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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

理解

2019-07-11 16:47:48 | 政治


>野田雄二 ( 53 営業 ) 15/06/17 PM08 【印刷用へ】 >「考える力」で検索してみると沢山の本が出てきますが、その殆どが2012年以降。

そうでしょうね。最近ですね。

>・考える力を育てるお話366 2012年09月リンク > ・・・・・・・・> ・「自分で考える力」が育つ親子の対話術2015/3/20リンク 

我が国においても ‘考える力’ の大切さが理解され出したようですね。

> このころ何があったのか、「考える力」をキーワードに探してみると、その出発点は文部科学省の審議会のようです。 > 「予測困難な時代において生涯学び続け、主体的に考える力を育成する大学へ」2012/3/26リンク 

創造的な活動をする大学が求められていますね。日本人には意思がないから、’主体的’ には期待が持てませんね。

>抜粋するとこんな内容です。
>・新聞社の世論調査では、日本の大学は、世界に通用する人材や企業、社会が求める人材を育てているかとの質問に、6割を超える国民が否定的な回答をしている

残念な結果になりましたね。

> ・「失われた20年」とも言われる時代を経て、企業を含めた社会全体がこのような社会経済の構造的な変化に直面し、科学技術から経営、社会システムに至るパラダイム(認識や考え方の枠組み)の転換を模索しなければならない厳しい環境におかれている。 >・予測困難な時代にあって生涯学び続け、主体的に考える力を持った人材は、受動的な学修経験では育成できない。

そうですね。日本人には、意思がない。だから、能動的にはならずに、受動的になる。仕方のないことです。

>・求められる質の高い学士課程教育とは、教員と学生とが意思疎通を図りつつ、学生同士が切磋琢磨し、相互に刺激を与えながら知的に成長する課題解決型の能動的学修(アクティブ・ラーニング)によって、学生の思考力や表現力を引き出し、その知性を鍛える双方向の講義、演習、実験、実習や実技等の授業を中心とした教育である。

そうですね。しかし、日本人には意思がないから、意思疎通は不可能ですね。意思 (will) は、未来時制の文章内容であるが、日本語文法には、時制 (tense) というものがない。だから、日本語の脳裏には、未来時制は存在せず、日本人には意思がない。
その代わり、日本人には恣意 (私意・我儘・身勝手) があるから、恣意疎通 (阿吽の呼吸・つうかあの仲) が可能であります。
現実の内容は、頭の外にある。これは、見ることができる。見ればわかる。だから、考える必要はない。楽ちんである。無哲学・能天気でも一向に差し支えない。
非現実 (考え) の内容は、頭の中にある。これは、見ることができない。ただの話である。その話の内容がわかる為には、その文章を理解しなくてはならない。全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。だから、聞き手は考えて理解しなくてはならない。これは、しんどい事である。だから、大抵の日本人は、考えることをしないで、忖度 (推察) を使って、その場を切り抜けることにしている。しかし、理解と忖度は、似て非なるものである。’理解’ は、話者に属している内容であるが、’忖度’ は、聞き手に属する内容である。だから、日本人の聴衆は、話者の内容を無視することになり、現実直視ができていない。だから、話者と聞き手の議論も成り立たない。理解の内容と忖度の内容の間に矛盾の存在すること見つけて指摘すると、忖度の人は、’だって私は、本当にそう思ったのだから仕方がないではないか’ と抗弁する。あくまでも、現実直視を拒否する立場をとる。日本人の頑迷さは、ここにある。日本人が、’理解’ の意味を理解していない事実を、外国人からも指摘されている。この理不尽は、国際相互理解の大きな障害になっている。

カレル・ヴァン・ウォルフレンは、<日本/権力構造の謎・上>の中で、日本語の”理解”について下記のごとく述べています。
“信念”が社会・政治的状況によって変わり、”リアリティ”も操作できるものであるとすれば、多種多様な虚構 (フィクション)を維持するのはかなり容易になる。このような虚構によってもたらされる国際的な言語表現上の混乱は、日本の評論家や官僚が “理解”ということばを口にするときの特別な意味づけによって、さらに複雑になる。”相互理解”をさらに深めることかが急務である、という表現をもって強調されることが多い。
ところが、たとえば日本語で「わかってください」というのは、「私の言っていることが客観的に正しいかどうかはともかく、当方の言うことを受け入れてください」という意味の「ご理解ください」なのである。つまりそこには、どうしても容認してほしい、あるいは我慢してほしいという意味が込められている。したがって、このように使われる場合の”日本語”の理解は、同意するという意味になる。だから、”理解”の真の意味は、その人や物事を変えるだけの力が自分にない限り、そのままで受け入れるということである。、、、、、(引用終り)

我が国の評論家や官僚の言う ‘ご理解ください’ は、’文章内容の理解’ の要求ではない。’自分自身の恣意の疎通を願ってやまない’ ということの表明である。身勝手な同意の要求に他ならない。だから、日本人は、国際人になることが難しい。

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美しい言葉

2019-07-11 02:07:30 | 政治

>>美しい言葉 >けれども > この美しい言葉を羅列する(時に発する)という事の裏には >大きな罠が潜んでいると思う > その罠とは >「言葉で解決できてしまう」 >という事

そういうことになりますかね。それは、日本語の罠ですね。
現実の内容は、頭の外にある。これは、見ることができる。見ればわかる。だから、考えることはない。楽ちんである。無哲学・能天気でも差し支えない。
非現実 (考え) の内容は、頭の中にある。これは、見ることができない。ただの話である。その話の内容がわかる為には、その文章を理解しなくてはならない。だから、聞き手は考えなくてはならない。これは、しんどい事である。だから、大抵の日本人は、考えることをしないで、忖度 (推察) を使って、その場を切り抜けている。しかし、理解と忖度は、似て非なるものである。理解は、話者に属している内容である。忖度は、聞き手に属する内容である。だから、日本人の聴衆は、話者を無視することになり、現実直視ができていない。だから、話者と聞き手の議論も成り立たない。理解の内容と忖度の内容の間に矛盾の存在することを指摘すると、忖度の人は、’だって私は、本当にそう思ったのだから仕方がないではないか’ と抗弁する。あくまでも、現実直視を拒否する立場をとる。日本人の頑迷さは、ここにある。

>>抽象的な言葉は > その場で満足するだけという > エゴで終わる事が多く >時に何も生まない

日本語の文法には、時制 (tense) というものがない。だが、英文法にはある。
文法に時制があると、非現実・考えの内容を文章に組み立てることが可能になる。英語脳には、それぞれに独立した非現実の三世界 (過去・現在・未来) ができている。
三世界の内容は、はじめは白紙であるために、それぞれがその内容を自分自身で埋めることになる。各世界の内容は、何処までも展開可能である。これが、世界観である。あるべき姿の内容は、未来時制の文章内容になっている。これを基にして現実の内容を批判すれば、その人は批判精神を示したことになる。英米人にはではても、日本人にはできない真似である。

>(「美しい花にはトゲがあるように、美しい言葉には罠がある」msg: 264444)> 非常に鋭い視点だと思いました。

そうですね。日本人が考えもなく英米人の真似をすると、怪我をします。

> 「尊厳」「その人らしさ」「優しさ」「心に寄り添う」・・・とても耳障りが良く、誰もが疑問の余地なく受け入れてしまう・・・抽象的な言葉達。> 似た性質のものに「自由」「平等」「愛」「平和」「人権」「民主」「社会変革」といった言葉群(近代思想)がありますが、これらには共通点があります。

いわゆる‘きれいごと’ ですね。

> 一つは“現実を否定or捨象”した上でそのアンチとして「そうなったらいいなぁ」「そうあるべき!」と理想を語ったにすぎない「架空観念」である点。> (抑圧されてるから「自由」を!、戦争がなくならないから「平和」を唱えよう!、社会がガタガタだから「社会変革」が必要!)

カレル・ヴァン・ウォルフレン (Karel van Wolferen) は、<日本/権力構造の謎> (The Enigma of Japanese Power) の<”ジャパン・プロブレム”>の中で下記の段落のように述べています。
、、、、、日本の社会でいう “現実” (リアリティ) とは、客観的に観察した結果としての実際の事実というより、心情的なイメージに合わせて構築された、そうあるべき “リアリィティ” だからである。そしていうまでもなく、望ましいと想定されるイメージは、そのときその人の属するグループの利益と一致することが多い。 、、、、、 
西洋では、現実はそうやすやすと管理されたり、意のままに作り変えられたり、相談で決められたりするものとは、考えられていない。つまり、こうあるべきだという任意の考えによって左右されるものとは考えられていない。事実、西洋の哲学または西洋の常識の基礎は、人間にはつきものの自己欺瞞をおさえるには、妄想や幻想を入り込ませないようつねづねよく注意することだと教えている。ギリシャ文明以来、西洋の知の発達の歴史を貫いてつねに強調されてきた戒めが一つあるとすれば、それは、「矛盾を育むなかれ」ということである。この戒めは、論理、数学、科学の根本法則である。(引用終り)

>また、はじめから「良いもの」として価値が固定された「価値観念」であること。>そして、なんとなく心や体に響いてくる「感応観念」であること。> (参考:「思考次元2 否定意識の倒錯思考」19060) >だから誰もがその引力に逆らえず、なんとなく胡散臭いと感じたとしても、「そうだよね」と納得させられてしまいます・・・が、そこに危険な罠が潜んでいます。

日本人は、文章の理解が疎かで矛盾を排除できないでいる。これが、自分自身がこしらえる危険な罠である。

> 恐ろしいことに、これらの言葉の持つ心地よい響きにだまされ、「尊厳」「その人らしさ」「自由」「平和」「愛」・・・といった言葉の本質や、どうしたら実現できるか?を追求する思考を瞬時に断たれ、思考停止してしまうのです。

そうですね。日本語には、現実があって、非現実 (考え) がない。ただ、現実の内容を容れる構文だけがある。この現実用の構文に、非現実の言葉を入れると、途端に日本語の現実描写の機能は失われます。だから、日本人は、思考停止になります。

> (例えば、誰もが無制限に「自由」を求めた結果が、「平等」とはかけ離れた格差社会であること。

無制限な自由は、意思の自由ではなくて、恣意 (私意・我儘・身勝手) の自由ですね。’自由のはき違え’ ですね。

>また、戦争を本気で無くそうと思えば、歴史を遡って戦争の起源や、戦争を起こしているのは誰か?などの事実を具体的に追求する必要があるが、「平和」に囚われた瞬間に思考停止してしまう。)

非現実を語れば、現実が抜け落ちる。日本語によるマジックですね。

>あるいは、そもそも目の前の現実を否定・捨象しているわけですから、現実の本当の姿や「外圧」を正確に捉えることができるわけがありません。

現実は現実。非現実 (考え) は非現実ですね。日本語の脳は、現実の為の脳でしょう。

>従って、何も実現できないし、活力(内圧)も沸いてこない。

そうですね。日本語による罠ですね。

(略)


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