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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

永野護氏

2019-07-27 10:25:51 | 政治

>猛獣王S ( 不惑 営業 ) 10/06/16 PM09 【印刷用へ】 >『敗戦真相記 予告されていた平成日本の没落』(永野護/著)リンクより部分転載します。
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>●どのようにして戦いに敗れたのか
>次に、第二の敗因として、日本の軍部が自己の力を計らず、敵の力を研究せず、ただ自己の精神力を過大評価して、これに慢心したことを挙げなければならない。

'敗因について一言いはしてくれ。我が国人が あまりの皇国を信じ過ぎて 英米をあなどつたことである。我が軍人は 精神に重きをおきすぎて 科学を忘れたことである'  (昭和天皇)

>これまた戦争の原因であるとともに敗北の原因になっております。

そうでしたね。日本人は、軽率至極でしたね。

>日本の軍部がもう少し敵の力を研究しておったならば、最初から戦争にはならなかったであろうということは前述いたしましたが、既に戦争になってしまった後においても、この態度は少しも変わらず、依然として敵の力量を研究しないで一方的に日本の戦略ばかりを考えていたのです。

そうですね。日本人の独りよがりでしたね。
非現実 (考え) の内容は、頭の中にある。それは、見ることができない。ただの話である。話の筋がわかるためには、その文章を文法に従って理解する必要がある。これは、骨の折れる仕事である。だから、日本人は、通常文章内容を理解をしないで忖度 (推察) に切り替えて、事を処理している。だが、理解と忖度は、全く別なものであることを知らなければならない。すなわち、理解は発言者の内容についての事柄である。それに対して、忖度は、聞き手の内容に関する事柄である。理解は、現実直視になるが、忖度は、そうならない。ここから、日本人の現実離れ・勝手な解釈が始まる。
司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調している。
「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」

(略)
>また、日本で初めて噴進式の飛行機を今年〔昭和20年〕の6月か7月頃に、小泉の中島飛行機の工場で完成したのですが、この時たった一日、数時間、格納庫から外に出しておいたところ、それをもうちゃんと写真に撮ってあり、今度の終戦後、米兵から「今年の何月何日にロケット機を完成しただろう。その時の写真がこれだ」と言って見せられた時には日本の関係者は全く度胆を抜かれたそうです。
(略)
>ところが反対に日本のほうはどうかというと、ちょうど日本でいう「キング」あたりに相当する「ライフ」というような大衆雑誌、それも数カ月遅れたものを中立国を介して手に入れて、アメリカではこんなことを考えているということを種にして戦争しているのですから、その勝負はもう初めからわかっていたというべきでしょう。

日本人は、忖度 (推察) に夢中になっていたのでしょうね。

日本の諜報機関が何故こんなに無力であるかと申しますと、そういうトレーニングが平素からできていないということ、資金的な力が足りないということがその原因でありますが、根本的には相手方の事情を研究しなければ戦争ができないということに対する認識が足りないということに帰着するのです。

日本人の認識不足が根本原因ですね。

>アメリカの諜報網はイギリスのほど有名ではないけれども、今度終戦になってやって来たアメリカの兵隊に会ってみると、実に驚くべきほど日本の事情を知っていて、不勉強な日本の官僚はすっかり音をあげてしまった。

日本人は、‘井の中の蛙’ で ‘大海を知らず’ でしたね。

>米国においては、平素は日本語の研究機関などはたいしてなかったのですが、大束亜戦争になってから、さあ大変だというので、あらゆるところに日本語の研究所をつくりまして、あのむずかしい漢字を覚え、日本の中学校や女学校の教科書をたくさん第三国を通して輸入して、それによって日本の歴史、地理から倫理まで研究して、日本人はどういう人情であり風俗であるか、産物にはどういうものがあるかということを十分呑み込んでから、それに対する手を打ってきたのです。

彼らは、合理的ですね。努力のし甲斐がありますね。

>ところが、日本のほうはそれとまるで正反対で、たいして外国の事情を研究しなくてもいい時には中学校や女学校に英語を正課として置いて、どんなに英語の嫌いな者でも、英語を知らなければ卒業させないということを強制しておきながら、本当に英語が必要になった時には反対に敵性語だといって英語を教室から駆逐してしまった。

日本人は、本当に浅はかな人間ですね。

>極端なことは、英字新聞を読んでいるとスパイだというので殴ったりして、停車場のローマ字すら消してしまった。>米国のやり方とは全く正反対です。

日本人は、その場の気分・雰囲気に自己の判断をゆだねる人たちですね。それは、盲目の判断 (blind judgment) と呼ばれるものですね。
山本七平は「『空気』の研究」のなかで、そのことを指摘しています。
「驚いたことに、『文藝春秋』昭和五十年八月号の『戦艦大和』でも、『全般の空気よりして、当時も今日も(大和の)特攻出撃は当然と思う』という発言が出てくる。この文章を読んでみると、大和の出撃を無謀とする人びとにはすべて、それを無謀と断ずるに至る細かいデータ、すなわち明確の根拠がある。だが一方、当然とする方の主張はそういったデータ乃至根拠は全くなく、その正当性の根拠は専ら『空気』なのである。最終的決定を下し、『そうせざるを得なくしている』力をもっているのは一に『空気』であって、それ以外にない。これは非常に興味深い事実である。」と書いています。

>戦争になってからこそ英語を研究しなければならないのに、逆に英語を禁じてしまったのですから、日本人のやることがいかに不合理で見当違いかということが、それをもってもわかると思う。

それは、英語の話せる日本人が育って、英米人と示し合わせて事を図るようなことがあっては困ると感じたからでしょうね。為政者にとっては、無知な人間は、即ち安全な人間であったのでしょうね。情報交換の可能性の有無が、即ち敵と味方を分ける基準のように考えられていたのでしょうね。

>すなわち相手方の力量とか実情というものを研究しないで戦争をしたのだから、これではちょうど、めくらと目明きが撃剣〔剣術〕をするようなもので、向こうは急所を狙って打ちこんでくるのに対し、こっちは盲滅法に、ただ刀を振り廻すにすぎないので、この勝負は誰が見ても明らかで、到底勝ち目はなかったのです。

そうですね。’彼を知り、己を知れば、百戦危うからず’ ですね。(孫子)

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