窯元日記復活

山上宗二433年忌

堺市の南宗寺塔頭の天慶院に山上宗二の一会塚として供養塔があります。今日は433年忌の会があったので、久しぶりに参加させていただきました。
法要のあと根津美術館 元副館長 西田宏子 先生 の講演「大友宗麟・嶋井 宗室・天王寺屋道叱ーこの三人を結びつけたものー 」で井戸茶碗が結ぶ興味深いお話でした。










https://kotobank.jp/word/大友宗麟 
「大友宗麟
おおともそうりん
(1530―1587)

戦国大名。大友氏20代義鑑(よしあき)の長子として豊後府内(ぶんごふない)(大分市)に生まれる。幼名塩法師丸(しおほうしまる)。元服して義鎮(よししげ)。1550年(天文19)家督を継ぐ。1562年(永禄5)怡雲(いうん)(宗悦(そうえつ))和尚(おしょう)(1518―1589)について剃髪(ていはつ)し瑞峯(ずいほう)宗麟となり、以後三非斎(さんぴさい)、圓斎(えんさい)、府蘭(ふらん)、宗滴(そうてき)と称す。この間、来日中のフランシスコ・ザビエルと接してキリスト教布教を保護し、自らも1578年(天正6)受洗してドン・フランシスコの洗礼名を受けた。領内にはポルトガル船の来航もあり、朝鮮貿易も行った。1582年には大村氏、有馬氏とともに天正遣欧使節をローマ法王のもとに送った(宗麟の発意であったかについては疑いがもたれている)。一方、九州6か国(豊後(ぶんご)、豊前(ぶぜん)、筑前(ちくぜん)、筑後(ちくご)、肥前(ひぜん)、肥後(ひご))の守護職を手中に収めて大友氏の最盛期をもたらした。しかし、1563年臼杵(うすき)の丹生島(にうじま)城に移り、府内に長子義統(よしむね)を置いて二頭政治となり、1578年(天正6)薩摩(さつま)の島津氏と日向(ひゅうが)耳川(みみかわ)で合戦して大敗した。これ以後家臣団の分裂、動揺が激化し、1586年島津勢が豊後に進攻するに及んで、宗麟自ら大坂城に赴き豊臣秀吉(とよとみひでよし)の救援を求めた。翌1587年秀吉の九州平定が行われ、その所領は義統に豊後を、宗麟に日向を与える旨伝えられた。しかし宗麟はこれを辞退し、同年5月津久見(つくみ)で病死した。
[芥川龍男 2018年3月19日]
『芥川龍男著『戦国史叢書 豊後大友氏』(1972・新人物往来社)』▽『外山幹夫著『大友宗麟』(1975/新装版・1988・吉川弘文館)』
[参照項目] | 大友義鑑 | 大友義統 | キリシタン大名 | ザビエル | 天正遣欧使節
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)」

https://kotobank.jp/word/嶋井宗室 
「嶋井宗室しまい・そうしつ
朝日日本歴史人物事典 


没年:元和1.8.24(1615.10.16)
生年:天文8(1539)
安土桃山・江戸前期の筑前博多の豪商,茶人。名は茂勝,剃髪して端翁宗室。天正期の初め豊後の大友宗麟に朝鮮産茶器を売り,博多の治政に必要な情報提供を宗麟から求められた。大友宗麟支配6カ国の自由な通交権と博多津の免税を許された。大友家に出入りする天王寺屋道叱と交わった。道叱は宗室の茶の師匠との説もある。同じころ堺の豪商で茶人の津田宗及,山上宗二らと交わった。天正10(1582)年本能寺の変の前日,織田信長に招かれて同寺に宿泊し,空海の筆蹟(現在福岡市の東長寺にある)を持って博多へ逃げ帰った。 その後かねてじっこんであった千利休を介して豊臣秀吉に近づいた。天正15年6月秀吉から名島,博多の町家の建設,博多の蔵への兵糧米の集荷を命じられ,兵站基地商人としての職責を神屋宗湛と共に果たした。また太閤町割りにも協力したので,表口13間半,入30間の屋敷地を賜り,町役を免除された。茶会の席で秀吉に対し,「武士は嫌らひ」「武士より町人宜候」と答えたという話は,博多商人の気概を示すものとされているが,宗室が対馬の宗氏の家臣で朝鮮貿易家であった嶋井右衛門尉の係累とすれば,正直な心の内を披瀝したものとも理解できる。 宗室は自分を含めた博多の朝鮮貿易家たちが,秀吉の朝鮮出兵で取引出来なくなることを憂え,小西行長らと組んで朝鮮との和平工作に着手したが失敗した。『博多記』は宗室は石田三成に頼まれて朝鮮侵略をやめるよう秀吉を諫止したが聞き入れられず,その後秀吉との仲はこじれたと記している。慶長15(1610)年養嗣子徳左衛門へ遺訓を書いた。この遺訓は現存する商家の遺訓の中で最も古いもののひとつとされ,社訓のルーツと考えられている。しめくくりは「双六は負けぬようにうて」である。<参考文献>「嶋井家文書」(『福岡県史』近世史料編・福岡藩町方編Ⅰ,Ⅱ),田中健夫『島井宗室』,武野要子『博多の豪商』
(武野要子)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版」

https://kotobank.jp/word/津田道叱 
「津田道叱(読み)つだ・どうしつ


生年:生没年不詳
安土桃山時代の堺の豪商で茶人。津田(天王寺屋)宗達の弟,宗及の叔父。『天王寺屋会記』にしばしば登場するが,それによれば天文23(1554)年12月に兄の宗達を招いた茶会にはじめてみえ,慶長4(1599)年閏3月に博多の神屋宗湛を招いた茶会を最後とする。天王寺屋の主な商圏のひとつである九州方面の担当者といってもよく,たびたび九州へ出張している。大友宗麟に用いられ,永禄10(1567)年をはじめとして,特に大友氏の領域内での活躍が大きかった。当時大友氏の勢力が博多におよんでいたことから,博多の豪商島井宗室や神屋宗湛らと親交があり,それが博多衆の中央進出のひとつの契機となった。<参考文献>泉澄一『堺と博多』
(吉田豊)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版」

「天王寺屋道叱(読み)てんのうじや どうしつ


?-? 織豊時代の茶人。
津田宗柏の4男。津田宗及の叔父。津田宗達の弟。堺の豪商天王寺屋の一族。紹鴎(じょうおう)流の茶道をまなぶ。豊後(ぶんご)(大分県)の大友宗麟に重用され,筑前(ちくぜん)博多の豪商神谷宗湛,島井宗室らと親交をむすぶ。慶長4年(1599)宗湛をまねき茶会をひらく。唐絵と茶器の名品を多数所蔵していた。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 」


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