里山悠々録

里山の家と暮らし、田んぼや畑、そして水墨画のことなどを記録していきます

悪夢の日から8年の歳月

2019年03月10日 | いえ
 東日本大震災から明日で8年。
 あの恐怖は、忘れようにも忘れられるものではありませんが、少しずつ記憶が薄まってきていることも事実です。
 2011年3月11日午後2時46分。あの時間、私は仕事の関係で自宅にはおりませんでしたし、家族もいませんでした。ですからその瞬間、自宅あるいは周辺がどういう状況だったかつぶさには分かりません。
 想像を絶する沿岸部の被害から見れば、内陸部は相対的に軽かったと言えるのですが、我が家のことを、当時の手帳を見つつ記録します。
 自宅が「築130年の古民家」でありながら致命的な被害を免れたことは、すでに記録しましたが、壁の小さな亀裂や破損は結構ありました。
 小さな痕跡は、今でも残っています。



 

 表側の壁はその後塗装をし直したので、見えるところは消えています。それでも、全部は直せず残っています。

 屋根瓦は見る限りでは大丈夫と思っていましたが、少しずれたり小さな破損があったりして、気づかぬままに雨漏りがするところが出ていました。これはその跡です。

 家周りのコンクリートのひび割れはいまでも大分残っています。


しかし、近隣の新しい家で大規模半壊や瓦が全損といった例もありますから、それから見れば軽少です。当時、いたる所に屋根をブルーシートで覆った家が見られました。
 被害が大きかったのは合併浄化槽。
 この辺りは家が散在しているため、下水道ではなく個別の排水です。これが周りは陥没、浄化槽は隆起し、使えなくなってしまいました。

復旧には1ヵ月近くかかりました。それでも私の友人が設備会社を営んでおり、早くやってもらった方です。ただし、お金はかなり掛かり、保険の対象にもならないのでがっくりでした。
 電気は1週間で復旧し、水道は10日で通るようになりましたが、今度は水道管や給湯器に水漏れが見つかり、修理にしばし要しました。

 農業用では、田んぼの地盤沈下と土手の崩落です。

 この場所は、20数年前道路の拡張工事があった所ですが、この蛇籠も沈下したのでしょう。土手側に近いほど田んぼの地盤が沈下しました。毎年手直しはしていますが、いまだに水田全体の均平化は不完全です。この様な箇所がほかにもあります。

 ここは土手が崩落したところ。当時、人力の間に合わせ作業で、何とか作付けにこぎ着けました。

 それからお墓です。墓石は、昔からのものも多くありますが、立っている石は全て倒れました。墓地全体を見渡しても立っている墓石はほとんどありませんでした。

そして、悩ませたのは原発事故による放射能汚染の問題です。当時、福島の原発の位置からは遠く離れており、この辺りの人は誰も念頭になかったと思います。しかし、当時の天候がよくありませんでした。事故直後から北西への強い風が吹き、雪やみぞれとなりました。それが福島県のみならず本県まで流れ込み、思いがけない放射能被害となったのです。
 当地域も除染が必要かどうかのボーダーラインの地域に入り、定点観測とともに、自宅周辺の詳細調査も行われました。実際に一部除染も行われましたが、年々放射能レベルは下がり、現在では事故前の状態に戻っています。

 農地への残留も問題となり、農産物はすべて検査をクリアしたもの以外は出荷できませんでした。当地域でも原木しいたけやタケノコなどいくつかの品目で検出され、出荷不能となりました。
 米は、幸いにもクリアし、最終的には全量出荷できました。しかし、栽培面ではセシウムを吸着するための塩化カリの施用が義務づけられました。現在では検査もほとんど念のためといったレベルになってはいますが、依然、事前の検査を行った後に出荷のゴーサインが出る仕組みになっています。
 福島県の原発周辺地域の方々のご苦労は筆舌に尽くせぬものがありますが、想定外の出来事などといって済ますのは、自然に対する人間の思い上がりと考えるのは私だけではないでしょう。


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