里山悠々録

里山の家と暮らし、田んぼや畑、そして水墨画のことなどを記録していきます

我が家に残る一通の古文書(前)

2022年02月26日 | いえ

しばらくぶりに「いえ」に関わることを記録に留めます。
我が家に一通の古文書が残されています。
この存在を知ったのは、27年前に父が亡くなった直後。
登記簿謄本などとともに残されていたものです。
このような古ぼけた紙袋の中に、もう一通の文書とともに入っていました。


この古文書について、父から聞かされてことは一度もありません。
亡くなる前は長く病床にあり念頭にもなかったろうと思います。
当時、チラッとは確認したものの簡単には判読できないため、長らく放置していました。
少々じっくりと見ることとなったのは、勤め人稼業から解放された後。
我が家の位牌を過去帳に替えようとした際、改めて見直すこととなりました。
小生には完全には判読できませんが、推測も含めて解釈しました。
これが1枚目。


享保20年(1735年)3月付けの、藩内家臣横山某から奈良坂・梅沢某宛てのもの。
百姓久三郎の田畑の一部を水呑久右衛門に譲り、新たに百姓としたいと願いが出ているので処理するようにといった主旨でしょうか。
2枚目。


願い出の内容が書かれています。
百姓久三郎から水呑久右衛門に田畑の一部合わせて690文分を譲渡するとあります。
さらに久右衛門を別家として新しく屋敷を設けた旨書かれているようです。
ここには久三郎屋敷に当地集落名が記載されています。
3枚目。


久右衛門の家族構成は4世代の6人に下人が2人で計8人。
本人が78歳とは少々驚きですが、家長とはそのようなものでしょうか。
譲渡の趣旨とその見届け人についても書かれているようです。
4枚目。


譲渡人久三郎、譲受人久右衛門(新百姓願人)双方と見届け人の親戚、組頭、肝煎の署名捺印。
享保20年閏3月付けで堀内某宛の願い出になっています。
5枚目。


元文元年(1736年)10月に決裁が終わり認められたと解釈できるでしょうか。
この古文書は享保、元文年間ですから江戸中期のものです。
少々、調べてみると士農工商の時代、農即ち百姓にもランクがあって上は庄屋、名主と言った豪農から、一般の百姓、そして下は下人まで存在していました。
藩主から土地を与えられ年貢を納めるものだけが、百姓として認められていたのです。
水呑百姓(みずのみびゃくしょう)は、今でも蔑みの言葉で用いられることがあります。
名の通り、貧しくて水しか呑めないような百姓を指す、江戸時代の貧農のことです。
我が家に残る古文書には単に水呑と記されています。
水呑百姓は石高(田畑)を所有していないため年貢を納める必要はありません。
しかし、村の構成員とは認められず、発言権もない低い身分でした。
小さな百姓の次男や三男は水呑として生きていかざるを得なかったのかもしれません。
然らば、何故この古文書が我が家に残っているかです。
それは明日。



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