gooブログはじめました!

日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

属国 3/3

2019-07-18 17:43:07 | 政治





> 僕たちの父や祖父たちが戦争を起こして、それに加担して、そして負けた。>そのことを僕たちは「身内の痛み」として引き受けるべきだと思う。



そうですね。贖罪が必要ですね。しかし、日本人は贖罪の為の宗教 (キリスト教) になじみがないですね。日本人には、意思がない。加害者意識がない。罪の意識がない。謝罪・贖罪は想定外になっている。



>それに対する謝罪もしなきゃいけないし、損害賠償請求があったら身銭を切らなきゃいけない。 >それと同時に、「なぜ戦争に負けたのか」ということについて徹底的に検証する義務も出てくると思うんです。



そうですね。我が国民は、何もかも置き去りにしてきましたからね。



>「なぜ負けたのか」を繰り返し自問し、原因をえぐり出さなきゃいけない。



そうですね。飛行機の墜落原因の究明のようなものですね。



>でも、まことに逆説的なことですけれど、失敗の徹底的な点検ていうのは「次は勝つぞ」というマインドがないとできないんです。



そうですね。完全な飛行機の製造に対する意気込みが必要ですね。意思の無い人には、これができない。



>事故の調査が「二度と事故を起こさない」という決意がないとできないのと同じです。



そうですね。災害からの復旧計画のようなものですね。堅固な防災都市ができるかどうか。



>主権国家としての敗戦の総括は、「もう二度と戦争はしません」じゃなくて、「もう二度と負けない」ためにするものなんです。



そうですね。意思のない人たちには、決意ができない。



>当たり前なんです。>「もう二度と戦争はしません」というのはなぜ負けるような戦争をしたのかということについて思考停止することですから。



‘もう戦争は、こりごりだ’ と言うことでしょうね。反省にはならない。伝統的な歌詠みになっている。



>そういう国は「負けるような戦争」をまたずるずると始めかねない。 >「絶対負けない」ためには論理的には「二度と戦争をしない」という選択肢しかない。



そうですね。戦争をしなければ、戦争に負けることはない。



>でも、どんな危機的状況に立ち至っても「二度と戦争をしない」という筋目をきっぱり押し通せるような骨格のしっかりした国は「もう二度と戦いません」という宣言からではなく、「もう二度と負けない」という宣言からしか生まれないんです。



そうですね。’もう二度と負けない’ という宣言が必要ですね。わかっちゃいるけどやめられない。スーダラ節か。





> 勘違いしてほしくないけれど、僕はもう一度米国と戦争をしろなんていう無茶なことを言ってるんじゃない。 >マインドの問題を言っているんです。>主権国家であるというのは、「二度と負けない」という覚悟を持つということなんです。



そうですね。無意志の人が歌詠みを続けていては、現状は変えられないですね。



>そういう覚悟がないと、制度についての痛みを伴った検証なんかできやしない。



そうですね。毎回うやむやに終わらせることになりますね。この世は、夢・幻の如くになっている。



>どうやったら国民を統合しうるような雄渾な物語を作り上げるのか、どうやったら国民ひとりひとりの心身のパフォーマンスを最大化できるかといった遂行的な課題を前景化させることなんかできやしない。



原因究明の態度を確立させないと、我々の励みは全て賽の河原の石積みになりますね。

我々日本人は、日本語と英語の両言語を良く学び、文法における時制の重要さを深く認識して自己の ‘意思と世界観’ の表現を確立させる必要がありますね。そうでなければ、我々の人生は、その日暮らしの連続になる。

日本人が、自己の’意思と世界観’ を表現する技術を確立すれば、国際的に広く協力者を得て未来社会の建設に着手でき、人類の進歩に貢献できます。この技術の確立は、具体的には、我々が日本語と英語を堪能に話す国民になることでしょうね。英米人は、日本語を話すときでも日本語特有の閉塞感を味わうことはない。彼らには、他にも考え方があるからでしょうね。



>---------------------------------------------------------

>以上です。





.









属国 2/3

2019-07-18 17:30:34 | 政治

>―日本国内では保守にしろ革新にしろ、「米国の属国では駄目だ」という主張を唱えると、あたかも非常識な「危険思想」を掲げているようなイメージすらもたれてしまう。>この国のメンタリティーはどこかが麻痺してしまったのでしょうか。

日本語には、階称 (言葉遣い) というものがあります。’上と見るか・下と見るか’ の判断は、日本人とって掛替えのないものとなっています。世俗の上下判断が正しくなければ、正しい日本語を話すこともできません。これは、大変なことです。
又、日本人の礼儀作法は序列作法に基づいているので、世俗の上下判断を心得ていないと、礼儀正しい日本人にはなれません。’人を見損なってはいけない’ と言う想いは、我が国民の脅迫観念の域に達していて、善良な日本人は神経をすり減らす状態にあります。

> 内田 反米は日本の場合、左翼の思想的な柱なんです。>でも、左翼は戦後も負け続けなわけですよ。

‘鬼畜米英’ の掛け声は、戦前・戦中にもありましたね。戦後も、国民には通じないのでしょうかね。

>そして、負け続けた政治運動は自分の弱さを認めるより、敵の強大さを大きく見積もることで、敗北を正当化する傾向がある。>日本の左翼はそうなんです。

極悪の野党は、信頼できない与党に勝てないですね。十分な反省ができなければ、自己改革は望み薄ですね。

>「米国の支配を脱する」ということを口では言うけれど、そんなこと実現するはずがないとひそかには思っている。

意思の無い国民の能動はありえないでしょうね。

>そんな力が自分たちにあるはずないと思っている。

我々の無意志は、無力感とつながっていますね。

>でも、実行力の裏付けがないままにスローガンだけ掲げていると、思考がだんだん鈍ってくるんです。

そうですね。お題目を唱えるだけでは、思考がだんだん鈍りますね。

>「われわれには現状を変える能力がない」という事実認識が、「現状を変える権限がない」という権利問題になり、やがて「現状を変える責任がない」という責任問題にずれ込む。>だって、権限のない人間に責任の取りようがないもの。

意思のあるところに、方法 (仕方) がある。Where there’s a will, there’s a way.
ところが、日本人には、意思がない。意思は、未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には、時制 (tense) というものがない。従って、日本語の脳裏には、未来時制がない。だから、日本人には、意思がない。
意思の無い人には、責任がない。ちょうど、死刑執行人のようなものである。人は死んでも、彼らは殺人罪に問われない。彼らには、殺意というものがないからである。
意思のある人に権力を与えれば、彼は力を発揮する。そして、指導力を発揮することができる。意思の無い指導者は、床の間の置物になる。

>だから、左翼は「米国の支配を脱する」と言いながら、もし実際に米国が日本列島を軍事的放棄した場合に国防をどうするかといったタイプのリアルなシミュレーションをしたことがない。

日本人には、世界観がない。だから、グランドデザインとかマスタープランの内容などは想定外になっている。

> 国防ということを考えたら、反対派もふくめて国民的統合を果たし、敵対者の政治的意見をも代表しうるようなスケールの大きな「国民国家についての物語」を提示できなければいけない。

そうですね。矛盾を含む文章も、その矛盾を取り除けば正しい考えを示すものになる。そのためには、対話・議論が有用です。

>でも、左翼はそういうことは考えないんです。>それだと、さきの戦争に負けたことの責任は左翼にもあるということを認めることになるから。

左翼は、自分自身には敗戦の責任がないと信じているのですかね。左翼は、確実に日本の国内にあって、日本には属していない。

>戦争を始めて、負けたことを左翼もまた自己責任として受け入れるという決断をしない限り、国民的統合は果たせない。

そうですね。意識改革が必要ですね。‘一億一心’ が必要ですね。

>でも、左翼はそのような「責任の割り前」を絶対に受け容れない。

日本人には、意思がない。左翼には、意思に基づく責任感もないですからね。

>あれは一部の軍国主義者たちがやったことで、われわれは純然たる被害者である、と。 >そういう話になっている。

意思の無い人間には、自分の能動的な行為は考えられませんね。自分は、常に受動的で被害者である。そういう話になっている。

>でも、明治維新以来の国民国家としての功罪をまとめて引き受けて、遺産も負債もぜんぶ相続するという決断をしないと、国民国家をまとめ上げて、牽引することはできない。

そうですね。全てを引き受けるか、全てを捨てるかですね。日本人の得意な ‘良いとこ取り’ は、不可能であることを知るべきですね。


.


属国 1/3

2019-07-18 17:04:58 | 政治

> 内田樹の研究室リンクより転載します。
>---------------------------------------------------------
>―日本が「属国」あるいは「対米従属」と言われて久しいですが、今回の在日米軍再編の見直しを見ていても、官僚や政治家は米国の都合に呼応しているだけで、「国益」を追及しているようには見えません。
> 内田 官僚も政治家も、米国の保護下にあるという与件からしか考えない。

そうですね。我が国民は、序列メンタリティに完全に支配されていますね。わが国は、常にアメリカの下にある。

>それ以外の現実がありうるということを考えない。

現実は、唯一つですからね。他に現実はありえない。非現実 (考え) の内容なら、世界観の三世界があります。

>だから、米国に嫌われない国であることが、日本の安全保障にとって最も有効なことなんだと、骨の髄まで信じている。

そうですね。日本の安全保障は、日本人の忖度 (推察) を働かせることにあると骨の髄まで信じられていますね。

> TPP(環太平洋経済連携)でも、日本の国内産業にどれほど被害が出ても、それで米国が喜ぶなら、結果的には日本の国益を利することになるというロジックなんです。 >米国を怒らせたらおしまいだ、と。>これはもう政治家も官僚もジャーナリストも、日本のエリートたちがみじんも疑わないあらゆる思考の前提です。

米国の顔色を読む。腫れ物に触るような態度ですね。政治家も官僚もジャーナリストも外人・非国民・村八分にならないと、この前提は破れませんね。

>  ―沖縄にいると、そうした思考にすごい違和感を覚えます。
>しかし、沖縄のメディアが「それはおかしい」と書くと日本の中で浮いてしまう。

沖縄は、常に別人であると考えられているからでしょう。

> 内田 地方紙はエリートじゃないから、そうした「思考停止」を免れているんでしょうね。>でも、中央では、「日米基軸」という信仰告白をすることが「エリート・クラブ」に入るための入会条件なんです。>だから、彼らの前で、「日米基軸」に対して懐疑的なことを言うと、バカじゃないか、こいつって呆れた顔をされる。

そうですね。思考停止は、国の信仰に通じていますね。
全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。
矛盾を含まない文章は、全て正しい考えを示している。だから、正しい考えは、一つではない。考えの内容は、人様々である。そして、正解も多数ある。
矛盾を含んでいる文章も、その矛盾を取り除けば、正しい考えを示すものになる。だから、矛盾の除去するために対話が役に立つ。我が国民も対話・議論を盛んにしよう。思考停止よ、さようなら。

>―最近は日本政府を見限って米国政府に「直訴」にいく沖縄の国会議員、名護市長、市民団体が相次いでいます。
>「米側の都合」という力学が作用しないと、沖縄の負担軽減の実現は無理という意識が働いているように思います。

そうですね。日本は世俗の序列で成り立つ社会ですからね。わが国は、米国の下である。米国政府のご都合が全てを握ると考えられていますね。責任制度の序列は、国民にまったく信じられていません。日本人の行動は、国際社会では通じないでしょうね。日本の常識は、世界の非常識か。

> 内田 それは沖縄の人たちまでが、中央の官僚や政治家のメンタリティーを内面化してしまったということかも知れません。 >結局「この問題については、決定権を持っているのは米国だ」ということを認めているわけですからね。

責任の所在は、決定権の所在。日本人には、意思がない。だから、優柔不断・意志薄弱に見える。責任も決定権も見えてこない。
意思 (will) は、未来時制の文章内容である。日本語の文法には時制 (tense) というものがないから日本語の脳裏には未来時制がない。それで、日本人には、意思がない。
意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there’s a will, there’s a way. 意思の無い日本人は仕方が無いので、無為無策でいる。この場合、日本人に決定権のあるなしは、問題ともならない。

>米国が「うん」って言わなきゃ、話が前に進まないということに基地反対運動の人たちですら同意してしまっている。>日本政府に交渉能力がないことを事実として受け入れてしまっている。>その方がたしかに現実的ではあると思うんですよ。

相手の顔色を見て判断する仕組みですね。現実的ですね。子供にでもわかる。我が国民は、気の利く人たちの集まりですね。

>でも、日本は独立した主権国家じゃない、国防戦略について、主体的に起案することも実施することも許されていないという痛苦な事実から眼を逸らしてはいけないと思いますね。

そうですね。現在は、我々日本人が自己の意思の表現方法を獲得すべき状態にありますね。そうでなければ、日本人は、国内外において指導性を発揮できませんね。痛苦な事実の解決法を真剣に考えるべき時ですね。


.