おじいちゃんの小さな疑問集(旧:おもりぽ)

「おじいちゃんがふと抱いた小さな疑問」を、載せさせていただきます。答えや共感や異論があればぜひコメントを!

こぉんなバイトがあったぞ!リポート.6の③

2007年09月12日 | Weblog
【学習塾講師.その③】

 学習塾講師についてのコメントの、3回目です。

 結局、大学2年から4年卒業までの3年弱、この塾での講師のバイトを続けました。4年の時は1曜日で、しかも遅い時間の中学生だけにさせてもらったわけですけど。進学塾ではなかったので、小・中学校が休みの期間は、短い夏季講習などをのぞいては休みが取れるこのバイトはとても都合がよかった。

 だから大学生生活の中で、このバイトは結構大きな比重を占めていました。特に収入面で、毎月定期的な収入が得られることは、とても助かりました。当時ぼくは、親からの仕送りと、奨学金と、このバイト代という、月3回の定期収入で暮らしていたことになります。

 月3回の収入と言うと羽振りが良さそうに聞こえますが、実態はまさに逆でした。月3回に分かれて収入があるということは、その前に月3回、金欠のピンチが襲ってくるということです。もともと計画的な性格とは言えないうえに、いい加減な生活ぶりの学生です。

 お金が入ると、食いたかった物を食ったり、誘われるままに飲みに行ったり、欲しかった本などを勝ったり。結果、次の収入が入るまでまだ3日も4日もあるのに、手元にはもう千円しかありません!などという状況が、めまぐるしく繰り返されるわけであります。

 話しが逸れたので、戻します。3年弱の塾講師期間のなかで、印象が強かったことを3つだけ紹介します。1つは、自分が行うはずの授業をできなかったことが、1度だけあったことです。

 これは、オートバイのツーリングで静岡に行っていて、昼には帰着して夕方からの授業に臨むはずだったのに、帰着が大幅に遅れてぎりぎりに教室に駆け込みました。しかし、東名高速や高速降りてからの渋滞の道を、肝を冷やしながらスッ飛ばしてきた疲れで、1コマ目は何とかこなしたものの、2コマ目を前にメマイを起こしてしまいました。

 さすがに、「ツーリングで帰る際の、渋滞を考慮しなかった時間の読み違いでの疲労」とは言えず。良心の呵責を感じつつ、風邪とか何とか言い訳して、以降2コマを急遽塾長に代わってもらって帰宅しました。穴を空けたのはこの時だけだったので、痛恨の極みとして覚えています。

 2つめは、ビルのエレベーターが故障して、ちょうど最後の授業を終えた子供達が、閉じ込められた事件。幸いにして、乗ったフロアから少し下がった所で止まったので、脱出はできないものの、子供達と会話ができる状態でした。

 塾長はビルの管理会社に緊急連絡して修理を依頼したり、閉じ込められた5人ほどの子供達の家に電話して事情を説明したり。ぼくはエレベーターに向かって、暑くはないか?とか、トイレは大丈夫か?とか、腹減らないか?とか、つねに話かけるよう心がけていました。1時間程度で、修理の人が到着して無事脱出しましたが、とても長く感じた1時間でした。幸い子供達は面白がって、いたって元気でしたが。

 3つめは、ぼくにとっても講師最後の年の、中学3年生の合格祝い会です。3年弱講師をしたわけですから、彼らが中1から中3年まで面倒を見たことになります。お祝い会では、いつもの緊張感をつくる必要は全くなく、お菓子やジュースを飲みながら、ワイワイと進路決定と、卒業予定を祝いました。

 補習塾ではあっても優秀な子は居て、ぼくなんかの授業を受けつつも、ちゃんと難関の都立高に合格したA君。中学生ながら結構美人系で、多少大人びていたBちゃん。Bちゃんといつも悪ふざけしていたCちゃん。ボンクラで、いつも叱られる対象だったけど、親のコネでそこそこの私立高校に行くことになったD君。D君と一緒にいたずらなんかしながらも、ちゃんと勉強していて、第一志望校に合格したE君。

 名前は忘れちゃったけど、今でも彼らの当時の顔を、1人1人思い浮かべることができます。彼らが15才、ぼくが22才で7歳しか違わないわけだから、奴らももうすっかりおじちゃん、おばちゃんでしょうけどねっ…。

 ちなみにぼくと同郷の友人の関係は、成り行き上最後まで明かすことはしませんでした。
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 3回に分けて紹介した、塾講師はこれで終了。次回はなんのバイトを紹介しようかな?
コメント
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