>東大卒と地方の名前も知られていないような大学の卒業では、受け取られ方に大きな差があるのは現実です。>東大卒というレッテルがあるほうが有利なことはあります」
東大卒有利は井の中の蛙たちの間だけの話ですね。その内容は、小さな話に限りますね。
非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を埋めて行く。世界は過去から現在・未来へと一方向に移動する。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。
自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実の内容を批判すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になる。批判精神のない人の文章は、現実の内容の垂れ流しになる。子供のようなものである。
日本語の文法には時制がない。だから、日本人には世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。マスコミも現実の内容をただ垂れ流す。だから、個性がない。個人主義が理解できない。本人にも相手にも何を考えているのかわからない。それで、相手からも信頼されない。広く国際的な協力者が得られないので社会に貢献する度合いが限られる。
>■学歴は不確実なレッテル、それでも求めざるを得ない > レッテルは絶対ではないが、レッテルがあったほうが可能性は広がる、と彼はいう。>そして、「レッテルは、持っていないより、持っていたほうがいい。 >持っていても役にたたないかもしれないけど、必要なときに持っていなかったら可能性を潰すことになります」ともいった。
そうですね。日本人には ‘あるべき姿’ の内容がないのであるから、人々はあらゆる可能性に備えていなければなりませんね。政治不信がありますね。
‘私は絶対に日本人を信用しない。昨日までの攘夷論者が今日は開港論者となり、昨日までの超国家主義者が今日は民主主義者となる。これを信用できるわけがない’ (あるアメリカの国務長官)
変わり身の早さは日本人の得意芸ですからね。目先・手先の事柄に神経を集中させていますね。現実があって非現実 (考え) の無い人間の特徴ですね。
> さらに、自分を納得させるような口調でいった。 >「入学試験を乗り越えれば、より高い次元に自分をもっていける可能性につながるレッテルがもてます。 >だから、『合格しろ』と子どもにいうし、そのために安くない学習塾の費用も払っているわけです」 > 保護者も単純に学歴社会を信奉しているわけではない。
そうですね。日本語を話す限りわが国の序列社会から逃れることはできませんからね。
>ただし、学歴社会を完全否定できる材料もない。
それどころか、アメリカは学歴社会ですからね。政府も人々に高学歴を求めています。 人手不足は存在しても、頭脳不足のない国などは論外ですね。
>であれば、「可能性」という不確実なものに、保護者は賭けるしかないのだ。
そうですね。わが国の政治家は、無哲学・能天気ですからね。各人に哲学は必要である。Everyone needs a philosophy. つかみどころのない政治の内容に国民は賭けをするしかないです。これは一種の国難ですね。時代の閉塞です。
日本人は政治にそれほど関心がないのに政府に依存し、国からの発言を待っている。 (ウスビ・サコ)
>そうした思いを、我が子の中学受験、高校受験、大学受験のたびに、保護者たちは強めていくのかもしれない。
そうですね。受験戦争は、処世術 (現実) に関する争いですね。中学受験・高校受験・大学受験と受験戦争の過熱によって、わが国の学問 (非現実) が興隆することはありませんね。受験戦争は、無哲学の国のあだ花ですね。
‘(略) しかしいったん、大学に入れば、控えめに表現しても、成績と出席の基準はたるんでいる。大学を含め、日本の子供たちが習うものごとの中核は、主として十八歳までに吸収される。’ (フランク・ギブニー)
我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。
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