窯元日記復活

雲華焼の窯

2017年に大和郡山市柳町で見つかった「雲華焼(うんげやき)」の窯跡 。
厳密にいうと窯は道路の下で焚口がでてきたんですが、この窯がどんな形だったんだろうとの想像も楽しい。
播州赤穂の雲火焼の記述を見ると、大嶋黄谷(文化4年<1821>ー明治37年<1904>)は嘉永元年<1848>から二年にかけて赤穂に滞在した今戸焼の陶工・作根弁次郎に陶技を習って嘉永5年には雲火焼と呼ばれる、我々が雲華焼と呼んでいる作品が出来たようです。

金森得水『本朝陶器攷證』によれば、幕末期には今戸焼を生産する家が約50軒ほどあったそうです。
休館中の江戸東京博物館のHP見ていて〈調査報告書[第4集]「今戸焼」
A4版 137頁 1,300円(平成9年発行)完売しました。
東京都指定有形民俗文化財「今戸焼の瓦製造用具62点」(平成9年3月14日指定)をはじめとする、江戸在地系土器である今戸焼の調査報告書です。 瓦の他、当館所蔵今戸焼の土器類、人形類を収載しています。 〉これに当たったんですが、完売か・・と。

家の資料を探していたらこの資料が出てきました・・。以前数回しか行っていない江戸博に行ったときに買っておいたんですね。すっかり忘れていました。平成9年に発行されたんですが当時の数軒の窯の資料や古い写真、映像撮影など記録されています。窯の屋根のあるもの(焚口の反対側が開いていて作品を詰めるようです)と、屋根の無い物(上から入れて、上をレンガ等でふさぐ)窯があったようです。
そういえば、我が家の素焼き窯は当時上から作品を入れるタイプで直炎で火をたくタイプでした。面積がいらないので小さくて済みます。
さて、柳町にあった窯はどんな形だったんでしょうか・・。













当時の奈良新聞の記事→https://www.nara-np.co.jp/news/20171102090646.html
今戸焼→https://ja.wikipedia.org/wiki/今戸焼 
作根弁次郎→unkayaki.com/04_rekishi_saikonoayumi.html
江戸東京博物館→ https://www.edo-tokyo-museum.or.jp

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