ヒロシマ・セミパラチンスク・プロジェクト

NGO ひろしま市民によるカザフスタン共和国旧ソ連核実験場周辺住民(核被害者)への支援・交流

広報誌 2009秋 Autumn No.19

2009-11-24 16:48:40 | Weblog
【国連本部 AGAINST  NUCLEAR ARMS パネル展開催 カザフスタン・日本外務省主催で】
8月1日から9月30日まで、ニューヨーク国連本部にてAGAINST  NUCLEAR ARMS パネル展が開催されました。被爆直後の廃墟と化した広島及び被爆者、被爆者が描いた絵のパネルが展示された後、続いてカザフスタンよりセミパラチンスク核実験、ポリゴン及び被曝者のパネル、中央アジア非核地帯宣言のパネルが展示されました。その後、現在の広島の人道支援として、HICAREとヒロシマ・セミパラチンスク・プロジェクトのパネルが一区画のコーナーにされました。最後に被爆二世の写真家とマンハッタン計画参加者の娘さんと合作の平和の芸術作品が展示され、パネル展が締めくくられました。オープニングには国連関係者、日本代表部大使、カザフスタン代表部大使、そして平和芸術家のお二人によるご挨拶がありました。各国の来賓及びパネル展関係者、報道関係者120名こられました。一般の人が目にするメインホールの中心に展示され、多くの観客が立ち止まり熱心に見ていました。 光井 安子 (音楽家 チェンバロ奏者)

【草の根・市民カザフスタン訪問団・報告】 ヒロセミ世話人 澤野重男

 今年の8月29日は、旧ソ連が核実験を開始してから60年目、旧ソ連から独立したカザフスタンが核実験場を閉鎖してから20年目にあたる。8月25日から9
月2日までの日程で、医療支援と学術研究を中心に、「第12次カザフスタン医療支援訪問団(星・武市・山田・横関の4名、広大・ハイケア・ヒロセミの合同)」、市民交流を中心に、「草の根・市民カザフスタン訪問団(小畠・松井・小田・淺海・澤野の5名)」が組織され、実施された。なお、8月25日~9月5日の日程で、「国際交流グループCANVaS(小麻野・伊達・川崎も3名)」のカザフスタン訪問も実施され、原爆写真展やネット会議を開催した。以下、「市民カザフスタン訪問団」の旅行概要である。
 8月25日、広島からソウル経由でアルマトイ到着。26日、午前ジャイカ訪問、午後市内観光。27日、アルマトイ発セメイ着、日本センター訪問、研究所訪
問、市内観光。28日、クルチャトフ訪問見学。29日、慰霊塔前の記念式典参加、学会参加、老人ホーム訪問。30日、来年度留学生選考。31日、セメイ発アルマトイ着。
ジャイカ訪問、中央墓地訪問。9月1日、市内観光、アルマトイ発ソウルへ。2日、ソウル着。インチョン空港で待機(ソウル市内見学)、ソウル発広島着。次に、感想を少し。
詳細は後日の報告会で行いたい。
 クルチャトフ。かって約2万人の科学者と軍人、その家族が生活していたクルチャトフ市の人口は、ソ連崩壊後、8千人くらいまで減少した。最近その人口が1万人を超えて回復しているという。原子力の平和利用のセンターとして復興させようというのだ。市内はいま建設ラッシュ。日本の企業も参加して水道・下水道など都市機能のインフラ整備が急がれている。カザフスタンでは日本の協力で原発建設もすすむ。市内の核研究の展示室を訪問したが、核開発技術がいかに素晴らしかったかを誇示するもので、被害の大きさを訴えるものではない。
 セメイ。カザフスタンでは、「核実験は過去のこと」、「核実験と平和利用は別物」というのが支配的世論である。6月には核実験停止を記念する式典が盛大に行われたというけれど、8月29日の「記念日」のセメイ市はわりあいに静かで、最大の賑わいをつくりだしていたのは、新しい道路の開通を祝うパレードであった。中央アジア非核地帯条約のリーダーとしてのカザフスタンは、核廃絶を世界に呼びかける顔と核の平和利用を推進する顔の、ふたつの顔を持つ国である。 当日の朝、「核実験犠牲者慰霊塔」の前で開催された記念式典に参加した。留学生OG達と一緒に慰霊塔に献花して、ヒロセミの市民訪問団は「核廃絶」を誓うのであった。
 アルマティ。 第2次大戦後の「シベリア抑留」でカザフスタンへ移送された日本人は約6万人、飢えや病気で約1500人が死亡。アルマティ市内3カ所の日本人墓地には201人が埋葬されている。中央墓地の中にある日本人墓地が最大で、民間人抑留者37人を含む145人が埋葬されている。ずらりと並んだ無記名の四角いコンクリート板が「墓石」で、この下に数体ずつ、身元不明の遺体が埋葬されているという。同行の松井先生は僧侶でもあるので、読経して犠牲者の冥福を祈っていただいたのが、せめてもの慰めであったが、21世紀を迎えた今も、「シベリア抑留問題」は未解決のままである。歴史に正しく向き合わねば、犠牲者たちは安らかに眠れない。

【「ザマナイ」の歌 心に響く! 7月31日 平和公園にて】
第1期カザフスタン留学生(2000年から1年間) アケルケ・スルタノワ(東京に在住)が「平和のともしび」の集い行事(主催 広島市女性連絡会議)にて、カザフスタン被ばく者鎮魂歌「ザマナイ」とスピーチを行うために東京から来広しました。また、在日カザフスタン大使館より大使館員アルマッス・ディシュコフ氏も駆けつけて平和の祈りを捧げました。
 10年ぶりに日本に再留学しているアケルケのスピーチの一部を紹介いたします。
今回は、日本文部科学省の外国人国費留学生プログラムで留学しています。ご存じのとおり、一橋大学の社会学研究科で外国人研究生として勉強させていただいています。残念ながら、10年前の留学のときほど、セミパラチンスクのことを通じて核兵器の恐ろしさを伝えるチャンスはありませんが、大学のゼミなどで日本人の学生に核実験のこと、その被害、そして現状について発表しています。10年前とは違って、自分の言葉と経験だけではなくて、公式文献を通じて紹介したうえで、自分の言葉やあげている問題意識を科学的な観点から説明しなければならないです。だから、セミパラチンスクの核実験場にとどまらず、世界における核の問題についてあらゆる資料を探って、たくさん勉強しなければならないです。(中略)セメイは、カザフ国民の聖地と呼ばれています。それは、「カザフ国民文化の父」とたたえられる近代カザフスタンの最大の詩人アバイが生まれたところであるからです。だから、10年前とは変わらないことは、自分がセメイ生まれであることに誇りを持って、核兵器が大地と国民にとって大きな悲劇であることについて数多くの人に伝えたい気持ちです。
 ネバダ・セミパラチンスク運動と「ザマナイ」の歌の関係の質問に答えて:
89年の地下核実験で放射能漏れ事故が起きたことをきっかけに、詩人で人民代議員だったオルジャス・スレイメノフさんが呼びかけて始まった運動です。
ポリゴンでの実験停止を訴えて、200万人もの人が参加して、核実験を中止させました。 90年にソビエトが、もう一度実験をしようとしたときには、ポリゴンに近いカラウル村で大集会を開いて、これも止めさせました。そして翌年、実験場そのものが廃止になりました。正式な廃止は、いまのカザフスタン大統領のナザルバエフ氏が決定しましたが、そのきっかけとなった重要な市民運動です。スレイメノフさんは、いまユネスコの国連大使です。このネバダ-セミパラチンスクに参加した人たちは、よく「ザマナイ」という歌を歌って、結束を固めたそうです。いわば、運動のテーマソングだったのですね。
【ザマナイの歌詞は別途UPの予定です。】