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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

空気を読む 2/2  

2020-11-02 14:51:12 | 文化

 

>それは圧倒的に楽で、しかもみんなで選んだのだから誰も攻撃の対象にもならない。

 

ああ空しい。何処に進歩があるのやら。   

 

>和を以って尊し? 

 

議論をすれば喧嘩になるのか。喧嘩をするためにはまず初めに議論をしなければならないのか。議論下手では和を保つことは難しい。 

 

>◆「自己防衛」

>つまり、イジメの対象になりたくないから、攻撃されたくないから、責任取りたくないから、自分で決められないから、しんどいから思考を停止して、みんなに合わせる。 >それが無難な処世術。 

 

自己の意思を表せば当事者・関係者になる。表さなければ傍観者にとどまる。意思表示の無い日本人は常に傍観者にとどまっていて、孤高の人になっている。孤立無援になりやすい。わが国は、世界の中にあって、世界に属していない。居るのか居ないのか定かでない。存在感の無いのが処世術か。  

 

>それを、これまたみんなで正当化する為に「空気を読む」ことを、みんなで是としている。 

 

非現実 (考え) の内容は頭の中にある。だから、見ることができない。それは、ただの話である。その内容を知るには文法に基づいて文章の内容を理解しなくてはならない。これは、骨の折れる仕事である。だから、通常、日本人は理解をしない。忖度 (推察) で代用して済ませている。

理解と忖度は似て非なるものであるから注意が必要である。忖度 (推察) は聞き手の勝手な解釈であるから、話し手には何の責任もない。たとえ両者の間に齟齬が存在しても議論にもならない。現実直視になっていないことを忖度の主に指摘しても、'だって、私は本当にそう思ったのだから仕方がないではないか' と懸命に反発するので取りつく島がない。かくして、日本人の対話は成立しない。 

 

>「みんな」と言いながら各々が自己中。  

 

厄介払いをするために各人が ‘みんな・みんな’ と声を掛け合っています。昔は ‘桑原・桑原’ と言った。無哲学・能天気な人たちですね。      

 

>思考停止で順応回路全開のなかまたち。 

 

見ることのできる内容は本当の事である。見ることのできない内容は嘘である。誰しも嘘つきにはなりたくない。だから、自分の非現実は語らない。これが、日本人の思考停止の原因である。

 

>それで生き残れるの? 

 

 <日本はなぜ敗れるのか・敗因21か条> を著した山本七平の指摘する事例からも、大和民族自滅の過程は見て取れます。その一例を以下に掲げます。

私が戦った相手、アメリカ軍は、常に方法を変えてきた。あの手がだめならこれ、この手がだめならあれ、と。 、、、、、あれが日本軍なら、五十万をおくってだめなら百万を送り、百万を送ってだめなら二百万をおくる。そして極限まで来て自滅するとき「やるだけのことはやった、思い残すことはない」と言うのであろう。 、、、、、 これらの言葉の中には「あらゆる方法を探求し、可能な方法論のすべてを試みた」という意味はない。ただある一方法を一方向に、極限まで繰り返し、その繰り返しのための損害の量と、その損害を克服するため投じつづけた量と、それを投ずるために払った犠牲に自己満足し、それで力を出しきったとして自己を正当化しているということだけであろう。(引用終り)   

 

>◆「生き残る力」

> 多数派側の正解って、もう一昔前の成功体験談に過ぎないでしょ。 

 

多数派側には誤解もありましたね。誤解から貴重な教訓を得たでしょうかね。  

 

>時代が猛スピードで移り変わって何が起きるか分からない世の中で、もはや一昔前の常識はいとも簡単に非常識になり。>一昔前の正解は、いとも簡単に不正解になってる。  

 

そうですね。

 

>くれぐれもこれからの時代、持ち合わせる必要があるのは空気を読む力じゃなく、構造的に自分の頭で考えて決断することだと思います。 

 

そうですね。

我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。つかみどころのない人間よ、さようなら。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設により大きな協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。 

 

 

 

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空気を読む 1/2  

2020-11-02 14:23:47 | 文化

 

>361435 「空気を読む力」と「思考停止」の関係

>匿名希望        20/11/01 PM08 

>「空気を読む」という言葉にイラっとする。 > 場の空気を読むとか、あいつ空気読めないよとか。 >俺は空気が読めるとか。 >どいうわけか近年、若者や巷ではこの「空気を読む」力を、過大評価しているように思う。 

 

日本人は気分・雰囲気に感受性が強いですからね。   

 

>何だか、すごい空気を読む、読めないで、まるでその人が優秀かそうでないかですら、決めてるきらいがある。 >それも多くの人が。 

 

日本人は歌詠みの傾向が強いためでしょう。  

 

>◆「空気を読む」

そもそも、「空気を読む」というのは、言ってしまえば「周りに合わせる」ということ。 

 

空気を読む’ のは ‘顔色を読む’ のと似たような能力でしょうね。非言語活動の能力ですね。     

 

>要は、多数派側、人数が多い方についていけばいいだけの話。>ただの順応回路。 

 

生物の群れを成す能力に関係があるのでしょうね。   

 

>もちろん最低限のドレスコードは守る力は必要だけれど、それは、ネズミやカルガモの親子でもできる話で、別段大した能力じゃない。

 

生物の生存に必要な基本的な本能ですね。  

 

>むしろこの「空気を読める」っていうことを「誇る」感じが、かなりヤバい。  

 

それは非言語の世界での活動能力ですね。   

 

>あくまで空気を読むっていうのは、多数派に回ることに過ぎないから。  

 

生物は自己の安全を守るために群れをつくって生活しています。  

 

>◆「思考する」

> 生きていく上で、持たなければならない能力。>それは空気を読む力ではなく、物事を構造的に捉える力であり、危機や状況や外圧を全体的に捉える力。 

 

それは言語を利用した能力になるでしょうね。言語は伝達の手段であるばかりでなく、思考の手段でもありますからね。  

 

>構造認識が全体的な状況に対する見方とする一方で。空気を読むというのは、瞬間的な状況に対する見方。>その瞬間、その瞬間だけ。 

 

空気を読む’ はナウな感じのする非言語の判断ですね。構造認識は言語による判断でしょうね。     

 

>したがって、空気を読むことと、構造的に決断するっていうのは、まさに対極。

>◆「みんなで決める」

> 切り口を変えると、これは判断の決定権と責任はどこにあるのかという話でもある。

>構造思考は常に自分の頭で考えているので、思考も判断も自分に責任がある。  

 

そうですね。  

 

>反対に空気を読むというスタンスは、自分以外の「みんなに責任」があるという事に他ならない。  

 

それは ‘一億一心’ の励みのようなものですね。責任者がいない。   

 

>だから、空気を読む方が圧倒的に楽で、考えなくて済むし、思考力が少なくて済む。  

 

思考が疎かであると、危険極まりないことになりますね。

 

>◆「主体のいないみんな」 

 

日本人には個人主義がない。だから、わが国では個人を育てることが難しい。 

 

> 例え駄目だったとしても、その失敗は「みんな」のせいにして逃げることができる。 

 

責任は、大衆の中に霧散してしまいますね。   

 

>僕が選んだのではないと。>私がえらんだのではないと。>だって選んだのは、みんなだから。と逃げることができる。 

 

捉えどころがない人たちですね。

日本人には意思 (will) がない。意思は英語の未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがないので、日本人には意思がない。

意思の無い人には加害者意識がない。罪の意識もない。罪を着せられては大変だから逃げる。とかくこの世は無責任。  

意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there's a will, there's a way. 日本人には意思がない。仕方がないので無為無策でいる。優柔不断・意志薄弱に見える。生きる力 (vitality) が不足している。困った時には '他力本願・神頼み' になる。

 ' やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず' 山本五十六 (やまもと いそろく)     

 

>つまり空気を読むと、責任を取らなくていい。

 

そうですね。とかくこの世は無責任。

 山本七平は「『空気』の研究」のなかで、そのことを指摘しています。

「驚いたことに、『文藝春秋』昭和五十年八月号の『戦艦大和』でも、『全般の空気よりして、当時も今日も(大和の)特攻出撃は当然と思う』という発言が出てくる。この文章を読んでみると、大和の出撃を無謀とする人びとにはすべて、それを無謀と断ずるに至る細かいデータ、すなわち明確の根拠がある。だが一方、当然とする方の主張はそういったデータ乃至根拠は全くなく、その正当性の根拠は専ら『空気』なのである。最終的決定を下し、『そうせざるを得なくしている』力をもっているのは一に『空気』であって、それ以外にない。これは非常に興味深い事実である。」と書いています。   

 

 

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