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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

空気 2/2 

2020-11-09 22:22:00 | 文化

 

>(中略)

> 日本人の特性として顕著な“常に周囲や他者の目を気にして行動する”スタンスがこの言語表現をより強固なものにしている。

 

困ったものですね。   

周りの影響を受けずに、真に独立した考えができる知識人がいない。’ ( グレゴリー・クラーク)

 

> 万が一、「自分の伝える情報が何か間違いを引き起こして、話し相手を失望することがあってはいけない」と、こうした表現を使うこともあれば、「100%そうであるという自信がない」からごまかしたり、はたまた、「直接話をしているときには、相手の顔色を伺いながら、会話の途中まで胸を張って話をしていたはずなのに、文末でその内容を少し否定的な表現や曖昧表現にして濁す」ことだってある。  

 

非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。

自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実の内容を批判すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。

日本語の文法には時制がない。だから、日本人には世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。マスコミも現実の内容をただ垂れ流す。だから、どんぐりの背比べで個性がない。有力紙が育たない。

個人主義が理解できない。本人にも相手にも何を考えているのかわからない。だから、相手からも信頼されない。協力者が得られない。社会に貢献する度合いが限られる。

私は絶対に日本人を信用しない。昨日までの攘夷論者が今日は開港論者となり、昨日までの超国家主義者が今日は民主主義者となる。これを信用できるわけがない’  (あるアメリカの国務長官) 

変わり身の早さは日本人の得意芸ですからね。目先・手先の事柄に神経を集中させていますね。現実があって非現実 (考え) の無い人間の特徴ですね。     

 

>(中略)

> 日本では、会話など、何がしか言葉を伴う対人関係において、その雰囲気から相手の意向を慮り、それを直接確認することは時に無粋と捉えられたりもする。  

 

日本人は無哲学・能天気であるから、それをことさら直接確認することは無粋ですね。   

 

>たとえば、一つ何か情報が与えられると現状または近い将来起き得る10のものごとを悟るなどして、場面に応じて奥ゆかしく、状況を各々が鑑みていくという性質である。  

 

奥ゆかしい’は、’奥が見たい’ ということである。だが、日本人は無哲学・能天気であるから、奥には何もない。奥ゆかしいは、ただの雰囲気を指して言う言葉である。日本人にはその雰囲気に大きな価値を認めている。   

日本人には儀式 (形式) があって教義 (教え) がない。これは無哲学・能天気な国民の特徴である。子供の祝いは七五三で宮参り、結婚式はチャペルで行う。死んだときには仏式で葬儀を行う。教義がないのであるから、形式の正確さは譲ることができない。  

 

>これが捉え方次第では曖昧表現となり「日本人は自己表現が苦手な国民」という見られ方をされることに繋がっている。 

 

哲学 (考え) がないのであるから、明確な表現は何もない。各人に哲学は必要である。 Everyone needs a philosophy.  哲学は考えである。政治に関する考えは政治哲学になる。政治家には政治哲学が必要である。         

 

> 全てを語らないことに尊さを感じる文化が古くから日本の文化に深く関連していることが、複雑さや曖昧さを生み出したのだろう。

 

司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調しています。

「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」     

 

> 日本人というのは常に相対する誰かを慮ることを前提に行動を起こす。>これが日本語を曖昧で多様性を孕む言語へと発展させたのだろう。  

 

日本人には個人主義が無いので、その言動は常に没個性になる。日本式の礼儀作法がある為に日本人は没個性になるのか、没個性の為に礼儀作法に執着するのか。正しい礼儀作法を求めてやまないようです。     

 

> 各人の捉え方に感覚を委ねているというよりかは、日常的に相手を想い言葉を丁寧に紡いでいるため、意図して曖昧にしていたり複雑化させているわけではないのだ。 

 

日本語は、常に ‘丁寧’ か ‘ぶっきらぼう’ かを常に考えて話さなければならない言葉ですね。   

 

 

 

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空気 1/2 

2020-11-09 21:58:56 | 文化

 

>361581 空気を読む日本人と日本語

>大森久蔵 ( 30代 専門職 )  20/11/07 PM09 【印刷用へ】

>常に相手発の日本人の性質が、あいまいで多様性のある日本語を生み出したのだろう。 >リンク

>日本語は不思議な言語である。>その表記の仕方次第で、文字情報として入ってくる印象や受け手に伝わる質感まで変わる世界でも稀有な言語だ。 

 

日本語は、気分・雰囲気を伝えるための言語でしょうね。考えるための言語にはなっていないようですね。歌詠みの為の言語かな。

全ての考えは、文章になる。文章にならないものは考えではない。  

矛盾を含んでない文章は、全て正しい考えを表している。矛盾を含んでいる考えも、その矛盾を取り除けば正しい考えになる。

矛盾を発見し取り除くためには議論・対話が有効である。議論・対話を普及させよう。

考えの内容は、人によりまちまちである。だから、正解は一つではない。幾らでもあるから、人間は個性的になる。考えのない人達は没個性的である。だから、自己実現が難しい。  

 

> 漢字にカタカナ、ひらがなと、同じ言語で使用する文字が3種類存在する上、世界のどの言語よりも細かに敬語に分別が必要である。  

 

日本語には階称 (言葉遣い) というものがある。だから日本語を発想する場合には、‘上と見るか・下と見るか’ の世俗的な判断が欠かせない。上下判断 (序列判断) には、通常、勝負の成績が用いられる。近年では偏差値なども都合の良い資料として利用されている。

日本人の礼儀作法も、序列作法に基づいている。だから、序列なきところに礼儀なしである。

礼儀正しい日本人になる為には、世俗的な序列順位を心得ている必要がある。'人を見損なってはいけない' という想いが強迫観念の域に達していて堅ぐるしい日常生活を送っている。日本人の尊敬は、序列社会の序列順位の表現に過ぎないため、個人的精神的な意味がない。だから、日本人の尊敬には浅薄さが付きまとう。  

 

> 多数の同音異義語が存在し、発音が似通っていても文脈、場面、使う漢字で意味が異なってくる。

 

それは高文脈文化の特徴でしょうね。同音異義語が多いとローマ字表記が難しくなりますね。外来語は原語 (alphabet) 表記にすると手間が省けますね。      

 

>(中略)

> 日本語の表現方法というのは、明らかに他の言語にない細かいニュアンスやキャラクター性まで紡ぎだす性質がある。 

 

日本語は現実描写に専念した言語ですね。話にうつつ (現) を抜かしてはいけないと言われています。  

見ることのできる内容は本当の事である。見ることのできない内容は嘘である。誰しも嘘つきにはなりたくない。だから、自分の非現実は語らない。これが、日本人の思考停止の原因である。

 

> 語尾の言い回しひとつで、なめらかに聞こえたり、丁寧に聞こえたり、かわいらしく聞こえたり、凛々しく聞こえたり、内容そのものは同じでも、語尾を替えるだけで物事の聞こえ方が大きく異なってくる。>たとえば、あなたがオレンジを手に持っていて、それは何?と誰かに問われたときの回答として、話し手の性質や相手が誰かによって、こんなにも印象表現に種類が多様化する。> 例:>・これはオレンジ > ・これはオレンジだ (断定的な表現) >・これはオレンジね (訂正や同意を求める表現) 、、、、、、 >どれも全く同じ意味なのに、語尾を変えるだけで全く印象の違う言葉になる。

 

そうですね。  

 

> 日本語には、同じ意味をもっている表現がたくさんある。>おそらく、世界でもこんなに紛らわしい言葉はないだろうというほど、同じ言葉でも、たくさんの意味を持つ。

>(中略)

> 日本語は主語のない形でも会話が成立する言語。>さらに、語尾を「かな」や「だけど」のように曖昧表現にもできるので、主語なく“誰が”を明言しなかったり、語尾も、断言をしないことで話者が責任を一手に担うのを避けることもできでしまう。

 

とかくこの世は無責任ですね。この国がひっくり返った時にも責任者は出なかった。とかくこの世は無責任。      

 

> 「空気を読んで察する」ことが会話やコミュニケーションで大きな役割を担う日本語では、「曖昧表現」も対人関係で大きな鍵を握る。 

 

山本七平は「『空気』の研究」のなかで、そのことを指摘しています。

「驚いたことに、『文藝春秋』昭和五十年八月号の『戦艦大和』でも、『全般の空気よりして、当時も今日も(大和の)特攻出撃は当然と思う』という発言が出てくる。この文章を読んでみると、大和の出撃を無謀とする人びとにはすべて、それを無謀と断ずるに至る細かいデータ、すなわち明確の根拠がある。だが一方、当然とする方の主張はそういったデータ乃至根拠は全くなく、その正当性の根拠は専ら『空気』なのである。最終的決定を下し、『そうせざるを得なくしている』力をもっているのは一に『空気』であって、それ以外にない。これは非常に興味深い事実である。」と書いています。

 

 

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