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■【きょうの人】 0331 性空 平安中期の天台宗の僧 圓教寺を創建

2021-03-31 08:46:00 | 【話材】 きょうの人03月

■【きょうの人】 0331 性空 平安中期の天台宗の僧 圓教寺を創建

 独善的な判断で、気になる人を選んでご紹介しています。

 そこに歴史や思想、人物、生き方などを感じ取って、日々の生活やビジネスに活かしてくださると幸いです。

 

■ 性空 平安中期の天台宗の僧 圓教寺を創建

 しょうくう
 延喜10年(910年)-- 寛弘4年3月10日(1007年3月31日)

 性空は、平安時代中期、京都に生まれた天台宗の僧で、俗名は「橘善行」といいます。

 36歳の折、比叡山で慈恵大師(元三大師)良源に師事して出家しました。霧島山や筑前国脊振山で修行し、966年(康保3年)播磨国書写山に入山し、西国三十三所霊場の一つであります圓教寺を創建しました。

 そのことから「書写上人」とも呼ばれます。圓教寺には、肖像彫刻・性空像(重要文化財)があります。

 山岳仏教を背景とする聖(ひじり)の系統に属する法華経持経者としても知られています。1007年(寛弘4年)、播磨国弥勒寺で98歳で亡くなりました。一説により増すと80歳ともいわれています。

 

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 歴史上で活躍したり、仏教など宗教関係の人であったり、ジャンルはいろいろですが、彼等から、学ぶところが多々ありますので、それをご紹介します。

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■【きょうの人】 0330 白隠慧鶴 臨済宗中興の祖  本日、ゆかりの人

2021-03-30 08:46:00 | 【話材】 きょうの人03月

■【きょうの人】 0330 白隠慧鶴 臨済宗中興の祖

 本日、ゆかりの人をご紹介します。

 そこに歴史や思想、人物、生き方などを感じ取っていただけると幸いです。

 

■ 白隠慧鶴 臨済宗中興の祖

 はくいん えかく
 1686年1月19日(貞享2年12月25日)-1769年1月18日(明和5年12月11日)
 諡は神機独妙禅師、正宗国師

 白隠は、臨済宗中興の祖といわれる江戸時代中期の禅僧です。

 駿河国原宿(現・静岡県沼津市原)にあった長沢家の三男として生まれ、15歳で出家して諸国を行脚して修行を重ねました。

 禅修行のやり過ぎで禅病となりましたが、白幽子という仙人より「内観の秘法」を授かって回復したといわれています。

 42歳の時に、コオロギの声を聴いて仏法の悟りを完成しました。この経験から禅を行うと起こる禅病を治す治療法を考案し、多くの若い修行僧を救ったそうです。

 他の宗門を兼ねて修道すべきではないと戒めています。これは他の宗門を排除するためではなく、それぞれの宗門を修めることがそれぞれに成道することに繋がると捉えているからです。

 

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■【きょうの人】 0329 鈴木 三郎助(二代目) 味の素で成功

2021-03-29 08:46:00 | 【話材】 きょうの人03月

■【きょうの人】 0329 鈴木 三郎助(二代目) 味の素で成功

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■ 鈴木 三郎助(二代目) 味の素で成功


 すずき さぶろうすけ
 1868年1月21日(慶応3年12月27日)-- 1931年3月29日

 日本の実業家で、味の素の創設者です。

 明治17年(1884年)18歳で2代目三郎助を襲名、呉服商辻井家の次女テルを妻に迎えますが、三郎助の商売は当初は順調でしたが、次第に資金繰りに躓き、それを埋めるために米相場に手を染めていました。

 商売を、かじめ焼きに代えましたが、国内で生産過剰となったヨード製品に目を付けます。かじめ焼きが輸出され、日露戦争で需要が高まり、莫大な利益を上げました。

 明治41年(1908年)、東京帝国大学の池田菊苗がグルタミン酸を主要成分とする調味料の製造方法を発明し、特許が認められました。鈴木は知己を通じて開発中から池田博士と面談して、この特許の実施契約を得ました。

 弟に研究を任せ、はじめはうまく行かなかった味の素ですが、それが市場に受け入れられ、今日の味の素社の基礎を築くことができました。

 

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■【きょうの人】 0328 微妙大師授翁宗弼 建武の中興で後醍醐天皇を諫めた人

2021-03-28 08:46:00 | 【話材】 きょうの人03月

■【きょうの人】 0328 微妙大師授翁宗弼 建武の中興で後醍醐天皇を諫めた人

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■ 微妙大師授翁宗弼 建武の中興で後醍醐天皇を諫めた人


 びみょうだいし じゅおうそうひつ
 永仁4年(1296年)- 康暦2年/天授6年3月28日(1380年5月3日)

  鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての臨済宗の僧で、諱は、後醍醐天皇から授かった宗弼、39歳で出家し、字は授翁です。諡号は、円鑑国師、微妙大師です。父は南朝忠臣藤原宣房で、宗弼は、万里小路藤房と同一人物とする説もあります。

 建武の新政の際には、後醍醐天皇を諫めたが受け入れられず、ひそかに洛北岩倉で不二大徳に支持して得度しました。20年間隠遁した後、京都妙心寺の関山慧玄に参禅して、その法を継ぎ、妙心寺2世となりました。


 宗弼は、客観的なものの見方をすることができる人だったようで、後醍醐天皇による建武の新政における考え方に危機感を持ちました。天皇を諫めましたが、聴く耳を持たなかったようで、足利尊氏が離反するなど、人心掌握力にも欠けていたようです。

 ビジネスパーソンが、変革など、何か、ことを起こそうというときには、周到なる準備が必要です。また、周囲の人間をキチンと掌握していませんと、離反者が出てしまいます。一人離反者が出ますと、離反する人が続出してしまう懸念がありますので、離反者が出ないように、心する必要があります。

 起こそうとするコンサルタントデプトは何かを、明確にし、それを関係者に周知徹底する必要があります。

 

【妙心寺サイト】 http://www.myoshinji.or.jp/index.html


 正法山妙心寺は臨済宗妙心寺派の本山です。

 インドの達磨大師さまから中国の臨済禅師さまを経て、妙心寺開山無相大師さまへと受け嗣がれてきた一流の禅を宗旨・教義としています。

 1337年、95代の花園法皇さまの勅願によって創建された妙心寺の開山、無相大師さまの法流は四派に分かれ、全国3400ヶ寺に広がっています。

 お釈迦さまを大恩教主と尊崇し、その教えを心にいただく禅の安心を求めます。

 開山無相大師さまの最期の教え「請う、其の本を務めよ」と開基花園法皇さまの「報恩謝徳」の聖旨による仏法興隆を実践します。

 自身仏を信じて坐禅に励み、足下を照顧しながら生かされている自分を感謝して、社会を心の花園と念じ和やかな人生を目指します。

 

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■【きょうの人】 0327 ■ 千利休 もともとは商人でした ■ 大塩 平八郎 義憤に駆られて乱を起こす

2021-03-28 07:30:32 | 【話材】 きょうの人03月

■【きょうの人】 0327 ■ 千利休 もともとは商人でした ■ 大塩 平八郎 義憤に駆られて乱を起こす

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■ 千利休 もともとは商人でした


 せん の りきゅう、せん りきゅう
 大永2年(1522年)-天正19年2月28日(1591年4月21日)

 戦国時代から安土桃山時代にかけての商人で、むしろ茶人として広く知られています。

 わび茶(草庵の茶)の完成者として知られ、「茶聖」とも呼ばれています。また、今井宗久や津田宗及とともに、茶湯の天下三宗匠と称せられます。

「利休七哲」に代表される数多くの弟子を持ち、その子孫は、茶道の三千家として続いています。

 豊臣秀吉の側近でもあり、茶道を通じて多くの大名にも影響力をもったといわれていますが、秀吉との関係に不和が生じ、最後は切腹へと追い込まれたことはよく知られています。

 不和の真相については諸説があり、定説はないようです。


 茶道を嗜む人でなくても利休を知らない人はいないでしょう。お恥ずかしながら私は、コーヒーショップで「お茶」はしますが、茶道の「茶」はしません。でも、時々妻が茶を入れてくれますが、何かホッとします。やはり、日本人なのでしょうか。

 

■ 大塩 平八郎 義憤に駆られて乱を起こす


 おおしお へいはちろう
 寛政5年1月22日(1793年3月4日)-天保8年3月27日(1837年5月1日)

 江戸時代後期の儒学者、大坂町奉行組与力で、大塩平八郎の乱を起こしました。

 通称は、平八郎、諱は正高、のち後素(こうそ)、字は子起、号は中斎です。

 揚羽の家紋を持ちます大塩家は、今川氏の末流で、代々大坂東町奉行組与力を務めていました。平八郎は初代の大塩六兵衛成一から数えて8代目にあたります。

 大塩平八郎の欄を蜂起する前年の天保7年(1836年)秋、米価高などの影響で、甲斐国「天保騒動(郡内騒動)」や、三河国挙母藩の「加茂一揆」などの大騒動が各地で発生しました。

 各地で不穏な動きが出て、砲術を中心とする軍事訓練が開始されました。

 大潮は、蔵書を処分するなどして私財をなげうって、救済活動を行います。しかし、もはや武装蜂起によって奉行らを討ち、豪商を焼き討ちして灸をすえる以外に根本的解決は望めないと考えました。

 天保8年に門人、民衆と共に蜂起します。大塩平八郎の乱です。腐敗した役人にも目をつぶることができなかったのでしょう。

 しかし、同心の門人数人の密告によって事前に大坂町奉行所の知るところとなり、蜂起は不発に終わりました。

 その後、一旦は、逃げ延びましたが、告発により、再び窮地に追いやられ短刀と火薬を用いて自決することになりました。享年45でした。

 

 

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■【きょうの人】 0326 真盛上人 天台真盛宗の宗祖ですから偉いお坊様なのですね

2021-03-26 08:46:00 | 【話材】 きょうの人03月

■【きょうの人】 0326 真盛上人 天台真盛宗の宗祖ですから偉いお坊様なのですね

 本日、ゆかりの人をご紹介します。

 そこに歴史や思想、人物、生き方などを感じ取っていただけると幸いです。

 

 真盛上人

 しんせい
 嘉吉3年1月28日(1443年2月27日) - 明応4年2月30日(1495年3月26日)
 諡号は円戒国師・慈摂大師

 戦国時代の天台宗の僧で、伊勢に生まれました。天台宗真盛派(現在の天台真盛宗)の宗祖です。

 一四歳で剃髪し、幼名から「眞盛」と名を改めました。

 比叡山西塔の慶秀に師事し、天台宗の教学を20余年にわたって学びました。その後、黒谷青龍寺に隠遁し、「往生要集」に拠り称名念仏を唱えました。戒律と称名念仏の一致、無欲と慈悲などを説きました。

 かつて良源や源信などが住み、円観が円頓戒の本寺としたこともある近江国坂本の西教寺を再興して、天台宗真盛派の本寺としました。

 近江・伊勢・越前を巡錫(じゅんしゃく)し、後土御門帝に円頓戒を授け「円戒国師」の号を下賜されました。また、明治天皇より「慈摂大師」の号も賜っています。

 

 

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■【きょうの人】 0325 平 将門  将門の乱で東国独立を目指す

2021-03-25 08:46:00 | 【話材】 きょうの人03月

■【きょうの人】 0325 平 将門  将門の乱で東国独立を目指す

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■ 平 将門  将門の乱で東国独立を目指す


 たいら の まさかど、-將門
 生誕不詳 - 天慶3年2月14日(940年3月25日)

 平安時代中期の関東の豪族で、平氏の姓を授けられた高望王の三男平良将の子です。第50代桓武天皇の5世の子孫という血筋です。

 下総国、常陸国に広がった平氏一族の抗争から、やがては関東諸国を巻き込む争いへと広がりますと、国府を襲撃して印鑰を奪います。京都の朝廷 朱雀天皇に対抗して「新皇」を自称し、東国の独立を標榜したことによって、遂には朝敵となってしまいました。平将門の乱です。

 しかし即位後わずか2か月たらずで藤原秀郷、平貞盛らにより討伐されました。(承平天慶の乱)。

 死後は、御首神社や神田明神などに祀られます。

 「最初の武士」という人もいます。

 

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■【きょうの人】 0324 ■ ある女性社長の会社 ■ 西郷 頼母 幕末の合図藩家老

2021-03-24 08:46:00 | 【話材】 きょうの人03月

■【きょうの人】 0324 ■ ある女性社長の会社  ■ 西郷 頼母 幕末の合図藩家老

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■ ある女性社長の会社 


 横浜市の郊外にある会社を訪問しました。社長さん以下従業員は全員女性です。私が訪問する相手は、その会社の社長さんですが、玄関にわざわざ出迎えに来てくれました。

 私が入室するとそこにいた全社員十数人が一斉に起立して私に挨拶をしてくれました。これまでたくさんの企業を訪問しましたが、廊下ですれ違ったり、視線が合ったりすると黙礼をするなどの挨拶を受けることがありましたが、このようなことははじめての経験です。

 幸い頼み事はスムーズに進み、社員の方々の気持ちよい応対で気分良く協会事務所に戻ることができました。

 

■ 西郷 頼母 幕末の合図藩家老


 さいごう たのも
 文政13年閏3月24日(1830年5月16日) - 明治36年(1903年)4月28日)

 江戸時代後期(幕末)の会津藩の家老で、諱は近悳(ちかのり)です。明治維新後は、保科 頼母(ほしな たのも)と改名し、号を栖雲、または酔月とし、晩年は八握髯翁とも号しました。

 会津藩家老・西郷近思の子として生まれました。会津藩の家老は世襲制で、身分意識が強く、会津の名門九家の門閥しか家老に就くことが許されませんでした。また、「ならぬものはならぬのです」という教えによって、身分が低くても優秀であれば出世できるということが許されなかったのです。

 万延元年(1860年)、家督と家老職(家禄1,700石)を継いで藩主・松平容保に仕えました。

 藩の請け負った京都守護の責務に対して否定的な姿勢を覆さず、隆盛の怒りを買っています。また、禁門の変が起きる直前に上京して藩士たちに帰国を説くなど、隆盛の考え方の異なるところが多かったようです。

 戊辰戦争の後の新政府から、頼母等の初景を命ぜられますと、反旗を翻し、結局新政府軍に囲まれてしまいました。

 会津から逃げ延びて以降、榎本武揚や土方歳三と合流して箱館戦線で江差まで戦い続けましたが、旧幕府軍が降伏すると箱館で捕らえられ、館林藩預け置きとなりました。

 明治36年(1903年)に会津若松の十軒長屋で、74歳で死去、墓所は妻・千重子の墓とともに、会津の善龍寺にあります。

 

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■【きょうの人】 0323 ■ 北大路 魯山人 いろいろな顔を持つ気むずかしい芸術家 ■ 西行 歌人としてだけではなく鳥羽院の北面武士でもあった

2021-03-23 08:46:00 | 【話材】 きょうの人03月

■【きょうの人】 0323 ■ 北大路 魯山人 いろいろな顔を持つ気むずかしい芸術家 ■ 西行 歌人としてだけではなく鳥羽院の北面武士でもあった

 本日、ゆかりの人をご紹介します。

 そこに歴史や思想、人物、生き方などを感じ取っていただけると幸いです。

 

■ 西行(さいぎょう) 歌人としてだけではなく鳥羽院の北面武士でもあった

 2012年NHK大河ドラマ「平清盛」で清盛の友人として俗名佐藤義清(さとうのりきよ)として、西行が登場しました。鳥羽院の北面武士として奉仕していたので、清盛との交流もあったでしょうが、現実にはその期間も短かったようで、清盛と昵懇にしていたという記録は定かではないようです。

 和歌に通じた人として知られていました、保延6年(1140年)23歳で出家して一時は円位を名のっていました。

 出家後は心のおもむくままの生活をし、あちこちに庵を持ちました。また弘法大師の遺跡巡礼も兼ねて諸国を巡る漂泊の旅にも出ました。日本各地に、多くの和歌を残しています。

 しきたりや伝統にとらわれず個性の歌人という説があるが、正しい見方ではないようです。院政期の歌風醸成の一人で、藤原俊成とともに「千載集」の中の一人として見るべき人のようです。

 東大寺再建の勧進のために奥州藤原氏を訪れる途上で、鎌倉に立ち寄り源頼朝に面会したことが『吾妻鏡』に記されています。

 享年73歳、文治6年2月16日(1190年3月23日)没。

【Wikipedia】 西行(さいぎょう)
 元永元年(1118年) - 文治6年2月16日(1190年3月23日)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武士・僧侶・歌人。 父は左衛門尉・佐藤康清、母は監物・源清経女。同母兄弟に仲清があり、子に隆聖、女子(単に西行の娘と呼ばれる)がある。俗名は佐藤 義清(さとう のりきよ)。憲清、則清、範清とも記される。出家して法号は円位、のちに西行、大本房、大宝房、大法房とも称す。
 勅撰集では『詞花集』に初出(1首)。『千載集』に18首、『新古今集』に94首(入撰数第1位)をはじめとして二十一代集に計265首が入撰。家集に『山家集』(六家集の一)『山家心中集』(自撰)『聞書集』、その逸話や伝説を集めた説話集に『撰集抄』『西行物語』があり、『撰集抄』については作者と目される。

 

■ 北大路 魯山人 いろいろな顔を持つ気むずかしい芸術家

 きたおおじ ろさんじん
 1883年(明治16年)3月23日 - 1959年(昭和34年)12月21日

 篆刻家・画家・陶芸家・書道家・漆芸家・料理家・美食家などの様々な顔を持つ、日本の芸術家で、本名は、北大路 房次郎(きたおおじ ふさじろう)といいます。

 魯山人は、母の不貞によりできた子で、父は割腹自殺、生後すぐに里子に出され、養家を転々としました。この鬱屈は、終生払われることはなく、人格形成に深甚な影響を及ぼしたといわれています。

 傲岸(ごうがん)・不遜・狷介(けんかい)・虚栄などの悪評がつきまとい、毒舌でも有名で、横山大観をはじめとする戦前を代表する芸術家・批評家などを容赦なく罵倒しました。

 いっぽうで、その天衣無縫ぶりは、吉田茂などから愛されるという人物でもありました。

 その気難さは、お手伝いさん曰く「風呂から上がると、決まった時間にキンキンに冷えたビールがさっと出てこないと満足できない方だった。それが出来ずに叱られ、辞めていったお手伝いさんを何人も見た」という話も残っているほどです。

 

 

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■【きょうの人】 0322 鉄眼道光 江戸時代前期の黄檗宗の禅僧

2021-03-22 08:46:00 | 【話材】 きょうの人03月

■【きょうの人】 0322 鉄眼道光 江戸時代前期の黄檗宗の禅僧

 本日、ゆかりの人をご紹介します。

 そこに歴史や思想、人物、生き方などを感じ取っていただけると幸いです。

 

■ 鉄眼道光 322

 正字: 鐵眼道光(てつげん どうこう)
 寛永7年1月1日(1630年2月12日) - 天和2年3月22日(20日説あり)(1682年4月27日)

 江戸時代前期の黄檗宗の禅僧、諡号は宝蔵国師。

 肥後国益城郡守山村(現・熊本県宇城市)に生まれ、13歳で出家しました。明暦元年、隠元や木菴に学びました。

 大蔵経の観光のために全国行脚を行い、1678年(延宝6年)に完成しました。宇治黄檗山に宝蔵院を建てて、その木版を貯蔵しました。

 その後、金禅寺(大阪府)、海蔵寺(東京都)など7か寺を開くなどの功績もあります。

 

 

◆ バックナンバー

  https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/c/b57a13cf0fc1c961c4f6eb02c2b84c9f

 

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