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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

私が語る

2019-07-29 15:03:13 | 文化

>田野健 HP ( 58 兵庫 設計業 ) 19/05/04 PM08 【印刷用へ】 >内田樹氏と池上六郎氏の対談集「身体の言い分」という著書の中に言葉に関して書かれている部分があったので紹介したい。 >内田先生が語られている言葉の本質の部分。
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> コミュニケーションにおいて重要なのは、首尾一貫して同じことを言い続けることじゃない。

そうですかね。本人の発言が首尾一貫しないと、つかみどころのない人間になりますね。他人の内容を受け売りするのであれば、その内容は、様々になりますね。

>「互いの声が届く」ということです。>でもこういうことって、なかなか理解してくれる人がいないんですよ。

そうでしょうね。私にもわかりませんね。問題は、話者と聞き手の距離にあるのですか。

>むしろそれとは反対に、どんな場面でも、同じ顔、同じ声で押し通すことがよいことであるという考え方の方が、今ではコミュニケーションについては支配的なイデオロギーですよね。

そうですね。 個人の信用にかかわる事柄ですからね。‘私は絶対に日本人を信用しない。昨日までの攘夷論者が今日は開港論者となり、昨日までの超国家主義者が今日は民主主義者となる。これを信用できるわけがない’ (あるアメリカの国務長官)

>どんな局面でも、どんな相手でも、つねに「自分らしさ」を貫き通せ、と。

そうですね。人格変化を起こしては、信頼されませんね。

>親に対しても教師に対しても目上の人間に対しても庇護しなければいけない人間に対しても、同じメッセージを同じ言葉使いで語り続けろ、と。>そういうことを言う人がいるんですよね。知識人たちの中にも。

そうでしょうね。別に、不思議なことはないですね。

> (中略)
> 今の若い人たちが、単一の「自分らしさ」をあらゆる場で押し出すというのは、谷川俊太郎的にいうと「うるさい」ということですね。

谷川俊太郎氏は、反個人主義者ですか。彼は、若い人たちの個性の内容には興味がないのですかね。

>そのうるささ、その不愉快さというのは「礼儀正しくない」とか「敬意がない」というようなレベルのことではなくて、「私が語る」ということそのものの不快さなんです。

彼は、’滅私’ の世界の支持者ですか。

> 言葉というのは、本来「わたし以外のだれか」が「わたし」の口を通して語るのを「わたし」が聴く、という屈折した経験なわけですよね。

そんなことは、無いでしょう。それでは、受け売りのような内容になりますね。自分の口から他人が出るのはおかしいですね。

>自分の言いたいことがあらかじめあって、それを告知するわけじゃない。

自分の言いたいことがなければ、無哲学・能天気な状態なのでしょうね。

>今自分が何を話しているのか、これから何を話すのかを自分は「知らない」。

‘兎角、この世は無責任’ ということですかね。

>だから自分の声に耳を傾ける・・・・というかたちで言葉に対する最初の「敬意」は生まれるんです。

そんなものですかね。相手の発言に耳を傾けるのが大切ではないですか。傾聴は、発言者に対する敬意を表すことになりますね。

>そうやって自分自身の口から出てくる言葉の「静けさ」を聴く修練を積むわけですよね。

自己の考えの力説は無いのですか。相手の口から出て来る言葉の意味を理解する修練も無いのですか。

>だれが語るのであれ、「わたしではないだれか」が語る言葉は深い響きを帯び、「わたし」が語るときに「うるさい」ものになる。

兎角、この世は無責任ですね。私ではない誰かは、不特定多数の人間ですか。私が語る時でなければ、発言内容にいかなる他人も責任は持てませんね。ですから、他人の考えを絶対化するのはやめた方が良いですね。それは、危険な遊びです。
山本七平は、<ある異常体験者の偏見>の中で、絶対化について次のように述べている。「日本軍が勝ったとなればこれを絶対化し、ナチスがフランスを制圧したとなればこれを絶対化し、スターリンがベルリンを落としたとなればこれを絶対化し、マッカーサーが日本軍を破ったとなればこれを絶対化し、毛沢東が大陸を制圧したとなればこれを絶対化し、林彪が権力闘争に勝ったとなれば『毛語録』を絶対化し、、、、、、等々々。常に『勝った者、または勝ったと見なされたもの』を絶対化し続けてきた―――と言う点で、まことに一貫しているといえる。」と述べています。
つかみどころのない人間は、絶対化のインフレを起こす傾向にありますね。


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世界一の想像力

2019-07-29 02:10:56 | 文化

>345876 世界一想像力があるのに自信がない日本人 >大崎 ( 25 千葉 会社員 ) 19/05/14 AM09 【印刷用へ】 >(リンク
(略)
>■結果を出す人は「目を輝かせ、胸を張り、大きな声を出す」
>「世界5カ国の5000人を対象とした最近の調査によると、日本以外の国の回答者たちは、日本が世界でいちばんクリエイティブな国だと答えました。>ところが、日本がもっともクリエイティブだと回答した人の割合は、なんと日本人がいちばん低かったのです」 >……なんとなく、納得のいく結果ですよね。>ぼくもこの結果を見て「日本人らしいなあ」と感じました。

そうですね。誰もが感じていることでしょうね。

>これはひとえに、「自分たちがもっともクリエイティブなんてとんでもない」、ひいては「自分はクリエイティブな人間ではない」という自身に対する自信のなさのせい、「ブレーキ」のせいでしょう。

‘謙譲の美徳’ というのでしょうかね。自画自賛かな。

>ここでみなさんにお伝えしたいのは、「自信(クリエイティブ・コンフィデンス)がなければ創造性は発揮できない」ということ。>「自分のアイデアなんて」と萎縮しているうちは、創造的にはなれないということです。

そうですね。常に第二バイオリンばかりを奏でている日本人ですね。

>ちょっと思い浮かべてみてください。 >いい切り口の企画を考える同僚、メディアやSNSで見かける起業家、「新しい働き方」を生き生きと実現している人たち。 > 彼らは、自分のアイデアに強い自信を持っているように見えませんか? >目を輝かせ、胸を張って、大きな声でみんなに呼びかけ、行動に移している。 >もちろんそう「見せる」こともアイデアを実行するための戦略のひとつです。>しかし、彼らは間違いなく自分の発想に対して信頼感を持っている。

そうですね。

>そしてこの「自信」が行動につながり、次のクリエイティブを生み出す。 >より創造的になっていくのです。

そうですね。成功の経験が自信につながりますね。

>クリエイティブな人とは、ただ発想力に優れている人ではありません。>自分の主観を信じる力が強い人が、結果としてクリエイティブになっていくのです。

そうですね。意思 (will) のあるところに方法 (仕方) がある。Where there’s a will, there’s a way. ところが、日本人には、意思がない。だから、日本人には能動が無くて受動ばかりがある。他人の後追いばかりでは、自信が持てない。
意思は、未来時制の文章内容である。日本語文法には、時制 (tense) というものがない。だから、日本語の脳裏には未来時制は無く、日本人には意思がない。だが、英文法には時制があり、英米人には意思がある。
日本人には意思はないが、恣意 (self-will) がある。意思の自由は認められても、恣意 (私意・我儘・身勝手) の自由は、認められていない。それは、’自由のはき違え’ になるからである。だから、日本人は、常に自重する必要がある。自分の行動にブレーキをかけていなくてはならない。

>自信と創造性は、ニワトリと卵のようなところがあるんですね。

創造性と自信は、車の両輪かな。
非現実 (考え) の内容を現実の世界で実現すれば、それは創造力を発揮したことになります。現実の世界の内容を現実の世界で再現すれば、それは模倣をしたことになります。
非現実 (考え) の内容を文章にするには、時制が必要です。時制のある文章内容は、それぞれに独立した三世界 (過去・現世・来世) の内容を表すことができます。これらの世界の内容は、何処までも展開可能です。全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。
日本語には、時制がないので、日本人は、自己の考えを文章にすることができない。だから、日本人の文章内容は、論理的な哲学にはならず、支離滅裂な空想・妄想となる。おかげさまでわが国は、漫画・アニメの大国になった。
日本人は、真面目人間にはなれない。いつも浮いた感じがする。ナウな感じで、奥がない。だから、浮世に住んでいる。しかし、常に閉塞感に付きまとわれている。だから、憂世にも住んでいる。これは、昔からそうである。我々は、日本語と共に歩いてきた。

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