>(中略)
> 日本人の特性として顕著な“常に周囲や他者の目を気にして行動する”スタンスがこの言語表現をより強固なものにしている。
困ったものですね。
‘周りの影響を受けずに、真に独立した考えができる知識人がいない。’ ( グレゴリー・クラーク)
> 万が一、「自分の伝える情報が何か間違いを引き起こして、話し相手を失望することがあってはいけない」と、こうした表現を使うこともあれば、「100%そうであるという自信がない」からごまかしたり、はたまた、「直接話をしているときには、相手の顔色を伺いながら、会話の途中まで胸を張って話をしていたはずなのに、文末でその内容を少し否定的な表現や曖昧表現にして濁す」ことだってある。
非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。
自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実の内容を批判すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。
日本語の文法には時制がない。だから、日本人には世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。マスコミも現実の内容をただ垂れ流す。だから、どんぐりの背比べで個性がない。有力紙が育たない。
個人主義が理解できない。本人にも相手にも何を考えているのかわからない。だから、相手からも信頼されない。協力者が得られない。社会に貢献する度合いが限られる。
‘私は絶対に日本人を信用しない。昨日までの攘夷論者が今日は開港論者となり、昨日までの超国家主義者が今日は民主主義者となる。これを信用できるわけがない’ (あるアメリカの国務長官)
変わり身の早さは日本人の得意芸ですからね。目先・手先の事柄に神経を集中させていますね。現実があって非現実 (考え) の無い人間の特徴ですね。
>(中略)
> 日本では、会話など、何がしか言葉を伴う対人関係において、その雰囲気から相手の意向を慮り、それを直接確認することは時に無粋と捉えられたりもする。
日本人は無哲学・能天気であるから、それをことさら直接確認することは無粋ですね。
>たとえば、一つ何か情報が与えられると現状または近い将来起き得る10のものごとを悟るなどして、場面に応じて奥ゆかしく、状況を各々が鑑みていくという性質である。
‘奥ゆかしい’は、’奥が見たい’ ということである。だが、日本人は無哲学・能天気であるから、奥には何もない。奥ゆかしいは、ただの雰囲気を指して言う言葉である。日本人にはその雰囲気に大きな価値を認めている。
日本人には儀式 (形式) があって教義 (教え) がない。これは無哲学・能天気な国民の特徴である。子供の祝いは七五三で宮参り、結婚式はチャペルで行う。死んだときには仏式で葬儀を行う。教義がないのであるから、形式の正確さは譲ることができない。
>これが捉え方次第では曖昧表現となり「日本人は自己表現が苦手な国民」という見られ方をされることに繋がっている。
哲学 (考え) がないのであるから、明確な表現は何もない。各人に哲学は必要である。 Everyone needs a philosophy. 哲学は考えである。政治に関する考えは政治哲学になる。政治家には政治哲学が必要である。
> 全てを語らないことに尊さを感じる文化が古くから日本の文化に深く関連していることが、複雑さや曖昧さを生み出したのだろう。
司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調しています。
「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」
> 日本人というのは常に相対する誰かを慮ることを前提に行動を起こす。>これが日本語を曖昧で多様性を孕む言語へと発展させたのだろう。
日本人には個人主義が無いので、その言動は常に没個性になる。日本式の礼儀作法がある為に日本人は没個性になるのか、没個性の為に礼儀作法に執着するのか。正しい礼儀作法を求めてやまないようです。
> 各人の捉え方に感覚を委ねているというよりかは、日常的に相手を想い言葉を丁寧に紡いでいるため、意図して曖昧にしていたり複雑化させているわけではないのだ。
日本語は、常に ‘丁寧’ か ‘ぶっきらぼう’ かを常に考えて話さなければならない言葉ですね。
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