>182290 『現実直視のスタンス』って…。 >Silentservice ( 38 会社員 ) 08/07/28 PM10 【印刷用へ】
>>認めるという事が生まれた時に認められないという事も生まれる。 不全は形を変えて存在し続ける。<<
そうですね。物事に関して肯定と否定がありますね。
>るいネットの本来の主旨に、いささか反する見識かもしれないのですが、私は敢えて投稿したくなりました。
>"固定された対象"…が現存する、という事は、それを既成事実として認識しているから、その事象が事実としての存在証明を確定させる…。
現実の内容は、頭の外にある。それは、見ることができる。見ればわかる。唯一の正解がある。考えることは必要ない。これが現実直視であります。
>"現実"が、人々の『意識』を意味すると仮定するのであれば、 果たして『意識』に対する物質的な定義及び、それに基づいた観念は事実足りえるものでしょうか?…
非現実 (考え) の内容は、頭の中にある。それは、見ることができない。ただの話である。話の内容を知るのには、文法に従って文章を理解しなければならない。
全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。
矛盾を含まない文章は、全て正しい考えを示している。考えの内容は、人様々である。だから、正解は一つではない。幾らでもある。
矛盾を含んだ文章も、その矛盾を取り除けば、正しい考えとなる。だから、対話・議論が正しい考えを生み出す助けになります。
観念は、事実ではない。観念の内容は、頭の中にある。事実の内容は、頭の外にある。所在も違えば、内容も同じではない
現実 (事実) の内容は、頭の外にある。それは、見ることができる。見ればわかる。唯一の正解がある。考えることは必要ない。
>必要以上に難しく考えることもないけれども、 『これまでの無数の常識や規範が、根本的に間違っている』という仮説に当て嵌めて現実を再定義するとなると、「見聞(=検分?!)してきた"事実"を鵜呑みにはできない」、という迷いが生じるのは、ごく自然なことな気がします。
仮説は、非現実 (考え) の内容である。考えの内容は、人様々であります。矛盾を含まない考えは、すべて正しい。だから、個人の考えを大切にする必要があります。
> 私個人は、そこの部分を「素人の創造」だったり、「活力」、「可能性」と認識しておるのですが。。。
現実の内容は、頭の外にある。それは、見ることができる。見ればわかる。唯一の正解がある。考えることは必要ない。
見ることのできる内容は、全て ‘本当のこと’ である。見ることのできない内容は、’嘘’ である。これは、日本人 (現実主義者) の ‘嘘・本当’ の判定法であります。非現実の内容の存在を無視した場合の判定法になります。
> 「正しい」、「間違っている」を咄嗟に判断する前段階において、もっともっと掘り下げる(事実追求=探索)のスタンスが、それに相当するんではないのか?、と…。
全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。
矛盾を含まない文章は、全て正しい考えを示している。考えの内容は、人様々である。だから、正解は一つではない。幾らでもある。個人の考えを大切にいたしましょう。
‘正しい・間違っている’ の判断は、観察する時の判定でしょうね。考察の第一歩は、現実の内容と非現実 (考え) の内容を分けて考えることから始まりますね。
>…そういう認識って、変でしょうか?? > 皆さんは、どうお考えなのでしょうか? > 「子供じゃあるまいし…!」 > 「そんな事、常識でしょ?」 >そのようにご理解or判断されますでしょうか??
各人に哲学は、哲学は必要である。Everyone needs a philosophy. 無哲学・能天気ではいられませんね。
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