>最近では「仕方なく生きてる」若者が増えていると聞きます。
(略)
> 歴史を振り返ってみると、そこには必然の理由があることに気付きます。> 若者に限らず、現代社会の最大の問題点である「思考停止」という構造が浮かび上がってきます。
見ることのできる内容は、本当のことである。見ることのできない内容は、嘘である。
誰も見て来たような嘘をつきたくはない。だから、日本人は、非現実 (考え) の内容を語らない。それで、考えの内容は、想定外になっている。これが、思考停止の状態である。
>◆無思想・無気力・無関心
>いわゆる三無主義、団塊世代の次の世代に言われた言葉ですね。(略) >それ以前は、貧困の脱出を目的とした近代観念(個人主義、民主主義など)に誰もが収束し、昔のエリートなどは近代観念で社会は良くなると本気で信じていたし、勉強していたものです。
個人主義・民主主義などは、大切ですね。
>ところが1970年、貧困の消滅(豊かさの実現)とともに、近代観念が否定していた対象がなくなると、近代観念は急速に意味を持たなくなり、誰も信じなくなりました。>同時に何も考えなくなり(思考停止の始まり)、することがなくテレビや娯楽に埋没し、更なる思考停止状態となっていきました。
無哲学・能天気の状態ですね。
>◆学校制度、試験制度の弊害
>もう少し時代を遡ると、明治時代から始まった学校制度、試験制度のその要因が見られます。 > 江戸時代の寺子屋では自然圧力の中で生きる知恵を学んでいたのに対し、学校で学ぶのは試験のための知識を暗記することです。 >とりわけ1970年代に受験ブームになると暗記脳が顕著になり、さらに追求力・自考力が衰弱し、現在の思考停止に繋がっています。>1970年代に暗記脳が顕在化したのは、貧困の消滅に伴い家庭が無圧力空間となり、家庭には子育て課題しかなくなり、母親の囲い込みによる勉強圧力が受験に向かわせたことによります。
日本人の序列化が全国規模で進みましたね。
>◆否定発の思考パラダイム
>根本的な要因は思考のパラダイムにあります。> 近代観念、とりわけ個人主義などは他の一切を捨象して自我を正当化した観念であり、さらには古代宗教も現実を否定して神などの架空観念を絶対化したにすぎません。
各人に哲学が必要ですね。Everyone needs a philosophy.
>人間は観念動物ゆえに物を考える際には観念が必要となりますが、その観念自体が否定のパラダイムに覆われているということです。
人間には、批判精神が必要ですね。日本人には世界観がないから、自己の基準で現実を批判することができませんね。
>1970年、貧困が消滅し新たな可能性が開けたにもかかわらず、また現代の閉塞した社会に対して何の答えも出せないのは、否定発・問題発の思考パラダイムに洗脳されているために思考停止になっているからです。
意思 (will) のあるところに方法 (仕方) がある。Where there’s a will, there’s a way. ところが、日本人には、意思がない。仕方が無いので、無為無策でいる。
意思は、未来時制の文章内容である。日本語の文法には、時制 (tense) というものがないので、日本語の脳裏には未来時制は存在しない。だから、日本人には意思がない。
>このように、「仕方なく生きてる」ことを掘り下げていくと、「思考停止」という大きな壁が見えてきます。>これは若者に限らず、三無主義の時代から続くもので、今や社会の基底部にある最大の問題ともいえます。
そうですね。我々は、’考える人’ になる必要があますね。
> 根本的な要因が「思考停止」にあるならば、否定発・問題発の思考パラダイムを捨て去り、可能性発の思考へと転換することで道は開けてきます。
そうですね。可能性を考えると良いですね。さすれば、未来社会の建設も可能になります。その日暮らしの生活よ、さようなら。
>これまで見てきたように、現代的な壁や課題を追求し突破するためには、歴史をとことん遡り、どこに可能性の実現基盤があるのか探る必要があります。>私たちが歴史を学ぶ理由もそこにあります。
そうですね。非現実 (考え) の内容は、頭の中にある。これは、見ることができない。ただの話である。話の内容を理解するためには、その文章を理解しなくてはならない。理解するためには、考えることが必要になる。これは、骨の折れることである。だから、日本人は、理解をしない。その代わりに、忖度 (推察) によりその場を切り抜けている。だが、理解と忖度では、まるで中身が違っている。理解は、話者の内容に関することである。忖度は、聞き手の内容に関することである。忖度の内容が、話者の内容と違うことを指摘すると、忖度の人は、’だって、私は本当にそう思ったのだから仕方がないではないか’ と抗弁する。だから、現実直視は不可能になっている。議論にもならない。こうした唯我独尊の状態は、我が国民の精神的な癌であるといえるでしょう。
山本七平は「『空気』の研究」のなかで、そのことを指摘している。
「驚いたことに、『文藝春秋』昭和五十年八月号の『戦艦大和』でも、『全般の空気よりして、当時も今日も(大和の)特攻出撃は当然と思う』という発言が出てくる。この文章を読んでみると、大和の出撃を無謀とする人びとにはすべて、それを無謀と断ずるに至る細かいデータ、すなわち明確の根拠がある。だが一方、当然とする方の主張はそういったデータ乃至根拠は全くなく、その正当性の根拠は専ら『空気』なのである。最終的決定を下し、『そうせざるを得なくしている』力をもっているのは一に『空気』であって、それ以外にない。これは非常に興味深い事実である。」と書いている。
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