gooブログはじめました!

日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

イギリスBBC

2019-07-25 21:53:28 | 教育

> 先日、たまたまイギリスBBCのこんなニュースを見ました。> 『Can education change Japan’s ‘depressed’ generation?』 [教育は、’抑圧された’ 世代を変えることができるか] > 簡単に要約します。
> 『将来への夢や希望を持っている若者が、世界と比較すると極端に少ない。

わが国には、何でもあるが、ただ夢と希望がない。

>また自己評価も著しく低い。

‘どうせおいらは、。。。。。’ といった調子である。序列テストの結果が深く根を下ろしています。

> 日本では、幼い頃から、お辞儀の仕方が悪いとやり直しさせられ、机の上の、どこに筆箱を置くかを指示され黙ってそれに従う。>給食の準備も、秩序良く行儀よく一列に並ぶ。

日本人には、意思がない。だから、能動的な動作に乏しい。その能動を補うために、わが国にはあらかじめ作法というものが定められております。
意思 (will) は、未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがない。だから、日本語の脳裏には、未来時制は存在しない。それで、日本人には、意思がない。意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there’s a will, there’s a way. 日本人は、仕方が無いので無為無策でいる。優柔不断・意志薄弱に見える。

>こうした教育を受け続けた若者は、自分の意見を持つことはなく、ひたすら親からいい学校、いい企業に就職することを求められる。

そうですね。日本語には、階称 (言葉遣い) というものがある。それで、’上と見るか・下と見るか’ の世俗的な判定ができなければ、日本語を上手に話すことも難しい。日本人の価値観は、ものの上下で決まると考えて大した狂いはない。個人の一生の価値も世俗的な上下で決められているようである。

>若者は、それに従って特に自分の意見もなく、ある時期になると、安定を求めて一斉に就職活動をする。そこにはチャレンジする姿はない。>もちろん、景気の良かった親の時代の日本のことも知らない。

そうですね。何事も人様並みにすることである。これが作法になっている。

>そして日本の若者は一切の希望を持たなくなってしまった。

そうですね。日本の若者には、夢と希望がない。
日本語は、’写生画の言葉’ であると言われている。その文章内容は、実況放送と現状報告になる。その内容には、現実があって非現実がない。
非現実 (考え) の内容は、頭の中にある。それは、見ることができない。ただの話である。その内容を知る為には、文法を頼りに文章内容を理解しなくてはならない。だから、厄介である。特に、時制ある文章の理解は日本人にとって厄介なことである。非現実 (考え) の内容は、時制 (tense) のある文章内容になる。英文法には、時制というものがあるので、時制のある文章内容は、独立した三世界 (過去・現在・未来) になって表現される。夢や希望は、未来時制の文章内容になる。しかし、日本語の文法には時制がないので、日本人は自己の考えの内容を文章にすることができない。だから、日本の若者には、自己の夢と希望が想定外になっている。
非現実 (考え) の内容を時制のある構文に盛り込むと、哲学になる。各人に哲学が必要である。Everyone needs a philosophy. 考えの内容を時制のない構文に盛り込むと、矛盾と共存する ‘空想・妄想’ となる。日本語には時制がないので、人々は無哲学・能天気の状態になっている。だから、日本人は真面目人間にはなれない。だが、お陰様でわが国は、アニメ・マンガの大国になることができた。

>これを教育で変えないといけない、ということで政府が教育改革を始めている。』

我々日本人の無哲学・能天気を解消する有効な手段が見つかると良いですね。

>ざっくりこんなことが書かれています。(もし違っていたら、ご指摘お願いします!)
(略)


.




武田邦彦氏

2019-07-25 14:14:05 | 社会

>299332 人の話を聴かない若い人の登場 >新聞会 14/12/18 PM07 【印刷用へ】>武田邦彦のブログリンクより転載します。
>---------------------------------------------------
>かつて、私が若い頃の日本社会では「人の話をよく聴かない」というのは、決まって年配の男性だった。
>自信が強く、頑固で、自分が国会であり、裁判官だという意識があり、パターナリズム(家のことも自分が決める)という意識が強かったので、人の話を聞かなくてもさして困らなかったからだ。

家長独裁の世の中でしたね。

>ところが、最近、若い人が人の話をよく聴かなくなった。

若者も、父親に似て来たのでしょう。

>20年ほど前に学生と話をしていて気がついたのだが、それがだんだん、年齢が高くなって最近では40歳ぐらいまでの人、男女の区別なく、人の話を聴かない。> 具体的なことはここでは省略するけれど、その原因は二つあるように思う。>一つが「マニュアル人間」で、きわめて視野が狭く、「自分が言ったり、したりすることはこれだけだ」と決めてかかっていて、何を言っても同じ返事が返ってくるケースである。

思考停止の人間でしょう。

>もう一つが、「仲間人間」で、いつも仲間内だけで話をしているので、始めて会う人や年齢が違う人の言うことが理解できないタイプだ。

司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調しています。
「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」

>こちらは正しく日本語で話しているつもりなので、「落ち着いてよく聞いてください」と言ってしまうことがある。>「最初から話しますね」とか、「ゆっくり聞いてください」といっても、上の空で聞いている。>おそらく私とあった瞬間に自分の頭の中に浮かんだ「この人はこういうはずだ」という直感から逃れることができないように見える。

非現実 (考え) の内容は、頭の中にある。それは、見ることができない。ただの話である。その話が分かる為には、文法に従って文章内容を理解しなくてはならない。これは、骨の折れる話である。だから、日本人は、通常 ‘理解’ はしない。’忖度’ (推察) を使ってその場をしのいでいる。
しかし、理解と忖度では、甚だしくその内容が違っている。理解は、話者の内容が理解の中心になっている。忖度は、聞き手の内容が関心の中心になっている。理解は現実直視になっているが、忖度は現実直視になっていない。だから、理解した人と忖度した人 (空気の人) では、話が合わない。議論が出来ない。
山本七平は「『空気』の研究」のなかで、そのことを指摘しています。
「驚いたことに、『文藝春秋』昭和五十年八月号の『戦艦大和』でも、『全般の空気よりして、当時も今日も(大和の)特攻出撃は当然と思う』という発言が出てくる。この文章を読んでみると、大和の出撃を無謀とする人びとにはすべて、それを無謀と断ずるに至る細かいデータ、すなわち明確の根拠がある。だが一方、当然とする方の主張はそういったデータ乃至根拠は全くなく、その正当性の根拠は専ら『空気』なのである。最終的決定を下し、『そうせざるを得なくしている』力をもっているのは一に『空気』であって、それ以外にない。これは非常に興味深い事実である。」と書いています。
理解と忖度の区別は重要ですね。忖度による主張は邪道です。

>それはちょうど、現在の日本を覆う錯覚、「タバコを吸うと肺がんになる」、「副流煙は危険だ」、「減塩食はヘルシーだ」、「脂っこいものは避ける」、「コラーゲンの食事をとるとお肌や関節に良い」、「石油は枯渇する」、「地球は温暖化している」、「大麻は麻薬だ」などと同じで、情報が多岐にわたり、悪い専門家がいて、短絡的な情報を流し、それを咀嚼できない社会の縮図でもあるように思う。

そうですね。忖度ばかりで、理解がない。咀嚼できない社会の縮図です。

> 仲間内だけの暗号のような日本語、考えずにやることだけを教えてくれという人たち、環境の国家試験では未だにリサイクルが資源を節約できるという回答をしないと正解にならないというウソの世界・・・その中で若者は「俺たちの世界以外は知りたくない。>知るとバッシングを受ける」とおびえているように見える。

若者にも ‘理解と忖度’ の区別が必要ですね。

> 日本は民主主義であり、言論の自由が保証されていて、さらに誠実で礼儀正しい日本文化という宝を持っている。

そうですね。しかし、民主主義は、衆愚政治になりやすい。
言論の自由が保障されていても、正しい言論そのものの見分けがつかない。
日本語には、階称 (言葉遣い) というものがある。’上と見るか・下と見るか’ の世俗的判断ができないと、日本語の会話にも不自由します。そのうえ、日本人の礼儀作法も序列作法になっているために、上下判断が疎かでは礼儀正しい日本人にもなれません。’人を見損なってはいけない’ と言う想いが高じて強迫観念の域に達しているために、神経をピリピリさせている人が沢山います。おびえていては、神経がつかれます。

>でも、それもお上に類する大臣、高級官僚、東大教授、NHKなどが次々と破っていては若者が怯えるのも止むを得ないかも知れない。

わが国は、序列なきところには礼儀なしです。暗い夜道は、恐ろしい。

> 基本的な道徳が守られず、村の中の小さな「モラル」というものが過度に強調されるなか、若者はまた怯えて社会から遠ざかろうとしているように感じる。

そうですね。日本人には意思がない。だが、恣意 (私意・我儘・身勝手) がある。恣意はバラバラな単語 (小言・片言・独り言) のままで存在し、文章内容にはならないから意味も無い。恣意の人に絡まれたら、若者はどうしようもない。だから、非理性の序列社会は恐ろしい。

>-----------------------------------------------
>以上です。


.




イェール大

2019-07-25 03:05:50 | 教育

>国語が苦手な生徒が増えているのはもう明らか。

特に外国人には日本語に難渋する生徒が多いですね。

>しかし、安倍晋三政権が進めている改革では「英語教育」の強化が掲げられています。>2020年をメドに、英語教育で話す・書く能力が今より更に求められるようになるそう。

仕方がないでしょうね。世の趨勢ですね。

> 日本語もろくにできないのに、他の国の言葉を身につけられるようになるのでしょうか? 

日本語と他の外国語は、習得に関係がないでしょうね。

>この不整合感に着目した記事を紹介します。 >リンク  >(以下、抜粋)
> *********************************
> 英語を苦手にしているのは個人のせいではなく、学校における教育法がズレていたから……。>知識偏重の英語教育が、私たち日本人の英語をいびつなものにしています。

漢文を読むような調子で英語学習をしていたら、英語もいびつなものになるでしょうね。

>■イェール大で感じた日本との「決定的な違い」
> 大学でも高校でも、作文の指導をまじめにはやっていません。

これは、日本のことでしょうね。

>イェール大学で東アジア専攻の主任をしていたとき、一般教育の全体を取りまとめる担当者と話したことがあります。 >その人は、大学として作文教育に力を入れているということに非常に強いプライドをもっていました。

‘文は人なり’ ですかね。

>ところが、日本の有名大学、有名高校で「わが校の誇りは作文教育です」というところを見たことがありません。

そうですね。日本人は、歌詠みの方により関心がありますね。

>これは英語に限ったことではないと思いますが、自分の主張を明確に訴えて論理的に説明する、できればデータを引用するとか根拠をつけて説得力ある文章を書くことは、誰でも身に付けなければならないスキルでしょう。

そうですね。
英文法には、時制 (tense) というものがあります。時制のある文章内容は、非現実 (考え) の内容を表しています。
非現実 (考え) の内容は、三つの独立した世界 (過去・現在・未来) の内容を表しています。これらの三世界は、はじめは白紙の状態です。思春期になって言語能力がついてくると、英米人は自分なりにその内容を埋めることになります。これらの内容は、世界観 (world view) と呼ばれています。自己の世界観を基準にとって現実の内容を批判すれば、その人は批判精神を示したことになります。日本語には時制がありませんので日本人に世界観は無く、批判精神もありません。だから、作文能力の必要性もないことになります。全ての考えは文章になる。文章にならないものは、考えではない。歌詠みは、考えではありません。

>それがどうもなかなか……。
>■活躍するには言語だけではなく、「文化」も身に付ける
(略)
>イェールの日本語の授業は本当に徹底していて、キャンパスで日本語の先生に会うと「○○先生、こんにちは」と言って会釈しないといけないんです。

日本語には、階称 (言葉遣い) というものがあります。’上と見るか・下と見るか’ の世俗的な判断ができないと、正しい日本語が話せません。また、日本人の礼儀作法も序列作法になっているので、世俗的な序列判断が不足すると、礼儀正しい日本人になることもできません。’人を見損なってはいけない’ という想いが高じて強迫観念の域に達している人も少なくありません。ですから、日本人は、ピリピリしなくてはなりません。頑張ってください。

>日本の文化、ビヘイビアから言葉に合わせて「○○先生、こんにちは」とお辞儀をしないと減点になるんです(笑)。

序列社会は、緊張を要する社会ですね。これを誇りにして良いのやら、悪いのやら。

>やはり、言葉は体の動きが連動しないとダメなんですね。

アメリカ人のしぐさをまねていると、英語も上手になるのかしら。
> *********************************


.




ゼロから

2019-07-25 00:01:50 | 教育

>80567 教育もゼロから新しい供給者を育成してゆく仕組みが不可欠 >高田敦 ( 30代 塾講師 ) 04/11/09 PM01 【印刷用へ】
>>受験生の多くは、実はもう従来の受験勉強や学歴がこれからの社会では役に立たない事を感じているのではないでしょうか。<<

そうでしょうね。序列社会の行き止まりですね。

>>それよりむしろ、「社会」を感じられる様な話や体験こそがこれからの役に立つと思っているのだと思います。<<

人間同士の対話が必要ですね。

>>これからの教育産業にかかる期待も、まさにそこなのではないでしょうか。<<

そうですね。しかし、その体得者が不足していることが問題ですね。

>> 私権社会を勝ち抜くための詰め込み学習なのではなく、これからの社会を対象化し、答えを示せる認識の提示こそが、今の教育に求められている内容であり、そこではじめて「学ぶ」活力も沸いてくるのだと思います。<<(80483) 

そうですね。序列競争では、社会を対象とした答えを出せませんね。詰め込み教育は、役に立ちませんね。

> 2002年から文部科学省は、子どもたちの"学びからの逃走"の主因が従来の知識偏重の詰め込み教育や過激な受験戦争にあったとして、その反省を踏まえて新学習指導要領の志向する「ゆとり教育」のもとで「生きる力」を養おうとしてきました。

知識偏重の詰め込み教育は、序列判定の手段として使われてきましたからね。過激な受験競争は、その決着点になりました。 

>また改訂では、「生きる力」の育成を目指し、各学校が創意工夫を生かして、これまでの教科の枠を超えた学習などができる「総合的な学習の時間」が新設されます。

現実の内容を現実の中で再現すれば、それは模倣したことになります。
非現実 (考え) の内容を現実の中で実現させれば、それは創造したことになります。
我々日本人は、模倣力に優れ、創造力に乏しい。

>「総合的な学習の時間」は、これまでとかく画一的といわれる学校の授業を変えて、①地域や学校、子どもたちの実態に応じ、学校が創意工夫を生かして特色ある教育活動が行える時間、②国際理解、情報、環境、福祉・健康など従来の教科をまたがるような課題に関する学習を行える時間 、として新しく設けられています。>(具体的には自然体験やボランティア活動などの社会体験など体験的な学習や問題解決的な学習が行われます。 >また、グループ学習や異年齢集団による学習、地域の人々の参加による学習や地域の自然や施設を生かした学習などの多様な学習が行われます。) 

暗記偏重でなく、自己の体験から学習することが必要ですね。自己の非現実 (考え) を文章内容にして示すことも必要ですね。全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。経験のある ‘考える人’ になりましょう。

>しかし、現在も算数や数学、あるいは理科嫌いに象徴されるように、子どもたちの"学びからの逃走"は解決していません。

全ての学びは、序列競争のための道具立てですからね。子供たちは、序列競争から逃走しましたね。

(略)
>子どもたちの苦しみは、一刻も放置しておけませんが、かといってこの問題が、学校教育の制度的改変などで解決に向かうような根の浅いものとは、到底思えません。

そうですね。同感いたします。これは、序列社会の悲劇ですね。

> 子どもたちの不登校や問題行動、"学びからの逃走"傾向といった病理の背景には、学校に限らず地域や家庭など、社会総体が本来有しているはずの教育力の衰弱という根因が巣くっていると思います。>人とは、広い意味での教育(≒共認)によって人に成ることのできる存在であるとすれば、人が真に成熟していくためのシステムそのものが、現在のわが国では、機能不全に陥っているのではないでしょうか。

そうですね。日本人は、 ‘考える人’ にはなっていませんね。

>その機能不全が、子どもという最も弱くかつ鋭敏な部分に集約的に噴出しているのであり、その意味では「子どもは社会の鏡」であるという古来の知恵は、我々が教育について考える際に絶対に忘れてはならない鉄則だと思います。

そうですね。我々日本人は、鏡の中で序列思考の虜になっていますね。

(略)
>しかし、この教育再生需要に応えるには、旧観念を突き抜け新概念を自在に使いこなせるような供給者も不可欠になっています。

日本人には、日本語と英語の勉強が必要ですね。意思と世界観の内容は非現実 (考え) の内容であり、時制 (tense) のある文章内容として表現されます。英文法には時制がありますが、日本語にはありません。‘あるべき姿’ の内容も、未来時制の文章の中で表現が可能です。日本語には未来時制が無いので、英文で理解する必要があります。だから、我々には、語学の勉強が必要です。英米人は日本語を話していても、日本語による閉塞感に襲われることはありません。考え方は、他にもあるからです。我々は、日本語の世界に閉じこもることのないように努力することが必要でしょう。

>現在の教育の敗北は、大きな社会構造や供給者の認識を変えずに学校教育の制度的改変などで解決しょうとしている点であると思います。>教育も子どもたちの再生需要に応えつつ同時に供給者を育成する場でもあるはずで、そのためにはゼロから新しい供給者を育成してゆく仕組みが不可欠だと思います。

そうですね。努力しましょう。


.