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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

心と和 2/2 

2020-11-01 22:04:30 | 文化

 

>  世界は二十一世紀に入ったというのに、戦乱や、虐政が絶えることがない。 >  世界平和は、日本の心と和の文化が、世界にひろまることによってのみ、もたらされることになろう。 >  そのために、日本文化を世界にひろめるために、努力しなければならない。

> 私は海外を頻繁に訪れるうちに、日本民族の力の源が、いったいどこにあるのか、考えるようになった。 >  日本について、驚くことが多い。  

 

 非現実 (考え) の内容は、英語の時制 (tense) のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観 (world view) と言われている。世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。自己の世界観の内容 (非現実) を基準にとって現実の内容を批判すれば、その人は批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。

日本語の文法には時制がない。だから、日本人には世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。マスコミも現実の内容をただ垂れ流す。だから、どんぐりの背比べになっていて個性がない。個人主義が理解できない。本人にも相手にも何を考えているのかわからない。だから、相手からも信頼されない。協力者が得られない。社会に貢献する度合いが限られる。

司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を以下の如く強調しています。

「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」

我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に力を合わせることも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。 

 

>  日本では、古代から詩の形態が、まったく変わっていない。>  世界のなかで、日本だけ、詩の形式が古代から、少しも変わっていないのだ。>  英文学をはじめとする西洋文学では、近代詩と古代詩の形式が、まったく異なっている。  

 

私は詩については不勉強なので、詩に関する発言を控えさせていただきます。  

 

>  日本でもっとも古い短歌といえば、『古事記』(七一二年)に素戔嗚尊(すさのおのみこと)の歌がでてくる。>  今日も、朝刊を手に取ると、読者からの短歌の投稿欄がある。 >  短歌に関心がない読者は、みすごしてしまおうが、そこに載っている和歌は、素戔嗚尊の歌と、形式がかわっていないのだ。 >  詩は人の心に、もっとも近い文学表現だ。 > 西洋では近代詩と古代詩との間に、長い時間的な隔たりがあるのに、日本では古代と現代が同じ時間にある。 

 

そうですね。日本語は時代の変化を受けない言語と言われていますね。歌詠みは文章にならないので意味をなさない。  

 

>  西洋や、中東でキリスト教の教会や、ユダヤ教の教会(シナゴーク)、イスラム教のモスクが新しく建てられる時には、近代建築様式をもって建てられる。 

 

そうですね。西洋や中東では教義が大切ですね。形式の方は変えることができる。

 

>古代の様式で建てることはない。>  日本では、近代都市に新しく神社が建てられる時でも、神代からの昔ながらの建築様式によって建てられる。>それでなければ、私たちの心が和むことがない。 

 

そうですね。日本人の文化には、形式 (作法) があって内容 (教義) がない。だから、形式を変えることはできない。形式により日本人は気分・雰囲気を通して安堵感を得ています。   

 

 

 

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心と和 1/2

2020-11-01 21:44:29 | 文化

 

>361424 「心」と「和」という言葉は、日本にしかない。

>大森久蔵 ( 30代 専門職 )  20/11/01 AM01 【印刷用へ】 

>リンク

> もちろん、西洋人にも、中国人にも、インド人にも、心がある。 >だが、その人そのひとだけが持っている心である。 

 

心は一人一人で違いますね。  

 

>  日本で「心」という時には、自分だけが持っている心ではなく、人々と分かち合っているものだ。 

 

それは共感 (sympathy) と違いますかね。  

 

>  私は仕事のために、全二〇巻の国語大辞典を所蔵しているが、「心」が上につく言葉をひいてみると、「心合わせ」「心意気」「心一杯」「心有り」「心得」「心覚え」「心掛け」「心配り」「心様」「心尽し」といったように、四〇〇近い言葉が目白押しになって、でてくる。 

 

さすがに大きな辞書だけの事はありますね。

 

>  三省堂の『最新コンサイス英和辞典』でハート(heart)という言葉をひいてみると、heartache(心痛)、heartbeat(心臓の鼓動)から、heartwood(材木の心材)など、十六の熟語しかない。  

 

それは辞書が小さいからでしょうね。Heart だけが心でしょうかね。    

 

>  私は、英語屋だ。全三巻の英英辞典である『Webster’s Third New International Dictionary』(ウェブスターズ・サード・ニュー・インターナショナル・ディクショナリー)を使っているが、heartが頭についた言葉は、四十あまりしかでてこない。 

 

心’ には ‘mind’ という英語゛も対応するのではないでしょうかね。   

 

>   「和」も、日本に独特な言葉だ。 >しかし、読者から、英語で「ハーモニー(harmony)」(調和)というではないかと、反論されるかもしれない。>  だが、「ハーモニー」は、「和」とまったく違う。>一人ひとりが、あることについて参加するのに当たって、合わせようと思い立って、もたらされるものだ。

 

そうですね。  

 

>  日本の「和」は、人と人のあいだの絆として、はじめから存在しているものだ。 >合わせようと思って、もたらされるのではなく、はじめから心を分ち合っているから、和が存在している。

 

そうですね。なれ合いの習慣による結果でしょうね。   

 

> 「平和憲法」が定着しているのは、日本に独特な現象である。 >  日本以外の国民なら、自国の「安全と生存」を「平和を愛する(全世界の)諸国民の公正と信義」に委ねるという憲法の前文が、噴飯物だとして、吐き出してしまうことだろう。 

 

そうですね。日本人は自分が騙された時にも ‘私は相手を信頼していた’ と誇らしげに言う。自分が ‘まぬけ’ であるとの結論に達することはない。無条件で相手を信頼することが、どれほど危険で愚かなことであるかという思いに至らない。むしろ手柄のように考えている。       

 

>  ところが、日本では和を尊んで、江戸時代を通じて三世紀近く平和が保たれたために、きっと世界にも、「和」が通用すると、思い込んでいるのだろう。  

 

そうですね。日本人のなれ合いが世界中に通用する習慣と思い込んでいるようですね。   

 

>  国連のどの加盟国も、国連が闘争の場であると見ているのに、日本人だけが「平和の殿堂」だという夢を描くのも、そのためであるにちがいない。 

 

そうですね。日本人は思い込みが激しいですからね。自分の好き勝手に思い込んで得意になっている。これは現実直視ができないためでしょうね。   

 

> 「日中友好」が熱心に唱えられていたあいだ、私はよく「中国人も同じ人間だから、心が通じ合うはずだ」と聞かされて、辟易したものだった。 

 

実際に中国人と交際すると分かりますね。日本で中国人が中国人にあって、地獄で仏に会ったように喜び合うことはありませんね。むしろ真逆の態度で ‘言葉が通じない’ という。これは公用語が存在しないということでしょうかね。     

 

> 「心を通じる」とか、「心を分かち合う」という表現が、外国語にないことを知らないのだ。 >  日本以外の国に、「和」は存在していない。 >日本では、心を分かち合っているからだ。

 

それは  ‘なあなあ主義’ というものですね。なれ合っていますね。それは言語の世界ではありませんね。 非言語の世界ですね。‘なあなあ主義’ とは、真の意味での検討や意見の交換などをせず、お互いに「なあ、いいだろう」ぐらいの話し合いで全てを済ませること。  

 

 

 

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