中国新聞ヒロシマ平和メディアセンター
http://www.hiroshimapeacemedia.jp/mediacenter/index.php
記憶を受け継ぐ
http://www.hiroshimapeacemedia.jp/mediacenter/article.php?story=20130225131347400_ja
川崎巳代治さん―核廃絶へ世界中に仲間
川崎巳代治(かわさき・みよじ)さん(83)=広島市西区
やけどの
女性・遺体焼く臭い 今も忘れない
川崎巳代治さん(83)は、爆心地から3キロ足らずの己斐町(現広島市西区)の自宅(じたく)で被爆しました。その日のうちから、ひどいけがや、やけどをした人たちが街中から川崎さんの家に避難(ひなん)してきました。被爆した女性の背中(せなか)のやけど、遺体(いたい)を焼く臭(にお)い…。その時の体験は今も、忘(わす)れることはできません。
被爆当時は16歳。旧制中学を卒業、進学が決まっていた広島師範学校(現広島大)の入学式が遅れ「自宅待機」中でした。迎(むか)えた8月6日。セミが鳴き、暑い朝でした。掃除(そうじ)を終え、家の中にいると、突然(とつぜん)、閃光(せんこう)が走りました。
自宅の窓(まど)ガラスが割(わ)れ、天井(てんじょう)板が外れました。川崎さんは左腕(うで)から出血していました。外へ出ると、薄暗(うすぐら)く、静かでした。奇妙(きみょう)な感じがしたのを覚えています。
被爆後、自宅には負傷(ふしょう)者が逃(に)げてきました。数日後に数えると、自分と家族も含(ふく)め29人になっていました。見知らぬ顔もありました。足から骨が出た人もいました。背中にひどいやけどをした女性は、うじがわいていました。川崎さんは食事の支度を手伝ったり、傷(きず)を冷やすための土を山へ取りに行ったりしました。
29人のうち、3人ぐらいが亡(な)くなりました。その1人の女性を火葬(かそう)するため、近くの己斐国民学校(現己斐小、西区)へ戸板に乗せて運びました。
学校にも、被災(ひさい)者が大勢いました。校庭では遺体を焼いていて、その臭いは、自宅まで漂(ただよ)ってきました。
戦後、中学校の英語教諭(きょうゆ)になった川崎さん。占領(せんりょう)軍の兵士が、フレンドリーだったのがきっかけです。
海外から広島を訪(おとず)れた人たちをホームステイで積極的に受け入れてきました。川崎さんの家に滞在(たいざい)した人は1988年以来、19カ国の99人に上ります。中には、旧ソ連時代に核実験が繰(
く)り返(かえ)されたカザフスタンの人たちもいました。
妻の幸子さん(78)とともに、カザフスタンへの医療支援(いりょうしえん)などを続けている市民グループ「ヒロシマ・セミパラチンスク・プロジェクト」のメンバーです。川崎さんは「世界の核被害(かくひがい)の状況(じょうきょう)を多くの人に知ってもらい、核をなくそうと思う人を増やしたい」と強調します。
10代の若者(わかもの)に対しては「戦争になりかけた時、できるだけ多くの人と一緒(いっしょ)に食い止めるよう行動してほしい。二度と戦争はしてはいけない」と呼(よ)び掛(か)けます。
平和のための第一歩として、「いじめをせず、何でも話し合える仲の良いクラスをつくることから始めましょう」とアドバイスしています。(増田咲子)
◆学ぼうヒロシマ◆
己斐国民学校
校庭から2000体の遺骨
己斐国民学校(現己斐小、広島市西区)は、原爆が落とされた直後から救護所となり、負傷(ふしょう)者でいっぱいになりました。その中には、市中心部で建物疎開(そかい)の作業中に被爆し、逃(に)げてきた少年、少女も多くいました。
その日の学校の様子について、被爆者が記した手記があります。「床(ゆか)には全身やけどでただれ、皮膚(ひふ)がはげおちた被災(ひさい)者が横になり、足の踏(ふ)み場もなかった」。当時の惨状(さんじょう)が読み取れます。
校庭には溝(みぞ)が掘(ほ)られ、多くの遺体(いたい)が焼かれました。1949年に、約2千体の遺骨(いこつ)が発掘(はっくつ)されました。
同校では2010年夏、被爆当時に在籍(ざいせき)していた元児童が、慰霊(いれい)モニュメントを建てました。00年からは毎年8月6日に児童らが参加し、慰霊祭を開いています。
中山和一校長は「核兵器(かくへいき)は造っても使ってもいけないことを、子どもたちが理解して、周囲に広めてほしい」と話しています。
◆私たち10代の感想◆
長期間の影響に驚き
川崎さんは、核(かく)実験場があったカザフスタンの人たちを支援しています。核実験場は閉鎖(へいさ)されましたが、今も健康被害(ひがい)に苦しんでいる人がいるそうです。核が与(あた)える影響(えいきょう)は、とても大きいと感じました。川崎さんの言う通り、多くの人に、世界のヒバクシャについて関心を持ってもらいたいと思います。(中2・岩田壮)
若い世代へ期待実感
川崎さんは「若(わか)い人に原発の恐(おそ)ろしさを分かってほしい」と強調していました。また、核(かく)実験や原発事故で被害(ひがい)を受けた人が世界中にいると聞き、核の恐ろしさをあらためて感じました。
核による犠牲(ぎせい)者や戦争で亡(な)くなった多くの人のためにも、平和の重要さを伝え、命を大切にしていきたいです。(中3・了戒友梨)
◆編集部より
川崎さん夫婦は、旧ソ連による核実験が繰り返されたカザフスタンの人たちとの交流を続けています。これまで、現地を訪れたり、留学生をホームステイで受け入れたりしてきました。
1999年に3度目の訪問をした妻幸子さんの手記の一節が、心に残りました。450回を超す核実験被害の深刻さを目の当たりにした幸子さんは、「この地球上で、人間の生きる尊厳にこれほど差があっていいのか。世界の子どもたちに核の悲劇のない地上を約束しなければならない」とつづっています。
カザフスタンでは、実験場が閉鎖されて20年以上たっています。しかし今でも、がんや心臓病に苦しんでいる人が多く、核実験による被害者は約150万人とも言われています。
川崎さんは、取材の中でチェルノブイリ原発事故や太平洋諸島での核実験にも触れ、「世界の核被害に目を向けることが大切だ」と強調していました。
私たちは福島第一原発事故で再び核の問題に向き合っています。「核が人類に及ぼす影響は大きい。核兵器だけではない。原発事故が起きると、長期間、多くの人々を苦しめることになる。そのことをよく考えてほしい」。10代の若者に語り掛ける川崎さんの言葉が重く響きました。(増田)
(2013年2月25日朝刊掲載)
http://www.hiroshimapeacemedia.jp/mediacenter/index.php
記憶を受け継ぐ
http://www.hiroshimapeacemedia.jp/mediacenter/article.php?story=20130225131347400_ja
川崎巳代治さん―核廃絶へ世界中に仲間
川崎巳代治(かわさき・みよじ)さん(83)=広島市西区
やけどの
女性・遺体焼く臭い 今も忘れない
川崎巳代治さん(83)は、爆心地から3キロ足らずの己斐町(現広島市西区)の自宅(じたく)で被爆しました。その日のうちから、ひどいけがや、やけどをした人たちが街中から川崎さんの家に避難(ひなん)してきました。被爆した女性の背中(せなか)のやけど、遺体(いたい)を焼く臭(にお)い…。その時の体験は今も、忘(わす)れることはできません。
被爆当時は16歳。旧制中学を卒業、進学が決まっていた広島師範学校(現広島大)の入学式が遅れ「自宅待機」中でした。迎(むか)えた8月6日。セミが鳴き、暑い朝でした。掃除(そうじ)を終え、家の中にいると、突然(とつぜん)、閃光(せんこう)が走りました。
自宅の窓(まど)ガラスが割(わ)れ、天井(てんじょう)板が外れました。川崎さんは左腕(うで)から出血していました。外へ出ると、薄暗(うすぐら)く、静かでした。奇妙(きみょう)な感じがしたのを覚えています。
被爆後、自宅には負傷(ふしょう)者が逃(に)げてきました。数日後に数えると、自分と家族も含(ふく)め29人になっていました。見知らぬ顔もありました。足から骨が出た人もいました。背中にひどいやけどをした女性は、うじがわいていました。川崎さんは食事の支度を手伝ったり、傷(きず)を冷やすための土を山へ取りに行ったりしました。
29人のうち、3人ぐらいが亡(な)くなりました。その1人の女性を火葬(かそう)するため、近くの己斐国民学校(現己斐小、西区)へ戸板に乗せて運びました。
学校にも、被災(ひさい)者が大勢いました。校庭では遺体を焼いていて、その臭いは、自宅まで漂(ただよ)ってきました。
戦後、中学校の英語教諭(きょうゆ)になった川崎さん。占領(せんりょう)軍の兵士が、フレンドリーだったのがきっかけです。
海外から広島を訪(おとず)れた人たちをホームステイで積極的に受け入れてきました。川崎さんの家に滞在(たいざい)した人は1988年以来、19カ国の99人に上ります。中には、旧ソ連時代に核実験が繰(
く)り返(かえ)されたカザフスタンの人たちもいました。
妻の幸子さん(78)とともに、カザフスタンへの医療支援(いりょうしえん)などを続けている市民グループ「ヒロシマ・セミパラチンスク・プロジェクト」のメンバーです。川崎さんは「世界の核被害(かくひがい)の状況(じょうきょう)を多くの人に知ってもらい、核をなくそうと思う人を増やしたい」と強調します。
10代の若者(わかもの)に対しては「戦争になりかけた時、できるだけ多くの人と一緒(いっしょ)に食い止めるよう行動してほしい。二度と戦争はしてはいけない」と呼(よ)び掛(か)けます。
平和のための第一歩として、「いじめをせず、何でも話し合える仲の良いクラスをつくることから始めましょう」とアドバイスしています。(増田咲子)
◆学ぼうヒロシマ◆
己斐国民学校
校庭から2000体の遺骨
己斐国民学校(現己斐小、広島市西区)は、原爆が落とされた直後から救護所となり、負傷(ふしょう)者でいっぱいになりました。その中には、市中心部で建物疎開(そかい)の作業中に被爆し、逃(に)げてきた少年、少女も多くいました。
その日の学校の様子について、被爆者が記した手記があります。「床(ゆか)には全身やけどでただれ、皮膚(ひふ)がはげおちた被災(ひさい)者が横になり、足の踏(ふ)み場もなかった」。当時の惨状(さんじょう)が読み取れます。
校庭には溝(みぞ)が掘(ほ)られ、多くの遺体(いたい)が焼かれました。1949年に、約2千体の遺骨(いこつ)が発掘(はっくつ)されました。
同校では2010年夏、被爆当時に在籍(ざいせき)していた元児童が、慰霊(いれい)モニュメントを建てました。00年からは毎年8月6日に児童らが参加し、慰霊祭を開いています。
中山和一校長は「核兵器(かくへいき)は造っても使ってもいけないことを、子どもたちが理解して、周囲に広めてほしい」と話しています。
◆私たち10代の感想◆
長期間の影響に驚き
川崎さんは、核(かく)実験場があったカザフスタンの人たちを支援しています。核実験場は閉鎖(へいさ)されましたが、今も健康被害(ひがい)に苦しんでいる人がいるそうです。核が与(あた)える影響(えいきょう)は、とても大きいと感じました。川崎さんの言う通り、多くの人に、世界のヒバクシャについて関心を持ってもらいたいと思います。(中2・岩田壮)
若い世代へ期待実感
川崎さんは「若(わか)い人に原発の恐(おそ)ろしさを分かってほしい」と強調していました。また、核(かく)実験や原発事故で被害(ひがい)を受けた人が世界中にいると聞き、核の恐ろしさをあらためて感じました。
核による犠牲(ぎせい)者や戦争で亡(な)くなった多くの人のためにも、平和の重要さを伝え、命を大切にしていきたいです。(中3・了戒友梨)
◆編集部より
川崎さん夫婦は、旧ソ連による核実験が繰り返されたカザフスタンの人たちとの交流を続けています。これまで、現地を訪れたり、留学生をホームステイで受け入れたりしてきました。
1999年に3度目の訪問をした妻幸子さんの手記の一節が、心に残りました。450回を超す核実験被害の深刻さを目の当たりにした幸子さんは、「この地球上で、人間の生きる尊厳にこれほど差があっていいのか。世界の子どもたちに核の悲劇のない地上を約束しなければならない」とつづっています。
カザフスタンでは、実験場が閉鎖されて20年以上たっています。しかし今でも、がんや心臓病に苦しんでいる人が多く、核実験による被害者は約150万人とも言われています。
川崎さんは、取材の中でチェルノブイリ原発事故や太平洋諸島での核実験にも触れ、「世界の核被害に目を向けることが大切だ」と強調していました。
私たちは福島第一原発事故で再び核の問題に向き合っています。「核が人類に及ぼす影響は大きい。核兵器だけではない。原発事故が起きると、長期間、多くの人々を苦しめることになる。そのことをよく考えてほしい」。10代の若者に語り掛ける川崎さんの言葉が重く響きました。(増田)
(2013年2月25日朝刊掲載)