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【連載小説】竹根好助の経営コンサルタント起業7章 誘惑と模索 5 コンサルティング・ファームからの電話

2025-02-14 12:21:00 | 【連載小説】竹根好助のコンサルタント起業

  【連載小説】竹根好助の経営コンサルタント起業7章 誘惑と模索 5 コンサルティング・ファームからの電話  

 
■ 【小説】 竹根好助の経営コンサルタント起業 
 私は、経営コンサルタント業で生涯現役を貫こうと思って、半世紀ほどになります。しかし、近年は心身ともに思う様にならなくなり、創業以来、右腕として私を支えてくれた竹根好助(たけねよしすけ)に、後継者として会社を任せて数年になります。 竹根は、業務報告に毎日のように私を訪れてくれます。二人とも下戸ですので、酒を酌み交わしながらではありませんが、昔話に時間を忘れて陥ってしまいます。
 これからコンサルタントを目指す人の参考になればと、私の友人が、書き下ろしで小説風に文章にしてくれています。 原稿ができた分を、原則として、毎週金曜日に皆様にお届けします。
【これまであらすじ】
 竹根好助は、私の会社の後継者で、ベテランの経営コンサルタントでもあります。
 その竹根が経営コンサルタントに転身する前、どのような状況で、どの様な心情で、なぜ経営コンサルタントとして再スタートを切ったのかというお話です。

 1ドルが360円の時代、すなわち1970年のことでした。入社して、まだ1年半にも満たないときに、福田商事が、アメリカ駐在事務所を開設するという重大発表がありました。
 角菊貿易事業部長の推薦する佐藤ではなく、初代駐在所長に竹根が選ばれました。それを面白く思わない人もいる中で、竹根はニューヨークに赴任します。慣れない市場、おぼつかないビジネス経験の竹根は、日常業務に加え、商社マンの業務の一つであるアテンドというなれない業務もあります。苦闘の連続の竹根には、次々と難問が押し寄せてくるのです。
 日常業務をこなしながら、アテンドという商社マンにつきものの業務を自分なりに見つめ直す竹根です。慣れないニューヨークを中心としたアメリカでのビジネスですが、時として折れそうになってしまいます。そのようなときに、若い竹根の支えとなってくれたのが、本社で竹根をフォローしてくれるかほりでした。彼女の父親は地元の名士ということから、竹根などに娘をやるわけにはいかないと厳しかったのです。かほりと竹根の努力で、結局、父親は折れざるをえず、晴れて結婚が認められました。

◆7章 誘惑と模索
 1ドル360円時代の商社マンは、「企業戦士」と言われるほど海外赴任活動は、心身共に厳しいです。たった一人でニューヨークに乗り込んだ竹根好助(たけねよしすけ)も5年の任期を終え、東京に戻り、本社勤務に戻りました。
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◆7-5 コンサルティング・ファームからの電話
 二月に入った暖かいある日曜日のことである。竹根は久しぶりに、妻のかほりが由紗里(ゆさり)と手をつないで散歩から戻ってきた。会社から一時間半の通勤時間の郊外に住んでいる竹根にとっては、挨拶回りで忙しく、それまでは日曜日もゆっくりできなかった。久しぶりに家族水入らずの団らんのひとときである。
 玄関をあがろうとした時に電話がなった。かほりが慌てて受話器を取った。はじめは「竹根です」といつもの話し方であったが、次第に声が小さくなってきた。売り込みなど、彼女にとって都合の悪い電話が来るといつもこのように話すので、竹根は「日曜なのに、熱心な営業マンもいるものだな」と思った。
「坂之下経営の小田川様ですね。ただいま代わりますので、少々お待ちください」と言ってから、受話器から声が通らないように掌でふたをして、竹根に相手の名前を伝えた。
 受話器を受け取った竹根は、坂之下経営と言えば、有名な経営コンサルタント会社のはずだけど、どんな要件なのだろう、と訝りながら「お電話を変わりました。竹根です」と丁寧に電話に出た。
 日曜であることを詫びながら、ケント光学の北野原社長の紹介であること、自分の役職や会社の概況説明をしてから、竹根に会いたいと言ってきた。北野原の名前が出たのでは会わないわけにはいかない。手帳のスケジュールを見ながら、火曜日の夕刻に銀座で会うことにした。
 小田川は、丁寧な言い方であるが、電話では面会の目的までは言わなかった。副社長だと言うから、別にコンサルティングの売り込みでもなさそうである。北野原がどのように関係するのかわからない。日曜なので、北野原に確認することもできない。
 せっかく、家族三人の散歩で、気分転換ができたのに、何となくすっきりしない日曜日が過ぎようとしていた。

 翌日、北野原に電話をしたが、二日間の人間ドックに入っているので連絡が取れないという返事であった。田近に電話を変わってもらって、坂之下経営の小田川という男を知らないかと聞いたが、知らないという。
 何もわからない状態で、小田川に会うことになった。
 銀座なので、超高級な料亭か、バーかと思ったが、路地を入ったところの気さくな女将のいる小料理屋であった。小田川は、六十歳を超えているのだろうか、身長は竹根とほぼ同じくらいだが、体重は有に九十キロを超えているだろう。
 小田川は、北野原とフルブライトの同期で、やはりニューヨークに三ヶ月ほどいたそうである。経営コンサルタント会社と言っても、有能なコンサルタントばかりがいるわけではなく、外部に優秀な人がいればヘッドハンティングをするのだそうだ。北野原が、何かの席で福田商事に優秀な人間がいると言うことを口にしたらしく、その日の会見のことを北野原は知らないはずであるという。
  <続く>

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【連載小説】竹根好助の経営コンサルタント起業7章 誘惑と模索 4 商社は変身しなければならない

2025-02-07 12:21:00 | 【連載小説】竹根好助のコンサルタント起業

  【連載小説】竹根好助の経営コンサルタント起業7章 誘惑と模索 4 商社は変身しなければならない 

 
■ 【小説】 竹根好助の経営コンサルタント起業 
 私は、経営コンサルタント業で生涯現役を貫こうと思って、半世紀ほどになります。しかし、近年は心身ともに思う様にならなくなり、創業以来、右腕として私を支えてくれた竹根好助(たけねよしすけ)に、後継者として会社を任せて数年になります。 竹根は、業務報告に毎日のように私を訪れてくれます。二人とも下戸ですので、酒を酌み交わしながらではありませんが、昔話に時間を忘れて陥ってしまいます。
 これからコンサルタントを目指す人の参考になればと、私の友人が、書き下ろしで小説風に文章にしてくれています。 原稿ができた分を、原則として、毎週金曜日に皆様にお届けします。
【これまであらすじ】
 竹根好助は、私の会社の後継者で、ベテランの経営コンサルタントでもあります。
 その竹根が経営コンサルタントに転身する前、どのような状況で、どの様な心情で、なぜ経営コンサルタントとして再スタートを切ったのかというお話です。

 1ドルが360円の時代、すなわち1970年のことでした。入社して、まだ1年半にも満たないときに、福田商事が、アメリカ駐在事務所を開設するという重大発表がありました。
 角菊貿易事業部長の推薦する佐藤ではなく、初代駐在所長に竹根が選ばれました。それを面白く思わない人もいる中で、竹根はニューヨークに赴任します。慣れない市場、おぼつかないビジネス経験の竹根は、日常業務に加え、商社マンの業務の一つであるアテンドというなれない業務もあります。苦闘の連続の竹根には、次々と難問が押し寄せてくるのです。
 日常業務をこなしながら、アテンドという商社マンにつきものの業務を自分なりに見つめ直す竹根です。慣れないニューヨークを中心としたアメリカでのビジネスですが、時として折れそうになってしまいます。そのようなときに、若い竹根の支えとなってくれたのが、本社で竹根をフォローしてくれるかほりでした。彼女の父親は地元の名士ということから、竹根などに娘をやるわけにはいかないと厳しかったのです。かほりと竹根の努力で、結局、父親は折れざるをえず、晴れて結婚が認められました。

◆7章 誘惑と模索
 1ドル360円時代の商社マンは、「企業戦士」と言われるほど海外赴任活動は、心身共に厳しいです。たった一人でニューヨークに乗り込んだ竹根好助(たけねよしすけ)も5年の任期を終え、東京に戻り、本社勤務に戻りました。
  ※ 直前号をお読みくださるとストーリーが続きます。
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◆7-4 商社は変身しなければならない

 その後、あちらこちらに散らばっている福田商事の子会社、関係会社を駆け足で廻った。その大半がアメリカ詣でで竹根の世話になり、一様に竹根の献身的なアテンドに感謝をしている。その彼らは、やはり北野原と同じように福田商事の悪口を竹根に浴びせかけた。
 竹根は、考えた、悩んだ。
 そして、彼らの言い分を箇条書きに整理してみた。お茶を運んできた妻のかほりにそれを見せた。「あなたが、ニューヨークにいた時に言っていたことと同じね」と一言が返ってきた。
 その言葉に、「このままでいいの?」という声が含まれているような気がした。
 それからの竹根は、福田商事の実状を知ってもらおうと、角菊の時間が取れる時に、いろいろな角度で話した。のれんに腕押しの状態が続いた。
 次に竹根がしたことは、箇条書きにしたメーカーの言い分は、福田商事のどの部門の担当かによって振り分け、その担当者に直接話をするようにした。しばらくは、竹根の様子を見ていた角菊であるが、ある時に堪忍袋の緒が切れたらしい。竹根を別の階にある会議室に呼んで、「いろいろな部署から、竹根が難問を振りかけている」と苦情が来ていることを、顔を真っ赤にして三十分にわたって、くどくどと繰り返した。
 その原因は福田商事の体質、商社としての見方しかしていないことに原因があるとの竹根の反撃に、角菊はますます逆上してきた。
 竹根は、この状況では言っても仕方がないとあきらめかけた。そこに福田社長が顔を出した。
「竹根君、社内あちこちに難癖をつけて歩いているそうだね」
「社長、耳が早いですね」
「一体、何を言い廻っているのかね」
 福田が、聴く耳を差し出してきた。
――福田商事は、自分が売りたい商品には力を入れるが、売れない商品は、商品のせいにしてなかなか売ろうとしない。商品知識が不十分でライバルの専門メーカーに売り負かされている。もっと、顧客のニーズを掴んだ売り込みをして欲しいのに、価格を下げろとか、こういう機能がないから売れないとか、自分たちの努力不足を棚に上げて、言いたいことを言っている。言い方にしても、自分たちを下に見た、見下した言い方や、命令口調であったり、攻撃的な言葉をぶつけてきたりする――
 竹根は、メーカーの言い分を、要領よくまとめて福田に話した。角菊は、憮然として黙りこくっている。
 黙って聞いていた福田は、「竹根君、君はどうしたらよいと考えているのかね」と質問で返した。
――さすが、社長はやり方がうまい。汚いと言いたいところだけど・・・――
 竹根は、痛いところを突かれた。これを頂門一針というのかと思った。
「私は、商社としての福田商事と、子会社や関連会社というメーカー双方が抽象的なことを言っているので、このままでは平行線だと思います。もっと、双方が、対等な立場で、コミュニケーションを取るというか、意見交換をするべきだと考えています」
「それがベストな方法かどうかはわからないが、君の言いたいことはわかった。君も言っているように、確かにメーカーと商社では立場が異なるので、相容れられないこともある。しかし、今のままではいけないこともわかった。君が満足できるようになるかどうかは別にして、私なりに努力をしてみようと思う」
 福田は、角菊の方に視線を向けて「今日のところは、こんなことで、私の顔に免じて、竹根君を解放してやってはどうかね」と諭すように言った。
「社長、ありがとうございます」
 角菊が、刀をさやに収めて、その日は終わった。
  <続く>

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【連載小説】竹根好助の経営コンサルタント起業7章 誘惑と模索 3 北野原との再会は想像だにしないことに

2025-01-31 12:21:00 | 【連載小説】竹根好助のコンサルタント起業

  【連載小説】竹根好助の経営コンサルタント起業7章 誘惑と模索 3 北野原との再会は想像だにしないことに 

 
■ 【小説】 竹根好助の経営コンサルタント起業 
 私は、経営コンサルタント業で生涯現役を貫こうと思って、半世紀ほどになります。しかし、近年は心身ともに思う様にならなくなり、創業以来、右腕として私を支えてくれた竹根好助(たけねよしすけ)に、後継者として会社を任せて数年になります。 竹根は、業務報告に毎日のように私を訪れてくれます。二人とも下戸ですので、酒を酌み交わしながらではありませんが、昔話に時間を忘れて陥ってしまいます。
 これからコンサルタントを目指す人の参考になればと、私の友人が、書き下ろしで小説風に文章にしてくれています。 原稿ができた分を、原則として、毎週金曜日に皆様にお届けします。
【これまであらすじ】
 竹根好助は、私の会社の後継者で、ベテランの経営コンサルタントでもあります。
 その竹根が経営コンサルタントに転身する前、どのような状況で、どの様な心情で、なぜ経営コンサルタントとして再スタートを切ったのかというお話です。

 1ドルが360円の時代、すなわち1970年のことでした。入社して、まだ1年半にも満たないときに、福田商事が、アメリカ駐在事務所を開設するという重大発表がありました。
 角菊貿易事業部長の推薦する佐藤ではなく、初代駐在所長に竹根が選ばれました。それを面白く思わない人もいる中で、竹根はニューヨークに赴任します。慣れない市場、おぼつかないビジネス経験の竹根は、日常業務に加え、商社マンの業務の一つであるアテンドというなれない業務もあります。苦闘の連続の竹根には、次々と難問が押し寄せてくるのです。
 日常業務をこなしながら、アテンドという商社マンにつきものの業務を自分なりに見つめ直す竹根です。慣れないニューヨークを中心としたアメリカでのビジネスですが、時として折れそうになってしまいます。そのようなときに、若い竹根の支えとなってくれたのが、本社で竹根をフォローしてくれるかほりでした。彼女の父親は地元の名士ということから、竹根などに娘をやるわけにはいかないと厳しかったのです。かほりと竹根の努力で、結局、父親は折れざるをえず、晴れて結婚が認められました。

◆7章 誘惑と模索
 1ドル360円時代の商社マンは、「企業戦士」と言われるほど海外赴任活動は、心身共に厳しいです。たった一人でニューヨークに乗り込んだ竹根好助(たけねよしすけ)も5年の任期を終え、東京に戻り、本社勤務に戻りました。
  ※ 直前号をお読みくださるとストーリーが続きます。
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◆7-3 北野原との再会は想像だにしないことに
 ニューヨーク赴任から戻った竹根は、関係先への挨拶回りから始めることにした。その最初が、顕微鏡や関連商品の改良など、仕事上で世話になったケント光学の北野原である。
 北野原のケント光学は、東京の郊外にある。ボートレースで有名な東京競艇場近くであるが、まわりには工場と住宅が混在したところだ。
 北野原自身が、駅まで迎えに来てくれた。会社までの十数分の間、二人はアメリカでの思い出話に花を咲かせた。
 工場内部は、昔と変わらない。研磨工場、組み立て工場、加工工場など、小さいながらも最低限度のことができる設備や人材が揃っている。従業員は、五十人ほどであるが、比較的高齢者が多く、平均年齢は高い。中小企業の典型的な社員構成であろう。
 一通り、アメリカ市場をにらんだ報告と意見交換が終わると、食事に誘われた。まだ、時間的には早いが、十二月の冬の帳(とばり)は落ちていた。
 アルコールは欠かせない北野原だが、下戸の竹根には強要しない。少しアルコールが廻ってくると、相変わらず饒舌になる。
 ひとしきり、子会社や関係会社への福田商事の対応の悪さについて、福田商事関連の他の会社の経営者の声の実例を交えて、あれやこれやと出てきた。中には、アメリカでも聞いたことがいくつか含まれていた。
 アメリカ詣でに来た、いろいろな経営者・管理職の顔が思い出された。彼らも北野原と大同小異のことを言っていた。竹根は福田商事の立場もわかるが、彼らにも言い分があると思った。
――商社とメーカーというのは、やはり立場が異なるので、相容れない部分があるのだ――
 北野原には、子どもがいない。常務をしている田近は、竹根よりいくつか上だから三十五歳くらいになるのであろうか、北野原の甥御さんであることをニューヨークで聞いて知っていた。竹根は、以前田近と話をしたことがあり、人の良さそうな、温和しい人という印象を持っている。それが気に入らないのか、北野原は田近に物足りなさを感じているらしい。
 かなり、アルコールが廻ってきたところで、北野原から思わぬ言葉が口をついて出てきた。
「竹根さん、俺の後を継いでくれませんか」
 かしこまって、頭を深々と垂れたので、冗談ではないことがわかった。
「社長、頭を上げてください」
「竹根さんが、ウンと言ってくれるまで、頭を上げません」
 竹根が狼狽する様子を感じて、「今すぐでなくてもいいですから、考えてみてください」といいながら頭を上げた。
「社長、冗談を言わないでください。私のような若造が、社長の後継者になぞ、なれるわけがないではないですか」
「超一流とは行かないが、曲がりなりにも福田商事は大会社だ。そこのエリートコースに乗っているのだから、やめる気持ちにはなれないかもしれませんが、このままではケント光学の行く末が思いやられるのです」
「私が顕微鏡のことなど全く知らないド素人であることは、社長が一番よく知っているではないですか」
「いや、短期間に竹根さんは顕微鏡のユーザーの立場をよく理解してこられた。竹根さんのレポートを時々見せてもらったが、腹が立つようなことを、ズケズケとよくも書いてきたね」
「済みませんでした。まさか、社長がごらんになるとは思ってもみず、筆の勢いに任せて書きまくってしまいました」
「おれは、そんなあんたが好きだ。福田商事だけでなく、あんたのような、実直な人は少ないよ。それに、角菊さんを相手に、言うべきことは言う、なかなかサラリーマンにはできないことだよ。無理を承知で頼んでいる。この通りだ」
 北野原はまた深々と頭を下げた。
 直視することができないほど北野原の顔は真剣であった。深刻な顔と言ってもよい。
  <続く>

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【連載小説】竹根好助の経営コンサルタント起業7章 誘惑と模索 1 五年ぶりの東京の街

2025-01-17 00:21:00 | 【連載小説】竹根好助のコンサルタント起業

  【連載小説】竹根好助の経営コンサルタント起業7章 誘惑と模索 1 五年ぶりの東京の街 

 
■ 【小説】 竹根好助の経営コンサルタント起業 
 私は、経営コンサルタント業で生涯現役を貫こうと思って、半世紀ほどになります。しかし、近年は心身ともに思う様にならなくなり、創業以来、右腕として私を支えてくれた竹根好助(たけねよしすけ)に、後継者として会社を任せて数年になります。 竹根は、業務報告に毎日のように私を訪れてくれます。二人とも下戸ですので、酒を酌み交わしながらではありませんが、昔話に時間を忘れて陥ってしまいます。
 これからコンサルタントを目指す人の参考になればと、私の友人が、書き下ろしで小説風に文章にしてくれています。 原稿ができた分を、原則として、毎週金曜日に皆様にお届けします。
【これまであらすじ】
 竹根好助は、私の会社の後継者で、ベテランの経営コンサルタントでもあります。
 その竹根が経営コンサルタントに転身する前、どのような状況で、どの様な心情で、なぜ経営コンサルタントとして再スタートを切ったのかというお話です。

 1ドルが360円の時代、すなわち1970年のことでした。入社して、まだ1年半にも満たないときに、福田商事が、アメリカ駐在事務所を開設するという重大発表がありました。
 角菊貿易事業部長の推薦する佐藤ではなく、初代駐在所長に竹根が選ばれました。それを面白く思わない人もいる中で、竹根はニューヨークに赴任します。慣れない市場、おぼつかないビジネス経験の竹根は、日常業務に加え、商社マンの業務の一つであるアテンドというなれない業務もあります。苦闘の連続の竹根には、次々と難問が押し寄せてくるのです。
 日常業務をこなしながら、アテンドという商社マンにつきものの業務を自分なりに見つめ直す竹根です。慣れないニューヨークを中心としたアメリカでのビジネスですが、時として折れそうになってしまいます。そのようなときに、若い竹根の支えとなってくれたのが、本社で竹根をフォローしてくれるかほりでした。彼女の父親は地元の名士ということから、竹根などに娘をやるわけにはいかないと厳しかったのです。かほりと竹根の努力で、結局、父親は折れざるをえず、晴れて結婚が認められました。

◆7章 誘惑と模索
 1ドル360円時代の商社マンは、「企業戦士」と言われるほど海外赴任活動は、心身共に厳しいです。たった一人でニューヨークに乗り込んだ竹根好助(たけねよしすけ)も5年の任期を終え、東京に戻れる日が来ました。
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◆7-1 五年ぶりの東京の街
 五年ぶりの東京の街は、ニューヨークに負けず劣らずクリスマスの雰囲気が盛り上がっている。東京駅から福田商事へ歩く途中、かほりと五年前に入った喫茶店ベルフワーの灯が見え、何かホッとした。後になって知ったのであるが、ベルフワーは、キキョウ科カンパニュラ属に属し、桔梗のような花の形をしたうす紫色の五弁の花びらを持つかわいい花である。花言葉は期せずして「真剣な恋」で、かほりと竹根にピッタリする花である。深く記憶に残るような恋という意味で使われる。
 竹根は、五年ぶりに東京で机に座った。新入社員も多く、浦島太郎の気分が半分わかるような気がする。かほりがいつも座っていた席には、竹根が顔は覚えているが、名前が出てこない女性が座っていた。かほりでないのが、何となく違和感として竹根にまとわりついた。
 いつの間にか、その女性が竹根の机のところに来て、「加丘です。アメリカのことをいろいろと教えてくださり、ありがとうございました。相本さん・・・奥様の後を引き継がせていただいてから、仕事が楽しくなりました。それも竹根さんのおかげです。あい・・・奥様は、幸運な方ですね」
「ああ、加丘さん、いろいろとお世話になりました。おかげさまで、妻がニューヨークに来てからは、それまで以上に面倒を見てくださり、本当に助かりました」
「いいえ、奥様が有能な方でしたので、私では至らないことばかり。ご迷惑でしたでしょ」
「そんなことはありませんよ」
「これからは、奥様の代わりに何かできることがありましたら、おっしゃってください」
「それはありがとう。でも、事業部長の秘書に仕事を頼むわけにはいきませんね。その代わり、わからないことがあったら教えてください。何しろ、浦島太郎ですから」
「ええ、もちろんです。何でもおっしゃってください。お礼が遅くなりましたが、皆にお土産をありがとうございました。皆喜んでいました」
「妻に任せっきりで・・・皆さんが喜んでくれたと、妻に伝えます」
 加丘は、席に戻った。
――そうか、彼女が加丘さんなのだ――竹根は、ようやく名前と顔が一致し、妻のかほりの後釜として数々の連絡手紙のことが昨日のように思い出された。
  <続く>

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【連載小説】竹根好助の経営コンサルタント起業6章 苦悩 11 充実した日々

2025-01-10 09:57:46 | 【連載小説】竹根好助のコンサルタント起業

  【連載小説】竹根好助の経営コンサルタント起業6章 苦悩 11 充実した日々 

 
■ 【小説】 竹根好助の経営コンサルタント起業 
 私は、経営コンサルタント業で生涯現役を貫こうと思って、半世紀ほどになります。しかし、近年は心身ともに思う様にならなくなり、創業以来、右腕として私を支えてくれた竹根好助(たけねよしすけ)に、後継者として会社を任せて数年になります。 竹根は、業務報告に毎日のように私を訪れてくれます。二人とも下戸ですので、酒を酌み交わしながらではありませんが、昔話に時間を忘れて陥ってしまいます。
 これからコンサルタントを目指す人の参考になればと、私の友人が、書き下ろしで小説風に文章にしてくれています。 原稿ができた分を、原則として、毎週金曜日に皆様にお届けします。
【これまであらすじ】
 竹根好助は、私の会社の後継者で、ベテランの経営コンサルタントでもあります。
 その竹根が経営コンサルタントに転身する前、どのような状況で、どの様な心情で、なぜ経営コンサルタントとして再スタートを切ったのかというお話です。

 1ドルが360円の時代、すなわち1970年のことでした。入社して、まだ1年半にも満たないときに、福田商事が、アメリカ駐在事務所を開設するという重大発表がありました。
 角菊貿易事業部長の推薦する佐藤ではなく、初代駐在所長に竹根が選ばれました。それを面白く思わない人もいる中で、竹根はニューヨークに赴任します。慣れない市場、おぼつかないビジネス経験の竹根は、日常業務に加え、商社マンの業務の一つであるアテンドというなれない業務もあります。苦闘の連続の竹根には、次々と難問が押し寄せてくるのです。
 日常業務をこなしながら、アテンドという商社マンにつきものの業務を自分なりに見つめ直す竹根です。慣れないニューヨークを中心としたアメリカでのビジネスですが、時として折れそうになってしまいます。そのようなときに、若い竹根の支えとなってくれるのが、本社で竹根をフォローしてくれるかほりで、実務支援だけではなく、存在の有り難さに感謝を竹根です。

◆6章 苦悩
 商社マンは、商品を輸出すれば良い、というのが、それまでの商社の生き方でした。はたしてそれで良いのか、疑問に纏われながらの竹根好助でした。その竹根が、何とか現状で仕事をしながら活路を見いだそうと考えていました。
 しかし、問題は、そんなに簡単なものではなく、苦悩する竹根です。
  ※ 直前号をお読みくださるとストーリーが続きます。
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◆6-11 充実した日々
 かほりと電話で話をできて、あきらめかけていた二人の間が急に温かいものになってきた。
 竹根は、仕事に、大学院の予習と復習に、今まで以上に身が入っている自分をうれしく思った。充実した日々のことを、毎夜かほりに手紙としてしたためた。かほりからも毎日のように、時には、重なって二通来る日もあった。そんなときにはうれしさが何倍かになる一方、翌日は、かほりから手紙が来ないことがわかっていながら、ときめきを持ってポストを開ける。
 かほりの手紙から、かほりが毎日仕事が終わると千葉の実家に行き、父親を口説いたことがわかった。頑固なかほりの父親は、かほりを勘当するとまでいい、かほりが出社した後、先日の竹根への最後通牒の電話をかほりの父親がしてきたこともわかった。
 勘当されたのだから、あとは竹根のもとに飛ぶしか自分の行くところはないと考えて、竹根に半月ぶりに手紙を書いてきたというのである。ようやく、竹根には、これまで手紙もなく、いきなり父親から電話があり、香りのする手紙が届くまでの経緯がわかった。
 竹根は、「自分に任せろ」という内容の手紙を、会社にいるかほりに電話したすぐあとに送った。それをかほりが受け取ったのは四日後であったが、かほりは次第に竹根の夫となることの自覚を持ち始めた。
 かほりは、竹根からの手紙を見せたことで、「第一関門の母親の了解も取れた」ということを伝えてきた。かほり自身も、自分の進むべき道が着実に拓かれ始めたことを実感できるようになってきた。
 戦後、二十歳そこそこで未亡人になってから、結婚もせず一人で育ててきた竹根の母は、かほりに優しい言葉の電話をした。
 それだけではなく、土地の権力者という、誰もがあまり近づかないかほりの父親を、怖いもの知らずで訪問して、説教をしたという。相手が、首を縦に振らないことがわかると「とにかく、竹根に籍を入れます」ときっぱりと言って帰ってきた。
 竹根が、それを知ったのは、会社のかほりに電話をしてから一週間後のことである。
 かくして、籍が入ったかほりは、会社でも皆から祝福され、ニューヨークに来ることになり、会社からは秘書として仕事をするように辞令が出た。三ヶ月後には、竹根は出張の時以外は、かほりと肩を並べて通勤することになっていた。
 竹根にとって、本社へのレポート、かほりへの手紙を書き続けたことで、ペンだこを育てるだけではなく、後に経営コンサルタントとしての仕事に重要な、文書での表現力がここでも培われた。
 駐在員事務所は、ニューヨーク法人となったが、相変わらず、日本からはアメリカ詣でがつづいた。一九七〇年代、海外で活躍する人たちは「企業戦士」と言われ、竹根も立派な企業戦士の一人となり、仕事も順調に進んだ。とりわけ、福田商事が開発した、日本で初めてのIC電卓は、アメリカでも順調に売れた。竹根が渡米して三年目には、めでたく大学院も卒業できた。
 長女も生まれた。アメリカで生まれたことにちなみ、「由紗里」と命名した。アメリカ、すなわちUSAは、「ゆさ」と読める。「アメリカが里」であるという意味である。
 丸五年のアメリカでの任期を終え、多くの経験、とりわけ、多くの中小企業の経営者・管理職と出会えた経験を持って、東京本社に帰任した。竹根にとって、もっとも大きな収穫は、かほりという人生のパートナーを得られたことである。
  <続く>

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【連載小説】竹根好助の経営コンサルタント起業6章 苦悩 9 懐かしい香りの便り

2024-12-20 12:21:00 | 【連載小説】竹根好助のコンサルタント起業

  【連載小説】竹根好助の経営コンサルタント起業6章 苦悩 9 懐かしい香りの便り 

 
■ 【小説】 竹根好助の経営コンサルタント起業 
 私は、経営コンサルタント業で生涯現役を貫こうと思って、半世紀ほどになります。しかし、近年は心身ともに思う様にならなくなり、創業以来、右腕として私を支えてくれた竹根好助(たけねよしすけ)に、後継者として会社を任せて数年になります。 竹根は、業務報告に毎日のように私を訪れてくれます。二人とも下戸ですので、酒を酌み交わしながらではありませんが、昔話に時間を忘れて陥ってしまいます。
 これからコンサルタントを目指す人の参考になればと、私の友人が、書き下ろしで小説風に文章にしてくれています。 原稿ができた分を、原則として、毎週金曜日に皆様にお届けします。
【これまであらすじ】
 竹根好助は、私の会社の後継者で、ベテランの経営コンサルタントでもあります。
 その竹根が経営コンサルタントに転身する前、どのような状況で、どの様な心情で、なぜ経営コンサルタントとして再スタートを切ったのかというお話です。

 1ドルが360円の時代、すなわち1970年のことでした。入社して、まだ1年半にも満たないときに、福田商事が、アメリカ駐在事務所を開設するという重大発表がありました。
 角菊貿易事業部長の推薦する佐藤ではなく、初代駐在所長に竹根が選ばれました。それを面白く思わない人もいる中で、竹根はニューヨークに赴任します。慣れない市場、おぼつかないビジネス経験の竹根は、日常業務に加え、商社マンの業務の一つであるアテンドというなれない業務もあります。苦闘の連続の竹根には、次々と難問が押し寄せてくるのです。
 日常業務をこなしながら、アテンドという商社マンにつきものの業務を自分なりに見つめ直す竹根です。慣れないニューヨークを中心としたアメリカでのビジネスですが、時として折れそうになってしまいます。そのようなときに、若い竹根の支えとなってくれるのが、本社で竹根をフォローしてくれるかほりで、実務支援だけではなく、存在の有り難さに感謝を竹根です。

◆6章 苦悩
 商社マンは、商品を輸出すれば良い、というのが、それまでの商社の生き方でした。はたしてそれで良いのか、疑問に纏われながらの竹根好助でした。その竹根が、何とか現状で仕事をしながら活路を見いだそうと考えていました。
 しかし、問題は、そんなに簡単なものではなく、苦悩する竹根です。
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◆6-9 懐かしい香りの便り
 かほりとの手紙のやりとりが中断して、まだ、それほど日にちは経っていないに、何か月も経ったような思いの竹根である。
 帰宅して、いつものように玄関を入って、郵便箱の鍵を取り出そうとポケットに手を入れた時に、何となくなじみのある香りがした。周りを見まわしたが女性がいるわけでもなく、一瞬のことで、何の香りかわからず、気のせいのようにも思えた。鍵を差し込んで、ポストのドアを開けようとすると、かすかながら確かになじみの香りがする。庭に植えられた四季咲きのバラかと思ったが、それとも違う、懐かしさを感じさせる香りである。
 ポストを開けると、その香りが顔を包み込んだ。一通の見慣れた封筒から香りがこもれ出ていて、ポストを開けた瞬間それが竹根の顔をめがけて、香りのキッスを繰り返したのだ。すぐにかほりからのものとわかると、あきらめたはずの決心が、その香りで吹き飛ばされてしまった。
 封筒を掴むと、一目散に二階の自室に駆け上がった。アパートの鍵を開けようとするが、手が震えて、なかなか刺さらない。もどかしさに、普通ならイライラするところを、なぜかきもちははやるが、そのようないらつきではなく、ときめきという表現に近い。
 いつもの竹根なら丁寧に開封するのに、乱暴に封を切った。かほりの香りが部屋中に広がる様が見えるようだ。その広がりを見るよりも、早く手紙を読みたい。
――好助様
 ここのところ、お手紙もなく、部屋が凍り付いた毎日です。
 私が手紙を出さない報いなので仕方がありませんね。
 今日、父が好助さんに電話をしたと電話で言ってきました。父の失礼な言葉をお許しください。
 私は、決心をしました。あなたについて行きます――
 そこまで読んでから、玄関の横にあるいすに腰を下ろしてから、またはじめから読み返した。歓天喜地(かんてんぎち)の竹根である。その言葉通り、天に向かって大声を上げて叫びたい、地に対して多いに喜びたい心地である。
――父の言葉を聞いていて、私は決めたのです。会社を辞め、アパートを引き払って、できるだけ早くあなたのところに飛んでいきます――
 竹根は、先を急いだ。そこからは、最後まで一気に読んだ。
――あの温和しいかほりさんが、なんと激しいことを・・・父親の反対を押し切ってでも自分のところに来るという・・・そんなかほりさんをあきらめようとした自分が恥ずかしい――
 竹根は、それから何度も何度も手紙を読んだ、そらんじて言えるくらい、かほりの香りに包まれながら、三枚に渡るかほりの手紙を読んだ。
  <続く>

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【小説】竹根好助の経営コンサルタント起業6章 苦悩 8 あきらめるべきか、強行すべきか、それが問題だ

2024-12-13 07:15:36 | 【連載小説】竹根好助のコンサルタント起業

  【小説】竹根好助の経営コンサルタント起業6章 苦悩 8 あきらめるべきか、強行すべきか、それが問題だ 

 
■ 【小説】 竹根好助の経営コンサルタント起業 
 私は、経営コンサルタント業で生涯現役を貫こうと思って、半世紀ほどになります。しかし、近年は心身ともに思う様にならなくなり、創業以来、右腕として私を支えてくれた竹根好助(たけねよしすけ)に、後継者として会社を任せて数年になります。 竹根は、業務報告に毎日のように私を訪れてくれます。二人とも下戸ですので、酒を酌み交わしながらではありませんが、昔話に時間を忘れて陥ってしまいます。
 これからコンサルタントを目指す人の参考になればと、私の友人が、書き下ろしで小説風に文章にしてくれています。 原稿ができた分を、原則として、毎週金曜日に皆様にお届けします。
【これまであらすじ】
 竹根好助は、私の会社の後継者で、ベテランの経営コンサルタントでもあります。
 その竹根が経営コンサルタントに転身する前、どのような状況で、どの様な心情で、なぜ経営コンサルタントとして再スタートを切ったのかというお話です。

 1ドルが360円の時代、すなわち1970年のことでした。入社して、まだ1年半にも満たないときに、福田商事が、アメリカ駐在事務所を開設するという重大発表がありました。
 角菊貿易事業部長の推薦する佐藤ではなく、初代駐在所長に竹根が選ばれました。それを面白く思わない人もいる中で、竹根はニューヨークに赴任します。慣れない市場、おぼつかないビジネス経験の竹根は、日常業務に加え、商社マンの業務の一つであるアテンドというなれない業務もあります。苦闘の連続の竹根には、次々と難問が押し寄せてくるのです。
 日常業務をこなしながら、アテンドという商社マンにつきものの業務を自分なりに見つめ直す竹根です。慣れないニューヨークを中心としたアメリカでのビジネスですが、時として折れそうになってしまいます。そのようなときに、若い竹根の支えとなってくれるのが、本社で竹根をフォローしてくれるかほりで、実務支援だけではなく、存在の有り難さに感謝を竹根です。

◆6章 苦悩
 商社マンは、商品を輸出すれば良い、というのが、それまでの商社の生き方でした。はたしてそれで良いのか、疑問に纏われながらの竹根好助でした。その竹根が、何とか現状で仕事をしながら活路を見いだそうと考えていました。
 しかし、問題は、そんなに簡単なものではなく、苦悩する竹根です。
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◆6-8 あきらめるべきか、強行すべきか、それが問題だ
 かほりの父親からの電話で、かほりをあきらめるべきなのか、それとも、自分の選んだ人との人生を考えるべきか・・・
 右に振れたり、左に振れたりと振り子のように揺れているうちに、次第に振幅は小さくなり、かほりをあきらめるところで止まりそうで止まらない。「熟慮断行の時が来た」という声が遠くに聞こえたような気がする。
 窓に指す陽に目が覚めた。振り子はあきらめのポジションで揺れるのをやめたのである。かほりのことで吹っ切れた竹根は、歩く足が軽く感じられた。本社からの手紙を見るとこれまではすぐにかほりとのひとときを思いだすが、その日はいつもほどではない自分をみた。一度決断すると切り替えが速いのが竹根の長所の一つでもある。
――俺は、こうして成長して行くんだ――
 忙しい一週間がまた始まった。その週は、近場での仕事が中心となるスケジュールである。市内の顧客を訪問したり、隣接する地域や隣のニュージャージーへも足を伸ばした。セントラルパークの西側にあるコロンビア大学の北にあるジョージワシントン橋を渡ったニュージャージー側は緑も多く、そこからのマンハッタンの景色は、摩天楼が林立する南側とはまた違った落ち着きのある雰囲気で、それが竹根は好きである。
 車で来た人がマンハッタンをゆっくりと見られるように、小さな展望スペースが設けられている。小さな公園風に仕立ててある。日本では、このようなところには税金を投じることがないのだろう。社会資本の違いもカルチャーショックの一つである。暮れなずむ夕日に、そこから見るジョージワシントン橋が光っている。橋の上で、帰宅する車のヘッドライトが、マンハッタンに向かうバックライトの赤よりも多い時間帯になった。
 アパートにたどり着いた時は、夜のとばりが降り始まめていた。竹根が住むアパートは、空から見た全体がU字型をしていて、通りに面した側に門がある。中庭には、季節の花が植えられ、中央には、煉瓦造りの守衛小屋がある。ライトアップをされている様は、メルヘンを感じさせる。中から管理人をしている黒人のジョーが白い掌を上げた。オールド・ブラック・ジョーというあだ名を竹根はつけている。
  <続く>

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