山風景とデジタルコラボ+α                                   

コンテンツ作製のため、山風景等を素材にして様々な試みを綴ってみます。

ひょうたんから駒かも その2

2011年01月31日 | 訓練、探索
仮説を解き明かすその前に、もうひとつ調査を済ませておくことがありました。

有名な道標を兼ねたお地蔵さまの地点まで、ひとまず下ってきました。
光背には、「右あまぎみち 左まつざきみち」と刻まれています。
峠を下りたどり着いたのは、右のあまぎみちを利用してです。


で、画像をちょっと引いてみましょうか。

このお地蔵さままでは蓮台寺側より舗装林道が通じていますが、左松崎方向への古道たる山道は、かなりの荒れ放題状態でした。
で、とある地権者の働きにより県費のみの負担で、4WDなら通行できる林道を開削する運びとなったのです。
「工事が始まったらしいぞ」との情報を聞きつけて、進捗状況確認の意味もあったのでした。
あっと、やばいかも こんな情報を公開すると、誰かさんがウキウキしちゃうかもしれません。

さて、謎の石積みへ話を戻しましょう。
石積みを右手に回り込みますと、古道敷きとほぼ等位の地面から水が滲み出ていることに気がつきました。
しかもですよ。その箇所を凝視すればするほど、土砂に埋もれた鉱山坑口の上部に見えてくるじゃありませんか!
過去に幾度と無く、このような坑口の埋もれた光景を目の当たりにした覚えもありますし、とある資料を照らし合わせますと藤原山ヒ(ヒは金偏に通で、意味は鉱脈のこと)の位置関係ともおよそ合致するのです。通常坑道掘削は、ズリだしだけのための坑道や換気のためのもの、その両方を兼ねたものなど、1本の主力鉱脈坑道以外にも、縦横に空けられるのが通常なのです。
つまりここに坑口があったとしても、なんら不思議はないでしょう。あるいは、試掘坑の可能性だって否定できませんよね。


引いた画像がこれです。


わかりにくいでしょうから、画像に位置関係を書き込んでみました。


以前から桂昌庵の石積みなんかじゃなく、どうせ昔に耕作した際に積まれた畑の石積みだろうって安易に考えていましたが、こうなると坑口を崩壊させないための土留めだったんじゃないかとも思えてきます。
すなわち、もったいぶりましたけど、仮説とは坑口説のことに他なりません。


河津鉱山蓮台寺鉱区が久原鉱業によって買収され、本格的に近代的操業を開始したのが大正3年3月。
おりしも第一次世界大戦勃発によって、当時の日本鉱業界は好景気に沸いたといわれています。
久原財閥の創設者、そしてグループ総帥でもある久原房之助は大正6年、腸チフスにかかり生死をさまようことになります。

総帥の病気回復を祈願して、工夫一同が建立したお地蔵さまだったら・・・
まさかねー

ならば、かなりの美談になるのですが。





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